ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

楽しかった家族旅行

2010-09-20 17:27:42 | 姉さん
久しぶりに集まった、甥達の家族。子供達は大きくなるのが早い。この間まで、お母さんにしがみついていた、一番年下の男の子が、小学校2年生で、いっぱしの事を言って、親を困らせていた。やんちゃだった年長の男の子は、もう中学2年生になり、落ち着いたものだ。

ここに、姉の三男の家族がいればなアと、ちょっと寂しさを感ずる。

昨日は、早めに宿を立ち、富士五合目に向かった。車3台連なって。

所が、駐車場に入るのに5時間かかると、係りの人に言われた。それで、方向転換して、富士五湖をめぐる事にした。

 

 

天気も良くて、そんなにあつくは無いし、あまり渋滞もしていなくて、気持ち良かった。

せっかくだから、お昼はほうとうを食べようという事になり、“小作”に行く。ここは混んでいた。

総勢14人だったけど、何とか並びで席が確保出来た。美味しかった。

 

その後、“花の都公園”で夕方まで遊んだ。子供達も広場でお父さん達とボール遊び等で楽しそうだった。



私は娘と姉と花畑を散策した。







ヒマワリが見事に一方向を向いているのが不思議であり、可笑しかった。それも、西に傾き始めた太陽に背中を向けて。



久しぶりに、皆で集まっておしゃべりしたり、楽しかった。又、こういう交流を持ちたいね、と姉と話し合った。

林の中の保養所も目にも涼しくて素敵だった。



 








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三連休は家族旅行

2010-09-18 10:36:26 | 姉さん
私の家族4人、姉夫婦の2人 姉の長男家族の4人、姉の二男家族の4人、総勢14人。

山中湖の姉の長男の会社の保養所に集まる。

昔、子供達が小さかったと時は、毎年、私の家族、姉の家族、妹の家族と私達の両親で集まって2泊ぐらいしていた。それぞれが集まりやすい場所という事で、長野県が多かった。

そのうちに、妹夫婦が商売を始めたので、来れなくなり、子供達も大きくなり、それぞれが忙しくなり、私達夫婦と姉夫婦と両親とで、春と秋に温泉などに泊まりに行っていた。

そのうちに、両親が年老いて、旅行に行けなくなったので、主に両親の住む実家に年に何回か行く事が多かった。

私と姉は、時々は二人で温泉などに行っている。

だから、これだけの家族で集まるのは、本当に久しぶりだ。姉の三男の家族は、鹿児島に住んでいるので、来れないのがちょっと寂しい。

三男は息子と同い年で、中学に入るまでは、大阪に住んでいた私の所に夏休みや冬休みになると、何日も泊まりに来ていた。だから、私にとってはもう一人の息子のようであり、息子に取っては兄弟のように思っている。だから、息子は残念がっていた。

天気はいいし、皆に会えるのが楽しみだ。

息子の車が、そろそろ着くころかな。

心の一部では、磐田に東京を応援に行けないのが、ちょっと心残りはするが、きっと勝ってくれるでしょう。




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ねーちゃん、頑張って!

2010-05-28 20:58:25 | 姉さん
愛知県の姉の所にしばらく行って来た。

本当は、連休明け頃に行く予定だったが、職場の私とペアを組んでいる同僚の、田舎に住むお母さんが手術で付き添いに行く為に伸び伸びになっていた。

同僚のお母さんも姉と同じ子宮癌だったが、高齢でお太りになっている為、切って子宮を取り出す事が出来ず、内視鏡手術だった為、術後が良くなく長引き、その間に、姉の抗癌剤治療が挟まり、月末近くになってしまった。

抗癌剤の治療後は、一週間程、苦しく、声も出ず、食も進まず、非常に辛いと言う。死にたいほどに苦しいと。姉の友達で、同じ病気で同じように、抗癌剤治療をした人がいたが、余りの苦しさに1回で止めたそうだ。でも、その人は再発して、今は、「その日まで、好きなように生きる」と言っているそうだ。

姉は、あと1回の治療で終わる。「もし、再発しても、絶対に抗癌剤治療はしない。私も、好きなように生きる」と言う…。

姉が、「やっと、会えた」と非常に喜んだ。

私にとっては、姉は姉妹であり、親友であり、母が認知症になってからは、私にとっての母親でもある。絶対に、いつまでもいつまでも、ずっとずっと、花を愛でながらおしゃべりをして行きたいと願ってやまない。

抗癌剤の治療から、2週間以上が過ぎるので、見た目には以前と変わらなく見える。

ただ、絶対に帽子を離さない。寝る時は毛糸の帽子を深く被って、外出の時には、カツラを、又はその上から帽子を被る。家にいる時には、髪の毛がクリクリと付いている帽子をかぶっている。

可哀想に…。

2回目の治療後に髪が無くなったそうだ。でも、まだ、眉毛もまつ毛も残っている。しかし、鼻毛が無くなったから、鼻水がつーーーと垂れて来ると笑う。

今回、行ったのは、母の事もある。今は、母がディーサービスに通っていた所に入れてもらっている。特養と同じようにしてもらっているが、そこが、3カ月しか、預かってもらえない。姉が元気になったら、引き取って欲しいと言われている。

姉の手術から、来月の半ばで3ヵ月が立つ。でも、姉が、まだ、治療が残っていて、引き取れる状態では無いので、もう、3ヵ月は延長出来るそうだ。

姉が出かけられる状態の時に、何ヵ所かの特養に言って来て、ここならと思う所があるので見に行って来た。

今、母が行っている所が本当は一番いいのだ。歩いても行ける程の近さであり、建って4年程なので明るくて綺麗だし、スタッフの方も明るくて優しい。でも、やっぱり待機が多くてすぐには無理なのだ。

姉が案内してくれた所は、隣の市の豊田市で、ちょっと遠い。でも、やっぱり、4年程前に建てられたので、綺麗で明るい。周りは、田んぼや畑があり、敷地内にも畑や花壇が沢山あり、田舎育ちの母が、心がクリアな時にはいいかなと思う。

今、母のいる所は4人部屋だが、豊田のそこは、一人部屋である。これは、母にとって、とても嬉しい事だと思う。部屋も、そんなに狭くは感じられなかった。ベランダも付いていた。廊下も、どこもかしこもゆったりとしていて、男女のスタッフが皆若い。

こちらの事情を良く分かってくれていて、「何回も足を運んでもらっているので、何とか早くに受け入れられるようにはしたい」と言ってくれたが、こればっかりは…。

来月には、母の状態を、今、母が行っているセンターに出向いて見て来たい。その後、2~3ヵ月は待ってもらいたい、と言ってくれた。本当に、そうなってくれたら有りがたい。

姉によれば、特養なので、母の遺族年金内で収まるだろう、とも言っている。

私がいる間は、朝、母を迎えに行き、夕方送って行った。でも、夕方、「さあ、おばあちゃん、又、行こうね」と言うと、ポロポロと大粒の涙を流す。本当に、可哀想で辛い。

「おばあちゃん、ねーちゃんは癌の手術をして子宮をとったんだよ。今も、時々入院して、辛い辛い治療を受けてるんだよ。だから、おばあちゃんの面倒が見れないんだよ。ねーちゃんの為に、おばあちゃんも、老人のホテルで我慢して頑張ってね」と、何回も何回もユックリと話す。

「それに、今、ねーちゃんは髪の毛が無くなって可哀想なんだよ。」と言ったら、「可哀想に、可哀想に」と。「だから、老人のホテルで頑張ってね」「うん、分かった」と納得してもらう。でも、直ぐ、忘れるから何回も話す。

そして、「ねーちゃんは子宮を取ったから、もう、赤ちゃんは産めないんだよ。可哀想だね」と言ったら、おばあちゃんは、笑ってくれた。

年を取るという事は、本人も周りも辛くなって行く。姉と、将来、子供達には辛い思いをさせたくないね。自分の始末を自分で出来る内に行きたいね、と話し合ったが、こればかりは…。

ねーちゃんも、ばあちゃんも、ガンバレ!!
私が付いてるよ!





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ねーちゃん、ガンバレ

2010-04-29 11:14:43 | 姉さん
姉が、子宮癌の手術をして、もう少しで三か月になる。

去年の秋に子宮癌を含めて、健康診断をしていたのに見つけてもらえなかった。12月の半ばに、具合が悪くなって病院に行ったら、直ぐに手術をした方がいいと。それも、そこの病院では出来ないと言われた。

別の病院で、2月の初めに手術をした。私は一週間泊まり込みで、彼女のそばにいた。

あれから、約3週間の間を開けて、白血球を調べて抗癌剤の治療をしている。

死にたくなるほど、辛いと言っている。

抗癌剤の治療は6回の予定で、今、4回終わった。だんだん、辛さが酷くなると…。

来月に入ったら、姉の所に行く予定だったが、職場の、私とペアを組んでいる人のお母さんが、姉と同じ病気で手術をする事になり田舎に帰った。帰って来ないと休めない。彼女のお母さんは、お年なので、身体も心も弱っていて、なかなか帰って来れないでいる。

姉の所に行くのが、来月の中頃から終わり頃になりそうだ。

今、毎日、姉にメールを送っている。ベランダの花や、近所の美しい花だったり、美しい里山の佇まいだったり。外を歩いていても、オッと思ったら携帯で写真を撮っている。

そして、新聞や本の中の、ちょっといい話とか。

ちょっと前に流行った絵手紙がわりに、携帯メールで元気付けている。

頑張っている姉に、ガンバレとは言えないから。

抗癌剤の治療が終わって、体力が回復したら、姉夫婦と私達夫婦と、田舎に帰ってのんびりする予定だ。

今年は、私も健康診断をしなければと思っている。
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舘山寺温泉

2010-03-27 10:09:50 | 姉さん
姉の家族と温泉に行く時、よく、ここを利用する。東京からも近いし、姉の所からもそう遠くは無いので。姉が母を連れて、何回か泊まりに来た。

今回も、姉が、母を連れて行くかどうしようかと言ったけど、今回は、姉がゆっくりする為に母には我慢してもらった。

二晩、泊まったけど、ずっと雨だった。帰る日だけいい天気になった。でも、その方がゆっくりと姉と話が出来た。

初日
 


二日目
 

帰る日、桜も咲いていた。
 

抗癌剤治療が辛いと言っていたので心配していたが、いつもと変わらない明るい姉がいて安心した。全然、やつれていなくて、反対に引き締まって若くなったような…。

もう、化粧をするのがイヤになったから、素っピンで来たと笑う。車から降りて来た時は、帽子を目深に被り、マスクをしていた。だから私が、「ねーちゃん、サングラスしないと完成しないよ。そうしたら、完全に怪しい人の出来上がりだね」と言ったら、姉は楽しそうに笑った。

姉と楽しくイロイロな話をした。二人で、時には夫達と、姉の病気の事など忘れて、昔の事、今の事、未来の事、いつもの楽しい話で盛り上がった。

雨に降り込められて、温泉に浸かり、お茶を飲みながら、夫達は昼寝をし、のんびりとした時間を過ごした。

お互いにリフレッシュして、西と東に、日常へとサヨナラした。
近々、母の事で、姉の所に行く事を約束して。

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浜松へ向けて

2010-03-24 10:02:35 | 姉さん
姉夫婦と私達夫婦で、浜松の舘山寺温泉て宿泊する事にした。

姉の癌摘出手術後の苦しい治療の慰安を兼ねて。

三週間に一度の抗癌剤治療は非常に苦しいらしい。可哀想に、もう、ほとんど髪も抜けたらしい。

高速バスで、次の搭乗地の渋谷に向かう途中、バスの中で警報音が鳴り響いた。ビックリ!!。

運転手さん曰く、「空気漏れの警報が出てます。取りあえず、渋谷まで行きます。」と。

バスは、大きな警報音と共に、のろのろと進む。途中、信号で止まるたび、動き出すのに時間がかかる。坂道で止まらないで、と思いながらも、渋谷の高速バス発着場に着いた。

ここで、代替えのバスを呼び、乗り換える事になった。

こんなアクシデント、初めて。

50分遅れで、雨の東京を出発した。道中、何も無い事を願いながら。
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やっと家に帰る

2010-02-08 19:59:59 | 姉さん
姉は見違えるように、元気になったので家に帰る事にした。

しかし、本当にビックリした。まさか、あの元気一杯の姉が、誰よりも健康そのものだった姉が。急に入院したその週末にも、友達と泊りがけで山に行く事にしていたという。

入院した近所の総合病院で、診察してくれた女医さんに「初めて見る症例です」と言われ、隣の市の大きな病院を紹介された。

手術をして下さった先生の説明でも「珍しい症例です。」と言われた。

「さすがはねーちゃん!」と、翌日ハッキリ目覚めた姉に言って笑った。

皆に、「手術後2~3日は痛みで苦しむわよ」と言われ、覚悟していたが、手術した夜も良く寝ていた。看護師さんが何回か見に来て「痛くないですか?痛かったら痛み止めを出しますよ。我慢しないで」と。

結局、付き添っていた私は楽だった。

手術後の翌日は、「ベットから降りないでください」と言われ、ほとんどウツラウツラしていた。私は本を読んだり、音を小さくしてテレビを見たり。

二日目は、歩くように言われて手伝ってユックリと廊下を歩き回った。本当に手術したの?と言うくらいにしっかり歩くので、看護師さんもビックリしていた。

普段、鍛えていたからかしら。

病院では、相部屋だと見舞いの人は病室のフロアに入れない。面会室や談話室で、患者と話をする。

その点、個室は自由だったので、おしゃべりも存分に出来るし、見舞いの人も制限もなく入れた。

私は折りたたみのベットを借りてずっと姉と一緒にいた。看護師さんに「今日も泊まりですか」「はい、住みついています」と。一緒に笑った。

シャワーも付いているし、食堂もコンビニもあるし、暖かいし、姉は穏やかだし、日々の雑事から解放されて、読書三昧で、姉には悪いけど、私にとっては良い骨休めになった。

先生の説明では、「本当に初期の段階だったので、安心して下さい」と言われた。「ただ、詳しい検査の結果は一週間後に出るから、それを待ってこれからの治療法を考えましょう。」と。

姉に、どんな人でも、先の事なんて分からないのだから、考え込むのは止めようね。医者が大丈夫と言うんだから大丈夫よ。これからの人生はお互いに楽しい事を考えて行こうねと。

来月、姉夫婦と私達夫婦と、温泉にでも行く事にした。

ねーちゃん、人生を楽しもうね。

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姉の手術を終わって

2010-02-04 15:05:40 | 姉さん
昨日、姉の手術は無事に終わった。

姉は、駆けつけた近くに住む姉の長男夫婦と、私と義兄に見送られて、手術室への扉を手を振りながら歩いて行った。私達も「行ってらっしゃい」と手を振った。

5時間は長い。長かった。

術後、先生は私達に手術の説明をした。摘出した子宮を見せながら。

ドラマと違い、初めて人間の臓器の実物を見た。目をそらしそうになった。

「これが癌で、これが肉腫で。このように癌と肉腫が混在していたのは珍しいです。」

子宮の大きさに比べたら、それは多いなと思った。

「癌は子宮内の方に増殖しいて、筋肉の中の方には今のところ確認されていませんから、安心して下さい。」と言われて安心した。

手術での出血も少なく輸血はしません、と言われて安心した。後は、治療方法を決めて一週間で退院出来るそうだ。

本当に良かった。

昨日の夜は何回も看護師さんが来たので、私も眠れなかった。

姉がよく眠るので私も、した事の無い昼寝をしている。
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明日は姉の入院先へ

2010-02-01 20:14:08 | 姉さん
姉の手術の日が決まった。節分の3日に手術をする事になり、私は明日、姉の所に行く。

電話の声は、いつもの元気一杯の姉の声とは全然違う。力の無い、小さな声でボソボソと話す。抱きしめてあげたいほどに。

誰よりも元気一杯だった姉。山が好きで、色んな山に登りに行っていた。その為に、普段も鍛えていた。食べる物にも気を使って。

それに比べて、私なんて、結構、いい加減だった。なるべく階段は上り下りしているが、自分が食べたい料理をし、健康にいいと言われても、食べたくないものは食べない。

姉は人間ドックにも入ったりしているのに、私は会社を退職してから、健康診断も受けていない。今年は、検診をしようかな。

姉は息子が3人いるが、女の子がいたらよかったなと、つくづく言っていた。こんな時はやっぱり同性の方がいいと。でも、お嫁さんでは気を遣うしと。

私の娘が「大丈夫。私もいるから。ねーちゃんにそう言って。お母さんがダメな時は、私がいるから」と、言ってくれている。小さい時から自分の娘のように可愛がってくれたので、伯母さんというよりは、もう一人のお母さんのように慕っている。

今は無事に手術が終わる事を願っている。


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一時、帰宅する

2010-01-19 14:18:12 | 姉さん
姉が、別の病院に転院して落ち着いたので、一時、帰宅する事にした。

これから、2週間くらいかけて検査をし、手術の日程などを調整するそうだ。だから、又、手術する時に、改めて行く事にして帰宅する事にした。

転院した病院で、私や姉の夫と一緒に先生の説明を聞いた。姉が「去年の秋に、人間ドックに入り、検査してもらったのに何の異常もなかったのですが」と、言うと「検診でも、ドックでも、全ての検査をするわけではないので。特に、子宮は奥の方の検査はやりません」と言われた。

確かに、レントゲンを見ながらの説明では、本当に子宮の奥での病巣だ。ここは、検診の対象外との事。だから検診をしているから、大丈夫と思ってはいけないという事だ。

これから、手術に向けて色々な検査をするそうだ。それで、私が「そう言えば、ねーちゃんはペニシリンはダメな体質だったよね。」と言ったら「よく覚えていたね。」を笑う。子供の頃、母達が話しているのが子供心に相当インパクトがあったらしい。

「でも、今は、もうペニシリンは使わないしね」と笑った。

家に帰った来て、ホッとした。姉の所は寒くて寒くて眠れない程だった。ストーブを点け、コタツに潜っても寒かった。マンションと違って、昔の一戸建ては寒い。姉も母も病院は暖かいので、その点は安心だ。

母と姉が入院していた病院は、3年前に建て替えたという事で、本当に綺麗だった。病室も廊下もどこもかも、床や壁の色もやさしいパステルカラーで明るかった。廊下は広く、休憩室もゆったりとやさしい感じで、看護師さん達も皆やさしく感じが良かった。

全ての階の廊下の壁には、絵が飾ってあった。名前が書いてある絵が沢山あり、それらの絵はクラブや同好会の人達の絵だそうだ。

姉も、何十年と書いているので、飾ったらと言ったら、何と、母の絵を飾ってもらったという事で見に行った。



母が田んぼ仕事を出来なくなった頃、姉が絵の道具と画集と書き方を教えたら、夢中で描き出した。絵が出来上がるたびに、父が額を買って来て、実家のあちこちに掲げた。

素人の気持のままに描く母の絵を、姉も私も好きだ。もう、絵を描く意志も力も無くなった母。

目覚めている時の母の心は、何を考え何を見ているのだろう。彼女の中の時間は“今”しかないように思える。5分前も5分後も、彼女の世界には無いのではないかと思える。

私が話しかけている時は、ちゃんと私を認識している。でも、私がいなくなっても「ふみちゃんは、どこに行ったのだろう」との考えは無いようだ。姉夫婦に、私に会いたいとは言わない。でも、私を見れば「会いたかった」と泣く。父の事を尋ねても「思い出した事も無い」と言う。

彼女が生きて来た膨大な時間の記憶は、どこに行ったのだろう。私の中にある母との沢山の思い出が、彼女の中に見えないのが寂しくて悲しい。






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