会社で飲み会があった。イロイロな話で盛り上がった。
最近、朝の通勤電車が込んで死にそうだと言う話になった。私の会社は従業員は私と男性4人の全部で5人である。内、二人は松戸から通っている。北千住から千代田線に乗換えが死にそうだと言っている。時々、小競り合いがあるそうだ。
40代後半の同僚が「昔は、よく喧嘩があったけど、今はあんまり見ないな」と言う話になり野次馬の話になった。
私は自他共に認める、好奇心一杯の野次馬である。もちろん、人が群がっていれば「なんだろう?」と見に行く。子供が小さい時、家族で繁華街を歩いていて、何かに引っかかり遅れるのは決まって私だった。気になったしょうがないのである。どうしても、何があるのか、何があったのか知りたいし、確かめたい。
子供が幼児期から小学高学年の頃まで、高槻市に住んでいた。ある年、火事の多い時があった。ある夏の日曜日の夕方、夕飯の準備が出来、夫と子供達が風呂から上がって来るのを待っていた。と、サイレンの音。ベランダに出ると、いつも行く商店街の方で煙が上がっている。「火事だ!」すぐに風呂の夫に「火事だから、見に行ってくるね。先に食べていて」と飛び出した。
走って行くと、商店街の一軒から煙リが出ていた。まだ、消防車もそろわず、放水も始まっていなかった。下が店で上が住宅の商店街が軒を連ねている。隣のお店の人達が物を運び出している。二階の窓の中は煙が充満していて炎は見えない。やっと消防車の放水が始まった。その時、2階の窓ガラスが割れて突然、炎が膨れ上がって家を包みこんだ。そして、それは隣の家まで伸びて行った。
その年の真冬の夜中、サイレンの音で目が冷めた。カーテン越しに窓が明るい。起きてカーテンを開けると、マンションの隣の民家の屋根の向こうに火柱が上がっている。夫に「見に行って来る」と言って着替えて飛び出した。知り合いの何代も続いた酒造りの家の母屋が燃えていた。大きな大きな古い家である。すべてが炎に包まれて、火柱が高く上がっていた。あの時の光景は忘れられない。冬の乾燥した空気と、古い家なのでアッと言う間に燃え落ちた。
そんな話をしていたら、30代前半の二児の父親である同僚が「僕は、野次馬は大嫌いだ。」と言う。「喧嘩していても無視?」「止めさせられないのに見てるだけの野次馬なんて大嫌いだ」「でも、何か変わった事があったら、何だろうと思わない?」「思わない」そんな考え方の人もいるんだ。私は田舎生まれだけど、江戸っ子みたいに変わった事にはワクワクソワソワする。
40代後半の同僚が言った。「野次馬は大事だよ。特にウチの会社は新聞社(親会社は小さな新聞社)なんだから、それじゃ記者はつとまらないよ。好奇心は記者の生命だよ」と言った。そう、彼は何でもよく知っている。私は、“雑学の帝王”と呼んでいる。彼とは話題が尽きず、いつまでも話し続けられる。
彼曰く。「最近、ホームで喧嘩していても昔のように野次馬が取り囲まないよな。皆、チョロと見ながら通り過ぎていく。最近、自分以外に興味を示さない人が多すぎる様な気がする。だから、喧嘩になっても。歯止めが利かなくて、行く所まで行っちゃうだろうな」と。
興味が無いのか。周りで起こっている事が自分に関係ないから、目にも心にも留まらないのか。自分と親しい人以外は、物としか感じられないのか。それとも、人間に成りきっていない人が増えているのだろうか。だから、ジャマだと思えば、ナイフで人を刺し、バラバラにする。他人だけでなく、親や子や兄弟でも。
耳に音楽、目に携帯の人が多すぎる。たまには、全てをカバンにしまって、歩こう。冬の引き締まった青空を見上げてみよう。木枯らしの声も聞いてみよう。歓声を上げて走っていく子供達に目を留めてみよう。枯れ木のような木々にも蕾は芽を出しつつある。そして、夜空のオリオン星座も見上げてみよう。
最近、朝の通勤電車が込んで死にそうだと言う話になった。私の会社は従業員は私と男性4人の全部で5人である。内、二人は松戸から通っている。北千住から千代田線に乗換えが死にそうだと言っている。時々、小競り合いがあるそうだ。
40代後半の同僚が「昔は、よく喧嘩があったけど、今はあんまり見ないな」と言う話になり野次馬の話になった。
私は自他共に認める、好奇心一杯の野次馬である。もちろん、人が群がっていれば「なんだろう?」と見に行く。子供が小さい時、家族で繁華街を歩いていて、何かに引っかかり遅れるのは決まって私だった。気になったしょうがないのである。どうしても、何があるのか、何があったのか知りたいし、確かめたい。
子供が幼児期から小学高学年の頃まで、高槻市に住んでいた。ある年、火事の多い時があった。ある夏の日曜日の夕方、夕飯の準備が出来、夫と子供達が風呂から上がって来るのを待っていた。と、サイレンの音。ベランダに出ると、いつも行く商店街の方で煙が上がっている。「火事だ!」すぐに風呂の夫に「火事だから、見に行ってくるね。先に食べていて」と飛び出した。
走って行くと、商店街の一軒から煙リが出ていた。まだ、消防車もそろわず、放水も始まっていなかった。下が店で上が住宅の商店街が軒を連ねている。隣のお店の人達が物を運び出している。二階の窓の中は煙が充満していて炎は見えない。やっと消防車の放水が始まった。その時、2階の窓ガラスが割れて突然、炎が膨れ上がって家を包みこんだ。そして、それは隣の家まで伸びて行った。
その年の真冬の夜中、サイレンの音で目が冷めた。カーテン越しに窓が明るい。起きてカーテンを開けると、マンションの隣の民家の屋根の向こうに火柱が上がっている。夫に「見に行って来る」と言って着替えて飛び出した。知り合いの何代も続いた酒造りの家の母屋が燃えていた。大きな大きな古い家である。すべてが炎に包まれて、火柱が高く上がっていた。あの時の光景は忘れられない。冬の乾燥した空気と、古い家なのでアッと言う間に燃え落ちた。
そんな話をしていたら、30代前半の二児の父親である同僚が「僕は、野次馬は大嫌いだ。」と言う。「喧嘩していても無視?」「止めさせられないのに見てるだけの野次馬なんて大嫌いだ」「でも、何か変わった事があったら、何だろうと思わない?」「思わない」そんな考え方の人もいるんだ。私は田舎生まれだけど、江戸っ子みたいに変わった事にはワクワクソワソワする。
40代後半の同僚が言った。「野次馬は大事だよ。特にウチの会社は新聞社(親会社は小さな新聞社)なんだから、それじゃ記者はつとまらないよ。好奇心は記者の生命だよ」と言った。そう、彼は何でもよく知っている。私は、“雑学の帝王”と呼んでいる。彼とは話題が尽きず、いつまでも話し続けられる。
彼曰く。「最近、ホームで喧嘩していても昔のように野次馬が取り囲まないよな。皆、チョロと見ながら通り過ぎていく。最近、自分以外に興味を示さない人が多すぎる様な気がする。だから、喧嘩になっても。歯止めが利かなくて、行く所まで行っちゃうだろうな」と。
興味が無いのか。周りで起こっている事が自分に関係ないから、目にも心にも留まらないのか。自分と親しい人以外は、物としか感じられないのか。それとも、人間に成りきっていない人が増えているのだろうか。だから、ジャマだと思えば、ナイフで人を刺し、バラバラにする。他人だけでなく、親や子や兄弟でも。
耳に音楽、目に携帯の人が多すぎる。たまには、全てをカバンにしまって、歩こう。冬の引き締まった青空を見上げてみよう。木枯らしの声も聞いてみよう。歓声を上げて走っていく子供達に目を留めてみよう。枯れ木のような木々にも蕾は芽を出しつつある。そして、夜空のオリオン星座も見上げてみよう。