ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

母の退院

2007-10-31 23:12:44 | 年老いた母
急性心筋梗塞で、救急車で循環器専門病院に運ばれて9日目の今日退院した。

お医者さん・看護師さん・スタッフの方々に、本当に良くしてもらった。

ナースステーション(普通の病院と違ってオープンでほとんど仕切りが無く、低いカウンターにパソコンが置いてある)の真ん前の病室。広い入り口は開放されていて、母はベットに座って一日中、彼等を見ていた。時にはテーブルを入り口に置き、椅子に座り、飽きずに人々の動きを見ていたそうだ。

母と目が会うと、彼等は手を振り、母はニッコリと微笑む。そして、時々は話し相手に来てくれたらしい。新潟弁の母の話が分かったのか。母はいつも看護師さん達とこんな話をしたと話してくれた。

今日も退院の手続きの資料を待っていると、女性や男性の看護師さんがお別れに来てくれた。母はタクシーの所まで車椅子で送ってもらって、「さようなら。ありがとう」と涙ぐんでいた。

夫が最近「おばあちゃんて、何か可愛いね」と言う。本当に私もそう思う。年を取って、こんなに丸くなるなって信じられないくらいだ。

思い出せる事がが少なくなり、思い出せない事が多くなり「だんだん、バカになって行く」と悲しそうに下を向く。「おばあちゃん、こうして話を沢山出来るのだから、悲しむ事無いよ」と手をさする。白く輝く髪をそっと、なでてあげる。

「悪いね、何にも出来なくて。ごめんね、世話になって」「何、言ってるの。おばあちゃんには育ててもらった恩があるもの。今度は私達が世話をする番なんだから。なんも気にする事ないのよ。安心して、私やねーちゃんに任せて」

金曜日には母を連れて、柏崎に帰る。父の一周忌が終われば、又、姉の所で生活する。ホンの三週間ちょっとの時間だったけど、母との時間を持てて本当に良かった。私にとって、大切な愛おしい日々になった。私が母を独り占めにした日々は、又、私自身の過ぎし日々の思い出にドップリと浸った日々でもあった。

「まだ、生きていてもいいのかね」なんて、言わないで。もっともっと元気でいて。まだまだ分かれたくないのだから。「じーちゃんの所に行きたい」なんて言わないで。まだまだ泣きたくない。
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多摩川クラシコとはなんでしょう

2007-10-28 22:25:11 | FC東京とサッカー
今日の試合は何だったのでしょう。

昨日の台風がウソのように晴れわたり、まるでFC東京の為に広がったような美しい青い空。ブラジルディーの為、沢山のブラジル人が私達の周りにいた。ブラジルの国旗、東京の国旗、日の丸を楽しそうに振って、陽気にサンバのリズムに身体を揺らす彼ら。

久しぶりに誘った友達と、久しぶりの会話を楽しみ試合の始まりをワクワクと待った・・・。

3点が入った時、友達が言った。「やだー。3点目が入ったよ」「こんな試合、今年はよく見たわ」「4点目が入ったよ」「そうね、今年はよく見たわ」「5点入った」「それも、経験したわ」「6点入った」「昔、高原に目の前でやられたわね」「7点が入った・・・」「それは、未経験ね」

何か、最後の方は坦々と見ていた。悔しさも、腹立たしさも、何も感じなくて。何だろう、コレは。今年、あまりにも不甲斐ない試合を見過ぎたからかしら。

そして、次の天皇杯や新潟戦行きを何事もないように話している私達って、どうよ。回りも、何となく不思議な雰囲気。チラホラのブーイング。チラ、ホラと拍手が聞こえる?回って来た選手達に何と声をかけたらいいのだろうと、立ち竦むサポーター。どこかで子供の声で「元気出して!」

しかし、川崎のゲーム運びは見事だった。最後の方は前と後ろにしか人がいなかった。中盤に白の人はいなかった。6バックとも7バックとも思える程に、しっかりとゴールを守り、奪ったボールは大きく前に蹴り、それを前線で待っているFWがしっかりと仕事する。とっても、シンプルで機能的なゲーム運び。そして、しっかりと皆で分かりあっている。

東京は、いったいどんな練習をしているのだろう。FWはFWの仕事を、MFはMFの仕事を、DFはDFの仕事を、それぞれが原点に戻り、しっかりと戦える力を身につけて次の試合に臨んでほしい。

私は、どんな時でも東京を応援している。

FC東京よ!強い心を!

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母の入院

2007-10-24 21:25:11 | 年老いた母
母が入院した。朝、出かける時は別に異常はなかった。

夜中にふっと目覚めて「今、ご飯作っている夢を見た。味噌汁を作る所だった。楽しかった」と。母が食事の支度を出来なくなって、どのくらい経つだろう。父は人が来るのが大好きな人だった。そして、突然人を連れて来たり、又、訪ねて来たり。そのたびに、「お昼を食べて行け」「夕飯の準備をしろ」と。母はそれが、何より辛かったと言っていた。

今と違って昔の田舎には冷蔵庫は無いし、たいしたお店は無いし、あるのは野菜だけ。泣きたい時もあったと。食事作りが無理になり、父がやるようになり、本当に嬉しかったと言っていた。でも、夢の中の母は楽しそうにご飯を作っていて、夢の中では何でも出来ると、涙ぐむ。

会社に夫から電話があった。電話をかけて来た事が無いのでビックリした。「朝ご飯を食べないで吐いたから病院に連れて行く。救急車がいいかな」「任せる」

彼からの電話を気にしながら仕事をした。

電話はビックリする内容だった。“急性心筋梗塞”。それもすぐに“カテーテル手術”をするから承諾をと、夫と変わった医者が言う。義理の息子の承諾ではダメと言う。

すぐに手術をしないと危ないし、又、高齢なのでうまく行かない事もあるかもしれないので、覚悟していて下さい。それと、お姉さんと妹さんにも、来てもらうように連絡して下さい。

わー、そんなに酷いの!すぐに電話して来てもらう事にした。

医者に言われた。運が良かったと。発見が早かった事と、救急車が直接この病院に連れてきた事が良かったと。心臓病については有名な病院らしい。

姉や妹が来てから、皆で医者の説明を聞いた。パソコンで手術前の状態と後の状態を表しながら。手術前は、心臓から出ている太い三本の血管の一つが、一部、よく見ても分からない程の糸のようになっていた。「ここが、切れていればもう亡くなっています。ただ、細く糸のように繋がってます。ここを広げたのです」

手術後の心臓は力強く血液を送り出していた。ちゃんと細い所が元の太さになって、心臓の鼓動と共に血液が流れていた。

完全介護なので、付き添わなくていいが、「ここはどこ?」状態の母が心配だ。

今日も会社の帰りに寄った。「おばあちゃん、大丈夫?」と声をかけたら「ふみちゃん・・・」と泣き顔で手を握る。

そして「ここはどこ?どうしてここにいるの?」と。だから、ゆっくりと説明してやる。

しばらく寝ていたので、歩けるか心配していた。歩いてトイレに行けなかったらどうしょうと心配する。「だから、ここで歩けるように訓練して、歩けるようになったら帰れるよ。」と。

先生は、家に帰ると甘えが出るので、前の状態に戻れるまでここでリハビリをしましょうと言っている。本当に、寝たきりになると母も私達も困る。だから、頑張ってね。

帰る時は、母の寂しそうな顔を見ると心が残る。
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母との時間

2007-10-20 22:35:54 | 年老いた母
朝はここはどこで、どうしてここに来ているのか、を教える事から始まる。

母が私の所に来たいと行ったから、夫と二人で姉の所に向かえに行った。車椅子で新幹線、横浜線、京王線と乗り換えて来た事。母の夫が亡くなったから、今は姉の所で生活をしている事。それら諸々の事をユックリと話す。

一日に何回も同じ事を話す事がある。話しながら、映画「博士の愛した数式」を思い出している。博士は80分しか記憶が持たなかった。母は、「どうして、色んなことを忘れてしまうのだろう。一生懸命、考えても分からない。本当にバカになってしまった」と涙ぐむ。

“記憶する”ってどういう事なんだろう、“忘れる、思い出せない”って何なのだろうと不思議に思う。

「明日は帰るのか?」と毎日聞くので、夫が“東京カレンダー”を作ってくれた。ここに来た日から、父の一周忌の為に実家に帰る日までの。終わったら丸印を付けて行く。来月の2日に帰るので、まだまだある。残りの日数を数えて「一杯、ここに居られる」と嬉しそうに微笑む。

今日はお休みなので、沢山、話し相手になった。同じ事を何回も何回も話し合う。不思議と、そんな事がちっともイヤではない。以前は億劫と思ったのに・・・。なんでだろう。

今は母の事が、すべてに愛おしい。どんなに同じ事を何回も聞いても、着替えるのが時間かかっても、食べるのが遅くても、すてべを脇に置いて、ゆったりと付き合う。

「ごめんね、世話をかけて。昔は働き者だったのに、何で動かなくなったのだろう」「いいのよ、何にも気にしなくていいのよ。親が年をとったら子供が面倒を見るのは当たり前なんだから」と答えながら、母の気持ちを思ってとっても辛くて胸が痛くなる。

母は「夜中にトイレに行って来て、布団に横になると、ああまだ一人でトイレに行けるんだと嬉しくなる」と言う。確かにそう。何よりもトイレに行けれるというのは有難い。もちろん、行動が緩慢なので、もしもの為に紙おむつをしてもらっている。

思いがけなく、母としばらく暮らすようになって、毎日の空気や時間が変わった。自分の越し方行く末を無意識に考えている。青い空、白い雲、緑濃い里山、見える範囲のすべてが美しく感ずる。

あ~あ、生きているっていいな。元気で行動出来る今、精一杯、やさしく生きて行こう。
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ドーハ!

2007-10-18 10:30:08 | FC東京とサッカー
又も、ドーハのロスタイム。北京オリンピック最終予選は、後一分を守れなかった。

入り方は非常に良かった。人もボールも良く動き、初めて見る程の躍動感あるゲームの展開だった。柏木は攻守ともに目立った。枠の上を飛んで行くシュートも目立った。

そう、決められるチャンスは多々あった。ゲームを楽に進められたはず。でも、自分達で自滅してしまった。

後半の後半、パスミスとファールが増え始めた。負けてないのだから、引き分けでいいのだから、そんなに慌てないでと、思った。攻め急がないでと。

結果論だけど、最後の交代は、平山の方が良かったのでは。彼はFWで点を取れるけど、抜群のキープ力を持っている。FC東京と横浜マリノス戦で、屈強のマリノスディフェンダー三人を相手に、約三分も一人でボールをキープしたのだから。

私が言うのも何だけど、サッカーでは真っ向勝負の時と、なりふりかまわず守り倒さなければならない時があると思う。このチームには、そんな歯がゆさを感じる時がある。

もう、これで一つも負けられない。そして、得失点差の為にも、より多くのゴールを。

アテネオリンピックの時だって、最後の最後の国立で決めた。だから、最後まで諦めるな!

頑張れ、U22!北京に行こう!
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母との日々

2007-10-17 20:28:05 | 年老いた母
仕事を終わり、「ただいま」と玄関を開ける。「お帰り」と、リタイヤした夫が台所から顔を出す。その向こうのリビングから、母がニコニコと「お帰り」と言う。

座布団にチョコンと座り、テーブルに向かいイロイロな事をしている。絵を描いたり、塗り絵をしたり、算数の単純計算をしたり…。

テーブルに写真を出して見ている時があった。子供達の幼稚園や小学校の時の集合写真を見て、子供達をちゃんと当てるのである。親の私でも、どれがウチの子?と探す事があるのに。小さい時はしょっちゅう会っていたので、小さい頃の顔の方が、良く分かるのである。

自分の若い頃の写真を見て「おぉ、若くて美人だったの」と。「じいちゃんも、若くていい男だの」と楽しそうに虫眼鏡で見ている。

お習字をしている事もあった。父の名前を漢字のフルネームで。「じいちゃんの名前は○○義男だの。義が難しい」と言いながら、何回も何回も書いていた。

母が来てから、母と枕を並べて寝ている。「夜中にトイレに行きたくなったら起こしてね」と。夜中に、フっと目が醒めた母は「○○義男って、誰?」と言った。「何か一杯書いたような気がするが」と。「おじいちゃんの事よ。おばあちゃんの旦那さん」じっと考えて「おオ、そうだの。じいちゃんだ」と笑う。

本当に、夜中に目が覚めると色んな事が分からなくなる。私は誰?ここは何処?どうして何にも分からないのだろう。と、辛そうに涙を浮かべる。

「大丈夫よ。朝起きて、ご飯を食べれば思い出すから。だから、安心して眠っていいのよ」と、そっと布団の上から柔らかく撫でる。

私は、昼は会社に行っているが、ずっと夫が面倒を見ていてくれる。感謝している。そして、ゆったりと、母に合わせた時間の流れが、心地よく感ずる。

今、思いがけなく短い間だけど母と一緒の時間を持てて、本当に良かったと思っている。




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年老いた母と

2007-10-12 23:01:09 | 年老いた母
今日も一日会社を休み、母と過ごす。歩く練習の為に、外へ連れ出す。行きは車椅子を自分で押しながら散歩した。

時々、頭の中の配線が、外れるらしく現在地が分からなくなる。特に、朝起きた時や、昼寝から目覚めた時など。そんな時は、何回も同じ事を聞くから、何回も同じ事を答える。

母を相手する時は、ゆったりとゆっくりと行動し、話をする。まるで、時間が伸びたように感ずる。一日が長く感ずる。前は、一日が一週間が一ヶ月が一年があっと言う間だった。でも、母と一緒に過ごした今日は、何か私の寿命が一日延びたように感じた。

毎日、時間に追われてアクセクしていたけど、母の時間に合わせている限り、ノンビリする。そして、久しぶりに今日は母と一緒に昼寝をした。

でも、母を見ていて、老いるという事は残酷な事だなと思う。どうして、人間は、イヤ全ての生き物は老いて行かなければならないのだろう。

バラの中の母の写真がある。まだ若い母はバラの花よりも生き生きと美しく輝いていた。そして、目の前の母。その落差に辛くなる。腰を曲げ、やっと歩く母。色んな事が思い出せなくて、色んなことを忘れていく母。

少しずつ少しずつ、イロイロな事が出来なくなって行く。いつか、呼吸をする事も出来なくなって行き、心臓も動きを止める時が来る。その時の為に、一生懸命に行き続けなければならないなんて。

お風呂で洗ってあげながら、「まだまだ、元気でいてね。まだまだ、父ちゃんの所に行かないでね」と心で思う。

ほんの三週間だけど、会社に行かなければならないが、出来るだけ相手をしてあげようと思う。

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車椅子の旅

2007-10-11 21:19:40 | 年老いた母
姉の所にいる母が、東京の私の所に行きたいと言うので夫と迎えに行った。

新安城から新横浜へ。横浜戦に乗り換えて橋本へ。そして京王線で稲城に。こうして文字にすると大変だなと、思うが楽天的な私は「別に」である。

いろいろ調べたが、今はどこもバリアフリーでエレベーターがある。家までの道程も不自由なく車椅子で大丈夫そうだ。

以前、まだ母が元気な頃は、田舎から大荷物持ち、階段を上り下りしたものた。自分の将来の事を考えると、有りがたい世の中になっと思う。


新幹線の新安城まで、姉が車で送ってくれた。車椅子なので、駅員さんが誘導してくれる。席は一番後。だから座席の後に車椅子を置くスペースがある。

新横浜に着いたら、駅員さんが待っていた。新横浜は今、駅の大工事をしていて、エレベーターが一般の人には使えないようになっていた。駅員さんが鍵で開けて乗せてくれた。扉が開くと、そこは工事中で、迷路のような通路が作ってあって、駅員さんが誘導してくれる。新しい自動改札口が出来上がっていて、まだビニールが掛かっていた。「20日に開通ですよ」と駅員さんが行った。知らなかった。

普段は気にもしないけど、こうして母を車椅子に乗せて移動すると、本当にエレベーターの有難さを感ずる。無事に家までたどり着きホッとする。

母が「家が広いね」と言うが、姉の一軒やと違い、マンションだから狭い。多分、モノがあまり目の見える所に出ていないから、視覚的に広く見えるのだと思う。姉の家は、感心するほど物が多い。折角、キレイにリフォームしたんだから、せめて、もう少し物を処分するか、見えない所にかたずけたらと思う。

母は11月初めの父の一周忌まで、私の所にいる。そして、又、その為に夫と母を連れて田舎に行く。姉は車で行き、母を連れて安城に帰って行く。それまでは、母と一緒の生活である。出来るだけ、母を楽しませてやりたい。


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老齢の母を迎える

2007-10-09 20:34:05 | 年老いた母
姉の所で生活している母が「死ぬ前に東京に行きたい」と言った。

田舎で父と二人で暮らしていた母。何年も前から手と足が不自由になり、杖と車椅子が必要となった。そして、父が面倒を見ていた。器用な父は家事一切をこなした。近くに住む妹は年取った義理の両親を抱えていたので、時々しか見に行けれない。

二人だけの穏やかな生活が一変したのは、去年の11月だった。父は突然倒れて、一週間後に亡くなった。母はショックを受け、何が何だか分からない状態になってしまった。今でも、お葬式の事はよく覚えていないと言う。

何回か姉の所に、母に会いに行ったが、どうしても午前中がダメみたいなのだ。夢の続きの中にいるみたいで、現在位置が見えないのだ。午後になればシャンとする。

最近、姉の所に慣れて来たのだろう、気持ちが前向きになって来たという。そして、私の所に行きたいと言う。本当は夏に行きたいと言っていたが、涼しくなるまで待ってもらった。そして、11月には父の一周忌があるので、こっちから母を連れて田舎に行く。

昔と違って、どこの駅にもにもエレベーターがあり、車椅子で移動出来るので助かる。

私は平日は会社に行くが、リタイヤした夫が日中は面倒を見てくれる。夫も私の父と同じで、器用なので助かる。そして、そんな彼に感謝している。

3週間ほどだが、大変だとは思うが、母との暮らしが楽しみでもある。

多分、私の家で母が暮らすのはこれが最後だろうと思う。


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マンガ「地球へ・・・」著・竹宮恵子

2007-10-08 21:00:22 | 映画・ドラマ・小説・マンガ
久しぶりに、本当に久しぶりに読んだ。始めて読んだのは、30年近く前。昔はB版の大きさの本だった。私も、子供たちも何回も読み、いつの間にかボロボロになっていた。

最近、又、新しく本屋に並んだので買って読んで見た。寝る前の30分~1時間程なので何日もかかった。最後の方は夢中だった。

何千年(?)先の未来のSF。今読んでも、絵もストーリーもちっとも古く感じない。それよりも、今の時代を象徴しているように思う。

温暖化で、人間が地球上で生き続け繁栄していく事への、危機を言い始めた今、読み終わって考えさせられた。

今現在、そして近い未来も、人間は地球上にしか生きていけない。どんなに人間が増えたも、圧倒的で膨大な面積を占めている海の中には住めない。そして、地球外の太陽系の惑星に、移住する技術はまだ無い。まして、無限に広がる宇宙に飛び出して行く事なんて不可能だろう。

よく、“地球に優しい”とか“地球のために”とか言うが、地球は空気が汚れようが、緑がなくなろうが、人間が死に絶えようがちっとも困らない。

人間が、この青い美しい星の上で生き続けて行けるように、人間が生存出来る状況を保って行かなければならない。そして、資源だって有限なのだ。戦争や争いをしている場合ではないのではないか。

この本のように「暴走する人間を規制する為には、すべてを管理する」というような世界が来ない事を祈る。

ヒデが言っていた。「たった一つだけ願いをかなえられるとしたら、何を望むか」と聞かれて「ちょっと、恥ずかしいけど、世界の平和かな。いろんな国のいろんな生活を見て来たから」と。

民族も、国も、人種も、主義主張も、政治形態も、宗教も、全てを超越するような世界が、いつか実現する事を夢見る。
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