ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

今年の日本を振返る

2005-12-31 18:56:00 | Weblog
早いもので、もう2005年が終わる。一年なんて終わってしまえば、ほんの一瞬の出来事のように思う。年の始めには、「365日、一杯楽しめる」と思った。楽しい事も一杯あったけど、辛い出来事も多かった。

小さい子供達の悲劇には胸が塞がれた。どうして、子供達を殺そうと思う人が育つのだろう。どうして平気で殺そうと思えるのだろう。どうしたら、人間が人間として普通に大人になれないのだろう。どんなに監視を強化しても、どんなに親が子供に付きっきりでも、少年少女達に異常な興味を持つ人がいる限り、人を殺したいと思う人がいる限り、悲劇は繰り返される。子供達が暗くなるまで、平和に遊べた時代は、又、来るのだろうか。

マンション等の偽装問題も、心塞がれる事件だった。私も10年ほど前にマンションを買ったが、そう言う事があるかもしれないなんて、想定外の事だった。「耐震構造、なるほど」「床の厚さ、壁の厚さ、なるほど」「10年、20年、30年・・・後の大規模補修、なるほど」構造問題は、素人にはわからないし、そんな事しか確かめようが無かった。それより、回りの環境や駅までの距離や部屋の方向など、そういう事しか、考えられなかった。

今回の偽装マンションを買った人を“自己責任”だからと、冷たく言う人がいるが私はちょっと違うように思う。服や車を買うのとは違う。利息を入れて6000万以上の借金を背負うのである。事故で墜落する飛行機に乗ったようなものだと思う。もしかしたら、私の問題かも知れないのである。私のマンションだって手抜きをしていないと断定できる保証は何も無いのである。まるで一種のテロ行為のように思う。本当に残酷な事件だと思う。

バブル時よりも多い莫大な収益を上げた銀行は、これにどんな見解を持っているのだろう。私達の税金で不良債権を処理出来、多額のボーナスや退職金を払える銀行にも責任はないのだろうか。私もマンションを買った時、ローンを払う為に一杯ハンコを押した。モチロン、ローンを払い終わるまでは、私の家であって私の家ではない。それは担保を取っている銀行の物である。もし、偽装マンションを買った人達が全員共闘を組んで、ローンは払えないので担保物権を持って行って下さいと、誰も払わなかったらどうなるのだろう。法律的には無理なんだろうな。

振返っても社会的には、悪い事しか思い浮かばない。来年こそ大きな事故や、不誠実な事件がありませんように、除夜の鐘に祈ろう。
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元FC東京の鏑木亨

2005-12-30 17:32:29 | FC東京とサッカー
「17はーーー鏑木、カブゴール!」懐かしい!

今日(30日)発売のエルゴラに、あのカブの特集が載っていた。FC東京がまだJ2だった時、ドレッドヘアをなびかせて疾走していたカブ。私達、皆が好きだったカブ。いつも照れくさそうに笑っていたカブ。J1昇格の宴の後で、信濃町の改札の前の柱に寄りかかり、携帯でずーーーと話し込んでいたカブ。その後、サッカーから離れて、FC東京がらみのグッツ売り場でレジをしていたのを見た事もあったっけ。

松本の「松本山雅FC」にいるとは、風の噂で聞いていたけど、FWとして頑張っていたのね。ちょびっとだけ年を重ねたカブの写真に、なんとなく心が暖かくなった。「FC東京?何、それ?」と言われた頃の選手達は、私にとっては“同士”という気持である。だから、FC東京を離れても、こうして大きく写真入りで取り上げられると、本当にうれしい。

「カブはまだサッカーをやっています!応援よろしくお願いします!」

カブ、応援しているよ。だから、頑張ってクラブをJに昇格してあげてね
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Uー15決勝

2005-12-29 18:44:18 | FC東京とサッカー
FC東京Uー15深川対浦和レッズジュニアユースの決勝を国立に応援に行く。天皇杯の浦和対大宮の前座として行われた。前日の夜、仲間の掲示板に「誰か行かない?」と書いてあったので、決勝がある事を知り、会社も休みに入った事だし行く事にした。

U-15でも、本当に上手だ。こんなに上手だとは知らなかった。特に浦和の方がウチの選手よりも一つ上と思った。足も速いし、良く走る。最後までボールを追うし、トラップもうまい。必ず二人で囲み、マイボールにする。0-2で負けてしまったが、見ていて仕方ないと思った。しかし、浦和のユース、うまいな!でも、この年代の子達はちょっとしたきっかけで、グーーンと伸びるから伸び代が大きいから、この国立で、決勝という舞台で戦ったのは大きいと思う。来年が楽しみ。来年はトップだけでなく、もう少しユースも見に行こう。

しかし、レッズの応援は相変わらずだ。トップもユースも一緒の応援をする。ウチはユースの応援は、この間のフクアリでのユースの試合でもそうだけど、応援の主導権はユースの子達に任せてあった。いつものゴール裏の大人達は、時々、彼らに合わせてコールする。私達のすぐ後ろで応援していたので面白かった。「レッズ大ッ嫌いだ!どこよりも嫌いだ!」と言いながら、楽しそうに応援していた。だから東京のゴール裏はトップの試合の時のゴール裏とは全然雰囲気が違う。次の天皇杯の応援の為に早く来ていた大宮のサポーターのおじさんの方が、いつものゴール裏のお兄さん達よりも一生懸命に応援していてくれたかも知れない。

レッズのサポーターは彼らの目の前のコーナーキックの時、オモイッキリ、ブーイングしていた。試合の前に私達がユルネバを歌った後にもブーイング。私達「相手は子供だよ。子供相手にブーイングしてどうするの。大人げないよ」と突っ込みながら見ていた。確かに、負けるよりは勝って欲しい。でも、この年代はムキになって戦うより、楽しんでほしい。

すべての子供達がプロになるわけではないのだから、まずはサッカーを楽しんでほしい。この、国立で決勝戦を戦えた事を喜んで欲しい。「たくさんの赤い人達の前でサッカーをしたい」と言っていた君達。準優勝だったけど、決勝戦に出れた事はスゴイ事なんだよ。10番の山崎くん、顔をおおって泣いていたけど、もう一つステップアップして大きくなった姿を見せてね。君達も、ユータやヨーヘイのように、トップチームに上がって来れるように頑張ってね。楽しみに待っているから。


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「男たちの大和」と今を思う

2005-12-25 16:06:59 | 映画・ドラマ・小説・マンガ
あの時代、世界で最高の知能と技術で作られた、世界最大・最高の戦艦。今と比べ食料事情も労働条件も劣悪だっただろう。それでも、日本人の名誉と誇りを胸にトップから最下位の労働者まで、出来上がった勇姿を思い描き、戦争に勝利する為に寝ずに働いただろう沢山の人達。いったい、どれだけの人達が携わったのだろう。設計の段階から、材料の膨大な鉄鉱石から鋼鉄を作る事から、そこで働く人達の賄いをする人たちまで。

もう、巨大戦艦の時代じゃない、戦争は戦闘機の時代と反対と批判をする人達ももいた。でも、“大和”は作られた。確かに、あの戦争は終末を迎えつつ、“大和”も無用の長物となりつつあった。

最後の沖縄特攻を命ずる会議で、“大和”の船長達が軍部の偉い人達に「安全な防空壕から出て来て、一緒に“大和”に乗って下さる人はいないのですか?」「・・・」偉い人達は沈黙で答える。

今も昔も偉い人達は、富と権力の影で命令するのみである。沢山の思いと未来を抹殺させられ、船と一緒に海に沈んで行った人達。空襲と原爆に焼かれて死んで行った人達。南方の戦線で飢えで餓死し、コレラや伝染病で無益に死んで行った人達。私の叔父がソ連の戦車に踏み潰されたノモンハン。そして、沖縄戦・・・前線でも国内でも、沢山の人達が死んで行った。

あれから、60年。“大和”を作った知能と技術は、焦土と化した日本の経済を豊かな国へと導いてくれた。ただ、食べる為に必要だった「安かろう悪かろう」の日本製品を、「メイドインジャパン」の世界で一流のブランドに育て上げた。電化製品も車もファッションも暮らし方も、すべての分野で世界の憧れになって行った。物作りの現場の人達の誇り・製品へのプライドが確かにあった。

でも、今、立ち止まって、日本は日本人は変わってしまったのか、普通の常識や知性が無くなってしまったのかと不安になる。バブル後、沢山の企業の不正や消費者への不誠実を目の当たりにして来た。製造業、銀行、JR、政治家や官僚の国民への裏切り。

そして、極めつけがマンション等の偽装事件である。敵を殺す為の戦艦作りに、多分動員でただで働かされたであろう人達が必死になって作った最高の戦艦。かたや、人々が平和に安心して暮らす為の基礎である住宅に膨大な不正をしていたとは。今、ビックリする程の数の欠陥のマンション・ホテルが数え上げられている。もし、発覚しなければ、どれだけの数の恐ろしいマンション・ホテルが作られて行った事か。

物作りの現場で、今、何が起きているのだろう。実際にそれらのマンションを作った現場の作業員達は何を思っているのだろう。ただ、金儲けのために利潤を生むために、効率・効率とムダを省く為にトヨタ方式で、絞り上げられる現場の人達。利益を上げる為に、正社員を派遣やバイトやパートに切り替えて劣悪に働かせる偉い人達。若い人達の為に自分の椅子を明渡そうはせず、若者をパラサイトだニートだと批判している年金需給年齢の高額所得の偉い人たち。自分達が一番偉いと、金で金を稼ぐ人達。

女である事で数々の差別と悔しい思いを社会や職場でして来た身として、腹立たしい思い出一杯である。日本の政界、財界全ての社会で女性を排除し家庭に押し込め、すべて男達に任せておけばいいと。たしかに、豊かな日本社会を作り上げてくれたけど、結局バブルを作り、その後の処理をあやまり膨大な日本の借金を積み上げ、たどり着いたのは、どうしょうもない今と未来への不安感。

この、知性も教養も品性も誇りもプライドもなくした人々を、海の底で“大和”の乗組員はどう思うだろう。若者が結婚せず、子供も生まないのは、こんな日本への無意識のレジスタントかと思う時がある。政治家や官僚や財界人やすべての人達が、自分のあるべき姿に立ち返えり、若者が安心して生活出来る今を作り、そして若者が日本の豊かな未来を想像出来れば、若人達は自分の家族を作ると思うのだが・・・


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男たちの大和/YAMATO

2005-12-23 21:03:57 | 映画・ドラマ・小説・マンガ
戦争映画は基本的にあまり好きではない。アメリカの戦争映画も何本かは見ている。特に、見てみなければ批判が出来ないと、TVで「パールハーバー」を見たが、吐き気がするほど、腹が立った。日本軍の襲撃は、まるでテレビゲームだった。

この映画も「何で今、大和?」「あの戦争を美化するのか!」と批判がある。でも、見てみなければ批判も出来ない。ウチの会社で軍艦・戦艦・駆逐艦・護衛艦・・・等々のオタクがいる。もちろん、彼はこの原作の「男たちの大和」を読んでいる。彼が描いた「大和」の絵は絶品である。その彼が「どうせ、今までのTVドラマや映画と一緒だろ」と言っていた。「でも、見てみないと批判も出来ないよ」と。

私は人一倍、涙もろい。あの「ターミネータ2」で三箇所で泣いた。友達に「泣く映画だった?」と言われた。その後2回映画館で見て、やっぱりその都度三箇所で泣いた。

“大和”では最初から最後まで、ずーーーとハンカチが離せなかった。生き残った内田の娘役の鈴木京香の憂いを含んだ瞳に涙が浮かび、まだあどけない少年兵の憧れの大和に乗り込む誇らしげな顔に涙し、神尾の幼馴染の妙ちゃんのあふれる笑顔に瞳がうるんだ。

昔の記録フィルムも挟み、まるでドキュメンタリーのように淡々と終末へと時は進んで行く。「あんたが帰ってくるまで、広島の実家で待っている。だから、帰ってきたら嫁さんにして」「かっちゃん、絶対帰って来て。私も明日から動員で広島の工場で働くの」

桜の花が咲く中、“大和”は沖縄に向け、特攻出航して行く。「散り行く桜と残る桜。残る桜も散り行く桜」と森脇(反町)がつぶやく。

怪我をして“大和”を降りたはずの内田(中村)に森脇が言う。「どうして、戻って来た。降りろ、そして生きるんだ。沢山の人達が死んだ。生きてこの国を継いで行ってくれる人がいなくては、何の為に俺たちは死んで行くんだ」。

そして、最後の圧倒的な悲劇的な“大和の最後”。今まで見たどの戦争映画よりも、リアリティな戦闘シーン。確かに無数の敵戦闘機が“大和”の回りにいるはずなのである。そして、確かに無数の爆弾が降り注いでいるのであり、魚雷が“大和”に襲い掛かっているのである。でも、そこに映し出されるシーンは戦艦の各所に固定されたようなカメラの目で丹念に、生と死を映し続けるだけなのだ。私達、観客は椅子に釘付けにされたように、ただ目を見開いて彼らの生き様と死に様を、血の海と化す甲板を水柱の雨が洗い流し、そこに吹き飛ばされて叩き付けられる兵隊達を、凍りついたように見ているだけなのだ。私は震えながら溢れる涙をハンカチで抑えながら、傾いて兵隊達を海にこぼしながら沈んで行く“大和”を見つめていた。

ラストにタオルで涙を拭い年老いた大和生き残りの漁船の船長の代わりに、船の舵を握る少年に日本の未来の揺るぎないだろう平和を思った。

サッカージェフ千葉のオシム監督のサッカーについてのインタビューで「日本の子供達にメッセージを」と言われ、たぶんインタビュー者の意図した答えとは違ったと思うが、彼はこう答えた。

「もうすぐ、クリスマスだけど、世界にはクリスマスからすごく離れた存在になったいる子供達がいる。もちろんクリスマスが出来る環境であってほしい。そして、日本に生まれたということは戦争から今、かけ離れている。それは素晴らしい事、ある意味、運をもっていたという事である。みんなが幸せであってほしい」

“大和”を見て、そう言う修羅場をくぐって来たオシム監督の言葉を思い出した。沢山の戦死者(空襲や原爆で亡くなった人も)のお陰で、この60年間戦争のない平和な日本を続けてこられた。いろいろな不安はあるけど、これからも日本が、そして世界が平和である事を、強く願う。
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野ブタ。をプロデュース

2005-12-20 22:35:46 | 映画・ドラマ・小説・マンガ
野ブタが終わってしまった。ストーリーは単純だったけど、修二と彰のコンビが良かった。家では私一人で「野ブタ!野ブタ!」と盛り上がっていた。出かける時は、必ず家族に録画を頼んでいた。

修二と家族の関係も良かった。不思議な関係のお父さんとお母さん。修二がお父さんに「滅多にお母さんに会えないのに、どうして結婚したの?」と聞いたら「お父さんはお母さんが大好きだから。結婚していれば世界の何処にいても、必ずお父さんの所に帰ってきてくれる。それだけで幸せだから」

あ~いいな、いいな、そんな夫婦関係。今、結婚しても直ぐに別れたり、暴力があったり、子供の虐待があったり。夫婦が仲良ければ、親子関係も良好だと思う。修二の家庭も父と息子達、兄と弟も仲がいい。たまに、ホントにたまにお母さんが帰って来ると、もう三人でお母さんの為に何をしてあげようかと、大騒ぎになるのである。それが微笑ましい。

「あ~~あ。終わっちゃった。」と言っていたら、途中から“野ブタ”をチラチラみていた娘がエンデングのテーマ「青春アミーゴ」のCDを買ってきてくれた。

この「青春アミーゴ」は何か懐かしい感じがする。私の遥か昔の青春時代を思い出すのである。いつも何となくウルウルして、エンデングの曲とピンクとスカイブルーのブタちゃんの逃避行をドラマよりも一生懸命見ていた。

娘が「はい、プレゼント」と買って来てくれた「青春アミーゴ」を今、エンドレスで聞いている。若くて、カッコいい二人。又、来年どこかのチャンネルで会いたいな・・・



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フクアリにてFC東京ユース

2005-12-18 22:50:10 | FC東京とサッカー
フクアリに行って来た。寒かった。非常に寒かった。知った顔が沢山来ていた。私と一緒で、トップチームの今年が終わったし、もう、ここしか青赤ユニフォームの試合が見れないと、足を運んだ人も多かったのでは。

前半はウチの方が圧倒的に責め、いいサッカーをしていた。ここで一点決めなくては・・・と思いながら見ていた。一緒に行った友達は、何回もユースの試合を見ているので選手の顔と名前をチャンと覚えていて、癖やプレースタイルをレクチャーしてくれた。

後半、何かムードが変わった。清水の方が良く動くようになった。一歩が遅くなった。バタバタする事が多くなった。最後のシュートへの手間が一つ多い。もっとシンプルにシュートしろ!と。バイタルエリアに入ったら、パスではなくシュートを考えろ!と。コースが見えたらシュートしろ!と。

代表の試合を見ていても、シュートよりパスを選択する方が多いように思う。たしかに走りこんで来た選手にパスした方がゴールの確率が高い場合もあるけど、自分がシュートした方がずーーと確率は高くなると思う。

見ていると、やっぱり東京の子だなと思う。トップチームと同じようなサッカーをする。勝たしてやりたかった。権田くんがピッチに伏せて号泣していた。土肥二世のように立ちはだかってゴールを防御していたのに。2対1で見事に防いだのに・・・。背番号3のDFもピッチに伏せて泣いていた。モニのようにオニのように身体を張ってディフェンスしていたのに・・・。あとロスタイム2分頑張って、PKになれば・・・。

今年のFC東京は、完全にオフに入った。私もスタジアムでのサッカー観戦がオフになってしまった。あとは人のチームのサッカーをTVでマッタリと見るだけだ・・・

“フクアリ”は本当に見やすくて、大きさも手ごろでいいサッカー場だった。車で行ったのでよく分からないが、駅から歩いたら結構あるのでは。車でもグルグル探した。周りの工場に溶け込んで、遠くからは分からなかった。来年の開幕まで、車で行きたいので駐車場がほしい。来年のジェフとの試合が楽しみだ。

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FC東京の原監督のお別れ会

2005-12-17 23:09:40 | FC東京とサッカー
とうとう今日は、FC東京の原監督が、看板を下ろす日。沢山の東京ファンが集まった。始め、寒いので日向にいたが日が翳り、寒くなると共に涙腺も緩んで来た。特に後を向いて、なかなか言葉が出ない涙の文丈さんに涙がこぼれた。

始め原さんが監督として来ると聞いた時、原さんを良く知らなかった。友達が「浦和がJ2に落ちた時、監督していた」と言っていた。「ふ~~ん」と。クマさんの後で、どんなサッカーをするのだろうと開幕を待っていた。

そして、「攻撃サッカー」で始まった開幕の“鹿島戦”のうそのような4-0の楽しいサッカー。小林成光が一番輝いた日。

スローガンはいつも“攻撃”を掲げていたが、攻撃しきれず、ゴールも遠く苦しんだゲームも多々あった。選手達が勝てずガックリ肩を落としていても、原監督はいつもスックと背筋を伸ばして次を見つめていた。

ゲームが終わり、選手達と一緒にゴール裏に来る原監督が好きだった。勝ったら嬉しそうに、負けたらすまなそうに・・・。なかなか、そんな監督はいない。私達ファンを大切に思ってくれ、そして楽しませてくれた原監督。4年間、楽しい日々をありがとうございました。

私は今とっても寂しいです。もう一年、原東京を見てみたかった。でも、別れは必ず来る。“今”で良かったのかも知れない。原監督の為にも、私達ファンの為にも・・・。

アンコールに応えて、もう一度、姿を現した原監督。もし、来年まだフリーであったなら、ぜひ東京のサッカーを味スタに見に来てください。たぶん、私達の東京選手達は、原東京のスタイルを忘れてはいないと思います。
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幼い少女達への残忍な事件

2005-12-13 22:08:51 | Weblog
どうして、こんなに哀しみと怒りに震えるような事件が続くのだろう。

私の子供達が小さかった頃、真っ暗になっても帰って来なくて心配する事が多々あった。でも、心配する事は、川に落ちたのではとか、帰り道が分からなくなったのではとか、楽しくて遊びを止められないのではとか、そんな事だった。玄関の前をあっちこっちウロウロしながら、帰りを待った。幼稚園の兄は、眠くて半分眠りながらヨロヨロ歩く妹の手を引いて、暗くなった道を帰って来たっけ。

私が子供の頃は、田舎の暗闇は怖いものだった。今のように道に街灯は無かった。隣の家に行く時、月明かりも星明りも無い闇夜は、まるで懐中電灯の照らす足元にしか世界が無いようで心細く怖かった。ぼんやりと黒く立ち上がる木々の塊が怖かった。暗闇に潜む幽霊やお化けや魔物が怖かった。

でも、今は夜が明るくなった。24時間明かりのともるコンビニ。一台も車が通らない道にも街灯はある。種々の自動販売機はムダに明るく、幽霊もお化けも魔物も、もう別世界に行っていまった。そして、それに代わるように、現代の魔物は太陽の下でも、沢山の人がいる所でも人々の死角をついて出てくる。そして、黙って刃を振るう。

どうして、人間は人間を殺す事が出来るのだろう。それも、人を疑う事を知らないような“きれいな澄んだ目”の幼い少女達を、その手で殺す事が出来るのだろう。どうして、信頼の瞳が恐怖に変わるのを直視出来るのだろう。

どうしたら、そんな犯罪者に育つのだろう。どうして、いつから、幾つの時から人間の心が壊れてしまうのだろう。それとも、生まれながらに壊れているのだろうか。

どんな親だって自分の子が将来、犯罪者になるなんて子育ての時に思いはしない。それなりに、自分の子供の将来に夢を託しただろうに。犯罪者の親達も死ぬほどの苦しみにもがいている事だろう。

私達大人は子供達が犯罪の犠牲者にならないように、また、子供達が大きくなって犯罪者の側に立たないように、常に近所のそして回りの子供達に暖かい心を向けて行かなければならないのではないだろうか。
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FC東京、原東京劇場の閉幕

2005-12-10 23:52:26 | FC東京とサッカー
とうとう終わってしまった。勝って埼スタに戻ってくれる事を願っていたが、叶わなかった。現地に行けなかったからこそ、切に願っていた。前半、ウチの時間に、決める時に決められていたら・・・。それが出来ていれば、こんな順位ではなかっただろう。でも、選手達の気持ちはTVからも伝わってきた。ちょっと勝ちたいと力が入り過ぎていたかも知れない。

終わって、ゴール裏でファン達に挨拶している、涙の原監督をみているこちらも胸が一杯になった。もっともっと、原東京を見ていたかった。原ジャンプをもっと見たかった。でも、必ず終わりは来る。今年の始め頃、もうそろそろかなとは何となく思っていた。あの、負け続けている時でなく、本当に良かった。思い出が、原東京のサッカーが楽しかった思い出として残るから。

マジメだったクマさんサッカーは、強烈にアマラオとユキちゃんが思い出として残っている。原さんの時代は何と言っても、味スタが私達のホームスタジアムとしてしっくりと馴染んだ時代だった。アウエから帰ってくると、ホーム味スタはホッとした。そこで、嬉しそうにジャンプする原監督もすっかり馴染んでいた。味スタでは、原監督の周りに選手が、そして、その回りに私達、東京のファンがいた。皆が一体になって、東京劇場を上演していた。涙あり、笑いあり、拍手あり、歌あり、悲鳴もあり、その劇空間は興奮の異空間だった。

原さん、本当にご苦労様でした。楽しい数々の思い出をありがとうございました。来週の味スタでのお別れの会では、最後の原ジャンプを見せて下さい。


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