ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

母に会いに行って来た

2012-07-21 21:03:54 | 年老いた母
一泊で母に会いに行って来た。

父が亡くなってから安城の姉の所に引き取られていた母。

姉が癌の手術をする事になり、特養に入れてもらった。

その姉も、癌の再発で亡くなってしまい、そのまま特養でお世話になっている。

姉が亡くなった時、私がこっちに引き取ろうと、あちこち動き回り、やっと何とか近くの特養にお世話になれる所まで話が進んだが、夫が急に入院し2ヶ月くらいで亡くなってしまった。

そんなこんなで、母をこっちに引き取る話は白紙になってしまった。

こっちに住んでいない母を、特養に入れるには本当に難しい。

姉が生きていた時は、年に何回も姉の所に遊びに行った。だから新幹線の中で、溢れる思い出で辛くなった。

姉の家は、今、姉の夫が一人で住んでいる。

台所、風呂、トイレ、リビングと綺麗に広くリフォームして、やっと住みやすくなったと喜んでいた姉は、何年住めたのだろう。

山が好きで、旅行が好きで、スポーツが好きで、誰よりも行動派だった。

お仏壇に向かってお参りしていると、止めども無く涙が溢れる。辛い、悲しい、寂しい、会いたい。

姉の夫と、母がお世話になっている特養に行った。

新しいので本当に綺麗な所だ。若いスタッフの方達が良くしてくれる。本当に有りがたいと思う。

いつものように、私を認めると泣きだす。私も、母の手を握り、涙を押さえる。

ちゃんと私の名前は覚えてくれている。妹夫婦が5月の連休に会いに来たが、それは全然覚えていない。

「どうしてここにいるんだろう。」と。一応説明をするが、理解は出来ない。家に帰りたいだろうに帰りたいとは言えない母。

この間までは、「はっちゃんはどうして来ない」 と私の姉の事を言っていたが、今は、それも言わなくなった。

名古屋へ戻りホテルで一泊して、又、電車で安城に向かった。駅に姉の長男の家族が迎えに来てくれ、一緒に又母の所に行った。

母は、私の顔を見て、泣きだした。昨日、私と会った事は忘れて覚えていない。

姉の長男の事は覚えている。

もっと、会いに行ってやりたいと思う。でも、駅を降りてから母のいる特養までが遠い。圧倒的な車社会なので、公共機関が発達していない。バスは、2時間に一本しかないし、バス停も遠い。かといって、駅からタクシーではとても…。

秋に又来るからね、と母と別れて来た。その時、「ハルオさんに会いたい」 と言った。私の夫を大好きだった母。まだ、彼が亡くなった事は言っていない。母に会いに行く時には、いつも二人一緒だった。フッと思い出したのか。

年を取ると辛い事や寂しい事が増えて来るなアと思う。

母のいる特養














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舘山寺温泉にて

2009-03-24 22:09:52 | 年老いた母
二泊三日で舘山寺温泉に行って来た。夫と姉夫婦、そして、姉の所にいる母と。母の誕生日が3月なので、毎年、集まって誕生日を祝ってあげている。


母は、90歳になる。

「おばあちゃん、幾つになるの?」と聞くと「88になる」と言う。88歳からずっと88歳と言っている。一才下の父と、88の米寿のお祝いをしょうねと言っていたが、父の急死で適わなかった。

先月、母は体調を崩して入院した。その時に父が迎えに来たと言う。ところが、どうしても三途の川を渡る為のお金が足らなかったらしい。だから、舟に乗れなかったのだと母が言う。「じいちゃんが連れて行ってくれなくて寂しかった」と言う。「三途の川は貧乏人は渡れないのね」と姉と笑った。

子供に戻って行く母。夜中は2回も起してトイレに連れて行くと姉は言う。ホテルでは私が夜中に起して連れて行った。トイレに行きたくなってからでは遅いので、その前にトイレに連れて行かなくてはなれない。

朝は、自分がどこにいるか分からない。何回も「ここはどこ?」と聞く。「何にも分からない」と言う母は、童女のように微笑む。昔は、厳しくて口答えなんか出来なかったけど、今は、本当に丸くなって可愛いおばあちゃんになった。すっかり、姉に頼りきりになって「はい、はい」と何でも言う事を聞く。

お花が大好きな母の為に、フラワーパークで遊ぶ。














途中で急な坂があり、母の車椅子を「よいしょ、よいしょ」と押していたら、通りがかりの若いお兄さん達が変わって押してくれた。母を連れていると、イロイロは親切と優しさをもらう。それだけで、日本の未来は明るいなんて思っちゃう。

別れる時は、いつも、子供のように涙ぐむ。「また、会いにくるからね。元気でいてね」と手を握り抱きしめる。姉と覚悟だけはしておこうね、と言っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おばあちゃん

2008-08-11 13:10:45 | 年老いた母
今日は姉と二人で、安城から柏崎に移動。電車でとなると、非常に不便だ。昔は名古屋から乗り換え無しで柏崎に行けたのに。

まず安城から名古屋に新幹線で行く。そして、名古屋から長野まで特急。でも、安城から柏崎まで普通乗車券を通しで買えない。安城から名古屋までと、名古屋から柏崎までと二枚買わないといけない。何故なのかを説明してくれたが、損したようで、どうしても納得が出来ない。新幹線と在来線では線路は違うが、一カ所、戻るような場所があるのだとか。変な話。長野で乗り換え、又、直江津で今度は普通電車に乗り換える。荷物を持っての、大旅行に感ずる。

その間、母は老人施設に入ってもらう。

朝、母は目が覚めて、隣に私が寝ていると喜んで涙を流す。「朝は何も分からない。ここがどこなのか、自分が何者なのか。毎朝、泣いてる。目が覚めたら、ふみちゃんがいて、嬉しかった」と泣く。私は、母を抱きしめて背中をさすってあげる。私がいる間の毎朝の儀式。

働き者で明るくて気丈だった母が、小さくなって弱くなって自分では何も出来なくなって、誰かの庇護が無ければ生きて行けない。

母を見てると、年をとって老いて行く事の辛さを思う。母が私の年には、今を想像もしなかったただろう。私だって母の年の自分なんて想像も出来ない。

母は、跡取り長男が戦死したので婿を取った。だから、生まれた家で87年も生活した。姉の所で大事にしてもらっていても、田舎を思い出して悲しく辛くなる時があるのだろう。「ふみちゃん、私は生まれた所で、ずっと住んでたんだねェ」「帰りたかったら連れて行ってあげるよ」「いや、止めておく」

一杯働いて、百姓で苦労して節くれだった手を握りしめ、さすってあげた。

母は迎えに来た、優しそうな介護司に連れられて車に乗った。「おばあちゃん、元気でね。また来るから」と言ったら、すねたように下を向いてしまった。下を向いたまま手を振る。何か、可愛くて笑ってしまった。車が出る時には、こっちを向いて泣き顔で手を振った。

これ以上ボケないようにと、一生懸命に算数の計算集をやったり、いつまでも自分の足でトイレに歩いて行けるようにと、リハビリにも励んでいる。姉に迷惑をかけないようにと。

もっともっと長生きしてちょうだい。時々、話相手に行くから。

実家に帰ったら、家と庭とお墓のお掃除。そして、父にお経をあげてもらわなければならないが、家に「ただいま」と帰ると、父が「おー、よー来た」と、中から出て来そうな気がする。父には、思うように孝行出来なかったと、悔いが残る。まさか亡くなるなんて想像もしてなかった。母だって、いつどうなるか分からない。私だって…。

久しぶりの実家はどうなっているだろう。今、誰も住んでいないが、やっぱり、生まれ故郷は特別な気持ちになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母と会って

2008-01-14 22:53:59 | 年老いた母
姉と同居している母に会いに行って来た。前よりもしっかりして来たように思う。

朝起きても、前ほど「ここはどこ?」状態が酷く無い。目が覚めて嬉しいそうに言う。「あ~あ、一人ぼっちじゃなかった。良かったー」と。私がいる間、毎朝、目が覚めると布団の中で私を見て、そう言いう。何十年も父と二人でベットと並べて寝ていたので、一人で寝るのが寂しいのだ。

「どうして一緒に連れ行ってくれなかったのだ」と、枕元の父の写真立てをバタンと倒す。「どんなに仲がよくても、一緒にはあの世には行けないのよ。父ちゃんは寿命だったんだから。母ちゃんも寿命までは生きないと」 

夜中に一人で起きてトイレにやっと歩いて行く姿を布団の中で見つめながら、なぜか胸が熱くなる。やっと立ち上がり、腰を曲げて杖を突き、漏れるといけないので急いで行く。途中に段差があるがそれは大丈夫だ。母が住んでいた田舎の古い家は段差だらけだった。そこで慣れているのか、段差は平気である。かえって、わたしの方が「痛い!」と思う事がある。

イロイロな事を忘れるのはしょうがないが、それでも、話は前よりもしっかりしたように思う。姉が「話し相手になって、一杯話をしていると頭がハッキリするみたい。それに、最近ディーサービスで体操したりリハビリしたり工作したりイロイロやるみたいで、刺激があるからかもしれない」と言う。最初は行くのを渋っていたので、周2回だったが、今は楽しいからもっと行きたいと言うので周3回に増やしたそうだ。

娘がインドに行った時に買って来た“ぬりえ”を持っていったら、大喜びだった。大人の“ぬりえ”が流行っているが、花や景色で飽きて面白味が無いみたいで。確かに変わっていて絵が面白い。夢中になって塗っていた。又、娘に探してきてもらおうかな。

帰る時、母は「もう、あえないのか?」と涙ぐんで聞く。「来月の母ちゃんの誕生日に今度は、温泉に行く事にしているから、その時、また 会えるから」と言っても、目を瞑って顔を伏せてしまう。「帰るからね」と言っても、子供みたいに手で顔をおおってしまった。「すぐに会えるから。ね。じゃ、コタツにもぐって昼寝しょうね」と、枕を渡した。すぐにコタツにもぐって目を瞑ってしまった

本当に、子供にもどったような可愛い母。でも、やっぱり姉は大変だろうな。私は時々会って話し相手になるだけだけど。よくなる事はないのだから、このままの状態がずっと続く事を祈る。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日、母に会いに行く

2008-01-10 20:43:02 | 年老いた母
姉の所に同居している母に会いに行く。お正月に行きたかったのだが、姉の息子達の家族が来るのでやめて、この連休に行く事にした。

去年の11月初めの父の一周忌に会ってから母に会ってない。父が亡くなってからは、母の事が気になってしょうがない。時々、姉に電話して母の事を聞く。電話の所まで行くのがしんどいらしく、電話には出てくれないので母とは話してない。だから、母に会えるのが楽しみだ。

姉の話では「ちょっとずつ、認知出来ない事が進んでいるみたい」と言っている。「でも、元気よ。私よりも食欲があるから」と笑っている。

昔は厳しくて、なかなか口答えの出来ない存在だった。でも、今は、本当に“かわいいおばあちゃん”になってしまった。抱きしめてしまいたいくらいに・・・。まるで、別人みたいに丸くなって、ホンワリと微笑んでいる。

大正から昭和へ、そして戦争と、その後の辛い時代を生きて来たから余裕が無かったのだろうな。今は何も心わずらう事は無いし、姉は優しく大事にしてくれるし、孫もひ孫もたまに会えは大事にしてくれるし、今が母にとって一番幸せなんだろうと思う。

父が亡くなって、生まれ育った家も、慣れ親しんだ諸々の物達も何一つ持たないで、姉の所に行った。ただ、どうしてもと言うので、いつも使っていた寝具と持てるだけの服だけを持って。

よく、老人は自分の住みなれた家で死にたいと言う。特に年取れば年取るほど、新しい環境になじむのは難しいという。でも、母を見ていると、そんな事も無いのではと思う。本当の母の心は分からないが。でも、「今が一番、幸せ」と言う。

きっと、無口な父との二人の生活が寂しかったのだろうなと思う時がある。娘3人が家を出て、何十年と二人で田舎で暮らしていた。娘達に送る為にお米や野菜を沢山作って。

時々、帰る私達をどれだけ待っていたか。顔一杯に笑顔で迎えた母の嬉しそうな顔と、私達が帰る時の泣き顔を思い出すと、胸が一杯になる。

母ちゃん、明日、会いに行くから待っててね。会ったら、ぎゅっと抱きしめてあげるからね。何時までも、一杯いっぱい長生きしてね。父ちゃんの分も一杯ね

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母がいない日々にもどる

2007-11-05 22:07:57 | 年老いた母
2日に息子の運転で夫と母と4人で実家に行く。息子には母が退院して間もないので、慎重に運転してねと言ったら、後で緊張したと言って笑っていた。

高速のサービスエリアは何処でも、車椅子マークの所に駐車出来るので本当に助かる。ちゃんと屋根も付いているし。でも、息子の車は車椅子のマークも付いていないし、若者の好む車なので誰も乗っていないと正義感の強い人は、ムッとするだろうなと思った。

実家に帰ると、母はどこもかしこも変わらない佇まいに涙ぐんだ。父が亡くなった一年前は庭のもみじの木々が真っ赤に燃えていたが、今年は10枚くらい?しか赤くなっていない。大きな山茶花の木が白い花で満開だったのに、それも、つぼみだけで一輪も咲いてはいない。でも、寒かった。

一周忌の法要には親戚が集まり、一人ひとりと話し合いながら母は喜んだ。皆が、去年よりも元気になったみたいだと喜んだ。父が亡くなった時は、本当に何もかも分からなくなっていてどうしょうと言う状態だったから。

私は夫と息子と4日には帰って来たが、母達はもう一日泊まった。もう会えるかどうか分からない近所の人達と母との時間を持つ為に。

家に帰って来たら、母が居なくなって家の中が広くなったように感ずる。いつもチョコンと座っていた母の場所に母が居ないのが寂しい。夫と二人で食事をしながら「何か、忘れ物をしたみたいで落ち着かないわ」「うん、何か寂しいね」と。

母がアレが不思議、コレが不思議と言っていた事を思い出す。特に「頭の中に、沢山の言葉が書いてあって、その一つ一つをじっと見て考えるのだけど、意味が分からない。どうして分からないのか不思議だ。ふみちゃん、教えて」と言われた事。頭の中に沢山の言葉が書いてあるとはどういう事なんだろうと、時々私も考える。言葉が浮かぶと言うのは分かるけど・・・。

「“かえる”という言葉が頭の中に何回も何回も出てくるのだけど、寂しい言葉だね。どっかに帰るのもそうだけど、土に返るのも“かえる”で何か無常を感ずるね」
夫と思わず「おお!」と思った。そうね、人生には終わりがある、未来永劫には続かない、無常なんだよね。

母さん、短い時間だったけど、一緒に過ごした日々は楽しかったよ。いろいろと計画していたんだけど、入院でダメになったけど、でも、母を連れて来て良かったと思っている。

生まれて初めて、手を握り髪を撫でながら話した時間は私にとっても心温まる時間だった。枕を並べて寝た夜は、「ふみちゃん、トイレ」と起こされトイレに連れて行った夜は、思い出しても愛おしい。

母さん、又、私の所に行きたいと言ったら迎えに行くから、元気で長生きしてね
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の退院

2007-10-31 23:12:44 | 年老いた母
急性心筋梗塞で、救急車で循環器専門病院に運ばれて9日目の今日退院した。

お医者さん・看護師さん・スタッフの方々に、本当に良くしてもらった。

ナースステーション(普通の病院と違ってオープンでほとんど仕切りが無く、低いカウンターにパソコンが置いてある)の真ん前の病室。広い入り口は開放されていて、母はベットに座って一日中、彼等を見ていた。時にはテーブルを入り口に置き、椅子に座り、飽きずに人々の動きを見ていたそうだ。

母と目が会うと、彼等は手を振り、母はニッコリと微笑む。そして、時々は話し相手に来てくれたらしい。新潟弁の母の話が分かったのか。母はいつも看護師さん達とこんな話をしたと話してくれた。

今日も退院の手続きの資料を待っていると、女性や男性の看護師さんがお別れに来てくれた。母はタクシーの所まで車椅子で送ってもらって、「さようなら。ありがとう」と涙ぐんでいた。

夫が最近「おばあちゃんて、何か可愛いね」と言う。本当に私もそう思う。年を取って、こんなに丸くなるなって信じられないくらいだ。

思い出せる事がが少なくなり、思い出せない事が多くなり「だんだん、バカになって行く」と悲しそうに下を向く。「おばあちゃん、こうして話を沢山出来るのだから、悲しむ事無いよ」と手をさする。白く輝く髪をそっと、なでてあげる。

「悪いね、何にも出来なくて。ごめんね、世話になって」「何、言ってるの。おばあちゃんには育ててもらった恩があるもの。今度は私達が世話をする番なんだから。なんも気にする事ないのよ。安心して、私やねーちゃんに任せて」

金曜日には母を連れて、柏崎に帰る。父の一周忌が終われば、又、姉の所で生活する。ホンの三週間ちょっとの時間だったけど、母との時間を持てて本当に良かった。私にとって、大切な愛おしい日々になった。私が母を独り占めにした日々は、又、私自身の過ぎし日々の思い出にドップリと浸った日々でもあった。

「まだ、生きていてもいいのかね」なんて、言わないで。もっともっと元気でいて。まだまだ分かれたくないのだから。「じーちゃんの所に行きたい」なんて言わないで。まだまだ泣きたくない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の入院

2007-10-24 21:25:11 | 年老いた母
母が入院した。朝、出かける時は別に異常はなかった。

夜中にふっと目覚めて「今、ご飯作っている夢を見た。味噌汁を作る所だった。楽しかった」と。母が食事の支度を出来なくなって、どのくらい経つだろう。父は人が来るのが大好きな人だった。そして、突然人を連れて来たり、又、訪ねて来たり。そのたびに、「お昼を食べて行け」「夕飯の準備をしろ」と。母はそれが、何より辛かったと言っていた。

今と違って昔の田舎には冷蔵庫は無いし、たいしたお店は無いし、あるのは野菜だけ。泣きたい時もあったと。食事作りが無理になり、父がやるようになり、本当に嬉しかったと言っていた。でも、夢の中の母は楽しそうにご飯を作っていて、夢の中では何でも出来ると、涙ぐむ。

会社に夫から電話があった。電話をかけて来た事が無いのでビックリした。「朝ご飯を食べないで吐いたから病院に連れて行く。救急車がいいかな」「任せる」

彼からの電話を気にしながら仕事をした。

電話はビックリする内容だった。“急性心筋梗塞”。それもすぐに“カテーテル手術”をするから承諾をと、夫と変わった医者が言う。義理の息子の承諾ではダメと言う。

すぐに手術をしないと危ないし、又、高齢なのでうまく行かない事もあるかもしれないので、覚悟していて下さい。それと、お姉さんと妹さんにも、来てもらうように連絡して下さい。

わー、そんなに酷いの!すぐに電話して来てもらう事にした。

医者に言われた。運が良かったと。発見が早かった事と、救急車が直接この病院に連れてきた事が良かったと。心臓病については有名な病院らしい。

姉や妹が来てから、皆で医者の説明を聞いた。パソコンで手術前の状態と後の状態を表しながら。手術前は、心臓から出ている太い三本の血管の一つが、一部、よく見ても分からない程の糸のようになっていた。「ここが、切れていればもう亡くなっています。ただ、細く糸のように繋がってます。ここを広げたのです」

手術後の心臓は力強く血液を送り出していた。ちゃんと細い所が元の太さになって、心臓の鼓動と共に血液が流れていた。

完全介護なので、付き添わなくていいが、「ここはどこ?」状態の母が心配だ。

今日も会社の帰りに寄った。「おばあちゃん、大丈夫?」と声をかけたら「ふみちゃん・・・」と泣き顔で手を握る。

そして「ここはどこ?どうしてここにいるの?」と。だから、ゆっくりと説明してやる。

しばらく寝ていたので、歩けるか心配していた。歩いてトイレに行けなかったらどうしょうと心配する。「だから、ここで歩けるように訓練して、歩けるようになったら帰れるよ。」と。

先生は、家に帰ると甘えが出るので、前の状態に戻れるまでここでリハビリをしましょうと言っている。本当に、寝たきりになると母も私達も困る。だから、頑張ってね。

帰る時は、母の寂しそうな顔を見ると心が残る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母との時間

2007-10-20 22:35:54 | 年老いた母
朝はここはどこで、どうしてここに来ているのか、を教える事から始まる。

母が私の所に来たいと行ったから、夫と二人で姉の所に向かえに行った。車椅子で新幹線、横浜線、京王線と乗り換えて来た事。母の夫が亡くなったから、今は姉の所で生活をしている事。それら諸々の事をユックリと話す。

一日に何回も同じ事を話す事がある。話しながら、映画「博士の愛した数式」を思い出している。博士は80分しか記憶が持たなかった。母は、「どうして、色んなことを忘れてしまうのだろう。一生懸命、考えても分からない。本当にバカになってしまった」と涙ぐむ。

“記憶する”ってどういう事なんだろう、“忘れる、思い出せない”って何なのだろうと不思議に思う。

「明日は帰るのか?」と毎日聞くので、夫が“東京カレンダー”を作ってくれた。ここに来た日から、父の一周忌の為に実家に帰る日までの。終わったら丸印を付けて行く。来月の2日に帰るので、まだまだある。残りの日数を数えて「一杯、ここに居られる」と嬉しそうに微笑む。

今日はお休みなので、沢山、話し相手になった。同じ事を何回も何回も話し合う。不思議と、そんな事がちっともイヤではない。以前は億劫と思ったのに・・・。なんでだろう。

今は母の事が、すべてに愛おしい。どんなに同じ事を何回も聞いても、着替えるのが時間かかっても、食べるのが遅くても、すてべを脇に置いて、ゆったりと付き合う。

「ごめんね、世話をかけて。昔は働き者だったのに、何で動かなくなったのだろう」「いいのよ、何にも気にしなくていいのよ。親が年をとったら子供が面倒を見るのは当たり前なんだから」と答えながら、母の気持ちを思ってとっても辛くて胸が痛くなる。

母は「夜中にトイレに行って来て、布団に横になると、ああまだ一人でトイレに行けるんだと嬉しくなる」と言う。確かにそう。何よりもトイレに行けれるというのは有難い。もちろん、行動が緩慢なので、もしもの為に紙おむつをしてもらっている。

思いがけなく、母としばらく暮らすようになって、毎日の空気や時間が変わった。自分の越し方行く末を無意識に考えている。青い空、白い雲、緑濃い里山、見える範囲のすべてが美しく感ずる。

あ~あ、生きているっていいな。元気で行動出来る今、精一杯、やさしく生きて行こう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母との日々

2007-10-17 20:28:05 | 年老いた母
仕事を終わり、「ただいま」と玄関を開ける。「お帰り」と、リタイヤした夫が台所から顔を出す。その向こうのリビングから、母がニコニコと「お帰り」と言う。

座布団にチョコンと座り、テーブルに向かいイロイロな事をしている。絵を描いたり、塗り絵をしたり、算数の単純計算をしたり…。

テーブルに写真を出して見ている時があった。子供達の幼稚園や小学校の時の集合写真を見て、子供達をちゃんと当てるのである。親の私でも、どれがウチの子?と探す事があるのに。小さい時はしょっちゅう会っていたので、小さい頃の顔の方が、良く分かるのである。

自分の若い頃の写真を見て「おぉ、若くて美人だったの」と。「じいちゃんも、若くていい男だの」と楽しそうに虫眼鏡で見ている。

お習字をしている事もあった。父の名前を漢字のフルネームで。「じいちゃんの名前は○○義男だの。義が難しい」と言いながら、何回も何回も書いていた。

母が来てから、母と枕を並べて寝ている。「夜中にトイレに行きたくなったら起こしてね」と。夜中に、フっと目が醒めた母は「○○義男って、誰?」と言った。「何か一杯書いたような気がするが」と。「おじいちゃんの事よ。おばあちゃんの旦那さん」じっと考えて「おオ、そうだの。じいちゃんだ」と笑う。

本当に、夜中に目が覚めると色んな事が分からなくなる。私は誰?ここは何処?どうして何にも分からないのだろう。と、辛そうに涙を浮かべる。

「大丈夫よ。朝起きて、ご飯を食べれば思い出すから。だから、安心して眠っていいのよ」と、そっと布団の上から柔らかく撫でる。

私は、昼は会社に行っているが、ずっと夫が面倒を見ていてくれる。感謝している。そして、ゆったりと、母に合わせた時間の流れが、心地よく感ずる。

今、思いがけなく短い間だけど母と一緒の時間を持てて、本当に良かったと思っている。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする