ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

被災地に思う

2011-03-31 12:45:52 | Weblog
夫が入院したので、新聞を読むのがずれる。

毎日毎日、新聞の紙面は被災地や被災者の事で一杯だ。

それを読み、時には涙し、時には 「ああ、良かったな」 とほほ笑む。

今日、昨日の夕刊に、長居であったサッカーの慈善試合の記事があった。

そこには、仙台でサポーター達が集まって観戦した写真があった。

そこは、いつもベガルタのサポーター達が集まる場所。皆で食べ物や酒を持ち寄り、命を失ったサポーター仲間を追悼した。

試合後は 「生き残った私達が頑張らなければ。笑顔で選手達を送り出そう」 と皆でむせび泣きながら乾杯をした、とある。

私は、それを読んで、涙がこぼれた。

そして、写真をみて気が付いた。

何と、そこに、ドロンパ人形がいる。ベガッ太くんではなく、ドロンパがサポーター達の中にチョコンといるではないか。

まるで、日本中のサポーター仲間が一緒にいるんだよ、皆の心を代表してここに来たんだよ、というように。

何回か、仲間とユアスタに行った。泊まりで観光した事もあった。あの美しい街並みが、歴史のある建物が、ライトアップされた夜の美しさが、美味しかった牛タンのお店が…思い出すと胸が痛む。

初めて行ったユアスタで、今では絶対に許されないが、モチロン昔も許されない事だったが、地元の美味しい地酒をビンごと持ち持ち込み皆で乾杯した。周りの人達にも振る舞って。昔は、サポーター同士の試合観戦は、穏やかで緩くてフレンドリーで楽しかった。

仙台に一人だけ知り合いがいる。その時も、旦那さんと一緒に来ていて、笑いながら乾杯をした。

FC東京がプロ1年生のJ2だった頃、たまたま知り合った仙台在住の、FC東京サポーター。

彼女は私よりも、東京暦が古くて、ガス時代にフアンになったという。だから、東京がプロになった時に、年間チケットは買えないからとビッグフレーム会員になった。

今は、年賀状での付き合いになってしまっている。

この震災で、メールや電話をしても、使われていませんのメッセージしか流れない。番号が変わっただけと思いたい。



仙台市太白区の遠藤淳子さん、お元気ですか?








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夫が入院

2011-03-29 19:15:32 | 夫の事
夫が、昨日、肺炎で入院した。

一週間ほど前から、熱が出たり、だるかったりで、風邪かなと思っていた。

医者に行ったらというのに、ナカナカ行かない。

日曜日の味スタのチャリティ練習に無理して行って、悪化したみたいだ。行かなくて、家で寝ていたらというのに、どうしても行きたいと、やっと行って来た。

今日、病院へ行ったら、すっかり病人みたいになっていた。

もっと早くに病院に行けばよかったのに。本人も、そう思っているみたいだ。

今日、先生がもっと設備が整っている病院に行った方がいいというので、明日、府中の多摩総合医療センターに転院する事にした。

5年ほど前に2週間ほど入院し、今も月に一度、定期的に検査に通っている。

しばらくは、私も通わなければならない。

以前、入院した時にも、会社の帰りに毎日通った。毎日来なくてもいいよ、と夫は口では言っていたが、子供が、私が毎日行くのをお父さんは喜んでいたよ、と言っていた。

本人は、Jリーグの再開までに直るだろうかと心配している。








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チャリティ練習試合

2011-03-27 16:20:16 | FC東京とサッカー
今日は、味スタで横河武蔵野FCとの練習試合があった。





開場するくらいの時間に行ったが、たくさんの人達が並んでいた。私と一緒で、東京の試合に飢えている人達も多いと思う。

選手達が募金箱を持って声をかけていたり、チャリティオークションもやっていたので、コンコースはごった返していた。







今日の審判の西村氏が、ワールドカップの時に着たユニフォームをオークションに出していたが、これはなかなか貴重なものだ。

被災者の方々が招待席に着き、「You’ll never walk alone」 の力強い歌声が流れ、試合は始まった。

立ち上がりは、なかなか流れに乗れないというか、相手のプレスにうまくボールが回らない。こっちサイドのムックンが目の前なので、彼のミスが目についてしょうがない。

そして、PKでの失点。

応援の声が無いので、ミスするたびに、「あー」とか「あ~あ」の声がサポーター席に満ちるのがおかしかった。

そして、双方のゴールに、そして好プレーに拍手が起きる。







終わってしまえば 8-2 のFC東京の勝利だったが、面白かった。

ため息あり、笑いあり、拍手あり、突っ込みどころあり、身を乗り出すシーンあり、楽しさ満載だった。

横河が、前半と後半の選手交代を、一度にそれぞれ7人一緒に交代したのは受けた。



終了間際の、大竹のフリーキックのゴールシーンは、見事だった。今日のチャリティ練習試合の締めにピッタリのゴールだった。



たかが練習試合に、9000人以上の人が集まった。

募金も沢山集まった事だろう。

被災者の方々も、少しは楽しんでもらえただろうか。今日は、合計10個ものゴールシーンを見る事が出来た。PKも、フリーキックも、ヘッドもイロイロな形のゴールシーンがあった。

サッカーを知らなくても、0-0 とか 1-0の試合よりも楽しかったと思う。

でも、天気が良くて、美しい芝生で、平和な日常のひと時、普通の生活をしているサポーター達がいて、そんな中でのスポーツ観戦に何を思っただろう。楽しかったと思ってもらえたのだろうか。

無くした物、失ったものへの悲しみが募らなければいいがと、帰り道に、そう思った。

今、これを書きながら、部屋を見回して、この目の前の物が、すべてグチャグチャに泥の海に沈んでしまったのだという事が、なかなか想像出来ない。

着の身着のままで、ただあるのは自分の命。辛い。

去年、急死した姉、沢山の慣れ親しんだ物はあるのに、無いのは姉の命。辛い。

今月一杯で、味スタから、今度はどこへ行くのだろう。最終的に落ち着くまで、何回の移動をするのだろう。自分に置き換えて、その過酷な人生に立ち向かって行けるのだろうかと思い、胸が一杯になる。

彼らの未来に心安らかな日々が訪れる事を、祈る。




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“南ちゃんの会”の活動日

2011-03-20 20:42:59 | 南ちゃんと南山
第3日曜日は南ちゃんの日。

やめようと言う人もいたけど、やりたい人だけで活動しょうと、いつもの時間にいつもの集合場所に集まった。

今日は7人。

まず、堆肥用の落ち葉集めをした。以前に集めた分は、カサが減ってまだまだ沢山入るので、まずは、集めて堆肥囲いの中に入れた。



畑の草抜きを少ししてから昼食にする。一番楽しい語らいの時間。

その後は、“一の森”に行って、下草刈りをした。

篠笹が太く大きく茂った広範囲の場所がある。どうしてか、そこは篠笹しか生えていない。

ここを、全部篠笹を刈ってしまうと、日が当たり過ぎる。どうしょうかと考えて、いっその事、迷路にして遊ぼうか、と思った。

私ともう一人の人と二人で、道作りをした。彼女とは、以前も二人で夢中に下草刈りをしていて、桜の広場を見つけた。あの時も、ただただ、夢中に前へ前へと進んで広場を見つけた。

今回も、二人で、人一人が通るくらいの道を作る事にした。

夢中で、篠笹を刈り進んだ。取りあえず境界線まで道を作る事にして、夢中に刈り進んだ。まだまだ、少ししか刈れなかったけど。

自分で、好きなように頭の中に設計図を描いて、好きなように作業するのは楽しい。

まだ、全体の森の設計図は出来ていないので、取りあえず迷路を作ろう。

 

 

そのうちに、この森をどんな形にしようか皆の思いが一つの形になって行くだろう。

桜の森は、もう、出来上がった。後は利用するだけ。

一の森は、これから。出来上がるまでの過程が楽しい。

汗びっしょりになった。帰ってシャワーを浴びて、ちょっと横になる。


そして、今日は、とっても辛い事があった。

“おとうさん”が亡くなったのだ。

金曜日に危篤状態で病院に運ばれた。もともと、心臓が弱かったらしい。

“おとうさん”がいなかったら、私達の“南ちゃんの会”も無かったと思う。

おとうさんに、おとうさんの山の手入れをさせた欲しい、下草刈りをさせて欲しいとお願いして始まった“南ちゃんの会”。

初めは、おとうさんは怖かった。おばさん達に出来るわけ無い、3回で止めてしまうだろうと思っていたらしい。

おばさんは強い。おばさんは一生懸命。おばさんは仕事が手際がいいし早い。

おとうさんは、ちゃんと認めてくれて、大きな信頼関係を築いて来た。

おとうさんの畑やシイタケの菌打ちの手伝いもした。給食に野菜を納めているので、急に手伝ってと連絡が入り、都合の付く人が駆けつけて手伝った。この冬も、数え切れないほどの大根を洗った。

南ちゃんの会で畑を借りたので、これからは野菜作りの指導をしてもらうはずだった。

まだまだ、もっと叱られたかったし、一緒に昼食を食べながらおしゃべりもしたかったし、一の森の再生を見てもらいたかった。

急だったので、“ありがとう”を言えなかった。

おとうさん、ありがとう。おとうさんのお陰で、私達の楽しいフィールドが出来ました。

これから、NPO法人を作って、少しづつ、少しづつ、里山を再生して行こうと思っている。これ以上、里山を開発されない為に。

その足掛かりを作ってくれた“おとうさん”。ありがとう。ご冥福を祈ります。


春を少し。

梅林  

ニワトコ  

スズメノヤリ  

ゴンズイ  

ウグイスカグラ  




 


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夕食作り

2011-03-18 14:01:45 | Weblog
今、週1回、ある家族の4人分の夕食を作り、届けている。今月の初めから、来月一杯まで。

ウチの家族が3人、そして、プラスの4人分。

まず、届ける家族分を優先して、ウチの家族分が手抜きになってしまう事もある。

他の日に、夕食を作って届けている人と、この時期、食材を買うのが大変ね、と話した。

今日も昼食後にスーパーに買い物に行ったが、売り切れているのは一部の品に限られている。特に、コメとかパン、麺類などの主食用が、棚に何もない。

本当に困っている人もいるのだろうと、同情する。来週頃には、買占めも落ち着くのではないかと期待しているが。

そして、ちょっと、遠くの大型スーパーへ歩きながら、道沿いに飲料用の自動販売機があり過ぎるのが気になった。こんなに必要なのかと。

電力不足で計画停電が実施されているのに、この自販機のスイッチを切る事は出来ないのだろうか。

10年ほど前になるが、自販機を全部動かす為に、原発が一基必要だと何かで読んだ事がある。

あれから、もっともっと、いろんな種類の自販機が増えた。

あれから、家の中にも電化製品が増えた。

テレビだって、一家に1台だったのが各部屋、各人に1台になった。ガスも電化に変えた家も多いだろう。

まぶしい程の電気をつけ、ガンガン音楽を流すお店も多いし、お店も夜遅くまで営業するようになった。

こんな生活を続けていれば、もっともっと原発が必要になってしまう。

今、本当に真剣に、生活を見直さないといけないと思う。

この大災害が終息して、日常に戻った時、又、私達は、反省を忘れてしまうのだろうか。

今は、彼らの為に全力で協力し、でも、この経験は未来への警鐘として、しっかりと引き継いで行かなければならないと思う。

そして、私達に向けて、普段は国民の為にと必要以上に大声を出している政治家達が、被災者たちに向けての励ましの言葉と、汗を流している姿が見えてこないのはどうしてだろう。

彼らは、こんな時にこそ、知恵を出して合って協力して、この難局を乗り越えて、彼らを日本を救ってくれなければならないと思う。その為に高額の税金を払っているのだから。

日本に派遣されるアメリカ軍に向けての、オバマ大統領の演説(映画のシーンを思い出すが)の方が心に落ちて来るのはどうしてだろう。

そして、世界中の政治家や著名人達の言葉の方に励まされるのはどうしてだろう。

日本の政財界のリーダー達の、私達の胸に響いてくる言葉と、目に見える行動と、希望ある実行を望む。






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買占め

2011-03-17 22:47:39 | Weblog
今日も、夫と昼過ぎにスーパーに行った。

いつも、買い物は午前中に行く。でも、ここ最近、スーパーの行列が凄いのだ。

初め、いつものように二人でスーパーに行った時に、凄い行列でビックリした。そんなに並んでどうしても買わなければならない物も無いし、取りあえず帰った。

そして、気が付いた。買占めだと。気づくのが遅いが。

でも、震災は東京に及んではいないのに、どうしてパニックになるのだろう。娘も、朝、いつも会社へ行く途中でパンを買って行くのに、売り切れで困ると言う。

阪神の地震の時も、しばらくは水とか災害用クラッカーとか準備していたが、いつの間にウヤムヤになった。

そして、新潟での2度の大地震。私も夫も新潟県の出身。私は、あの柏崎が故郷だ。

実家は大した事なかったが、夫の実家や親戚、私の妹や親戚の家は被害を受けた。

ペッチャンコの家や、何軒かの家と一緒に崩れ落ちた崖も見た。傾いたままの家々も沢山見た。潰れて屋根だけのお寺も見た。

妹達から、その時の恐怖を聞いて、防災意識を強く持つようになった。

家具は全て転倒防止をし、食器棚や本箱の扉は地震の時に開かないようなストッパーも付けた。

モチロン、水も保存食も災害用の折りたたみ式トイレも用意した。トイレットペーパーやティッシュもそれなりに備蓄してある。

コメは、夫と私のそれぞれの田舎から送って来るので、何カ月も大丈夫。干麺もうどんやスパゲティが4袋くらいは常備している。

妹に現金もそれなりに用意しておいた方がいいよ、と言われた。

電気とガスがある今なら、買いだめしなくても家族3人何日も大丈夫。

午後から買い物に行くと、客は空いているが、パン類、牛乳、卵、水、生めん等がない。野菜や果物や魚類、肉類等は、ちゃんとあるし、買いだめをしなくても日々の食事には全然困らない。

それに、もともとウチは省エネ家庭。

今の所に引っ越しして来て車は手放した。古い冷蔵庫を買いかえる時に、世の中に逆行して150センチ高の省エネタイプにした。冷蔵庫にそんない入らないから、必要な物を必要なだけしか買わないので、昔のように食品のロスが無い。

コンクリートのベランダは35センチ角の木のスノコを敷き詰めたので、夏の暑さも冬の寒さも和らぎ、エアコンなしでも大丈夫だ。暑ければ、ウチワがあるし、寒ければハンテンを来てコタツに入ればいい。

今回の計画停電も、準備万端整えて待っていたが、まだ、一度も無い。千葉に住んでいる息子は3日続けて停電だと言う。千葉を差別している!とメールで怒っていた。

災害地に、食糧や燃料等、必要な物が必ず届くように、もっと行政は強制的にでも出来ないものだろうか。

そして、私達も、我慢出来る事は我慢しなくてはならないと思う。

地震列島日本、次は私の所かもしれないのだから、お互い様で助け合わなければと思う。




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大災害

2011-03-16 14:14:44 | Weblog
今日、電車で出かけたので、ポストに入っていたエルゴラを持って行った。月曜日に入っていなかったので、久しぶりにエルゴラを見る気がした。それだけ、あの地震と津波からの衝撃が大きくて、現実の時間と自分の中の時間の長さがずれていたのだろう。

電車の中で、「共に闘っていくために」 との表紙の言葉を読んでいて、思わず涙がこぼれた。

去年秋の姉の急死から、極端に涙腺が緩くなっている私には、この災害は辛い。テレビを見て、新聞を読んで、何回も胸を詰まらせた。そのたびに、目薬をさして、花粉症だからとごまかす。

私の姉の死は、たった一人の個人的な死。

でも、この考えられない程の大災害での犠牲者は、数字となってテレビや新聞に載る。でも、犠牲者の数だけの家族や知人がいて、生活があった。夢があり、希望があり、未来があった。全てが一瞬のうちに消えてしまった。

あの、、テレビでの恐ろしい映像がいつまでも、頭から消えない。考えただけで、想像しただけで苦しくなる。

新潟地震があった時、アルビレックス新潟の再開試合が新潟のホームでのFC東京戦だった。途中まで新幹線で、そして、バスに乗り継いで、苦労して辿り着いたスタジアム。被災された方々も招待されていて、支援への感謝の言葉を述べられて、そして、サポーターのガンバレコール。

応援するのも複雑な気持ちだった。新潟選手・サポーター達の気迫に負けたわけではないだろうけど、4点取られて負けたのを覚えている。しょうがないね、と友達とスタジアムを後にした。

復興が進み、ユアスタで仙台の選手・サポーター達が、又、元気でプレーし歓声を上げる日が早い事を心から望む。

日本には、大きな地震がたびたびある。新潟地震も酷かったが、神戸の地震の火災だってその比ではなかった。

そして、日本は地震だけでなく津波だって恐ろしいんだよ、との、今回の震災。いままでだって、日本での津波は何回と経験しているはずだが、こんなに恐ろしい津波が襲ってくるとは誰も想像はしていなかっただろう。

そして、追い打ちをかけるような原発の事故。

柏崎原発の事故も大問題になったけど、今回はもっと大変な事になってしまった。

原発は安全だ、絶対に安全だと、ずっと言われて来た。皆、何と無くそう思っていた。そして、ここ最近、温暖化防止の為には、原発が一番と世界的にも言われ始めていた。

地震国だから、相当な厳しい安全基準を設けていただろう。でも、こんなに凄まじい地震と津波が来るとは誰も想像もしていなかった。

自然の猛威の前で、いかに人間が無力な存在なのかを世界中の人達が知ったのではないかしら。

でも、でも、人間は、いつだって、逞しく立ち上がるし、手を差し伸べ協力し助け合って未来に向けて歩いて行く。神戸だって、新潟だって。

テレビを見ているこちら側の私達は、これからは生活を見直し、真摯に真面目に生きて行かなければならないと、私自身そう思う。

もう自然を、人間の都合の為に開発という名の下で、壊し続けるのは止めなければいけないと思う。莫大な税金をつぎ込んで、無駄な建造物を作るのは止めなけれ行けないと思う。そのお金を、私達住民、国民の幸せの為に使って欲しいと、強く思う。

自分自身、何が出来るか考えて、出来る事を実行して行こうと思う。

災害に会われた人達に、

You'll  Never  Walk  Alone  











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辛い現実

2011-03-14 10:04:04 | Weblog
昨日と同じ今日が始まり、今日と同じ明日が来て、それはずっと続くと疑いもしないで、毎日を送っていた。

でも、突然、その穏やかな日常が悲しみと苦しみに変わるのだという事を、去年、突然の姉の死で悟った。

でも、それは個人の出来事であり、悲しみだった。

このように、一度に何百万人以上の、あるいは何千万人以上の、数え切れない沢山の人々の、変わる事のないと思っていた日常が、一瞬に地獄絵と変わってしまった。

戦争であっても、事故であっても、必ずどこかに予兆や原因がある。

地震国日本でも、巨大地震は必ず近未来にあると言われていた。東京であったり、伊豆のあたりであったり、東海地方のあたりであったり。

だから、耐震構造にしろとか、家具とかの転倒防止をしろとか、食料の備蓄とか、地震による揺れの事ばかり強調されていた。

津波の事も、それなりの予防や避難への心構えはされていたはずだ。

でも、まさか、こんな巨大地震と巨大津波が襲い掛かって来るとは誰が予想しただろうか。

津波に飲み込まれて助かった女性が、「助かったけど、良かったのか悪かったのか」、とつぶやいていた。

確かに、家族も知り合いも家も仕事も町も全てを失ってしまって、これからの事を思えば、絶望してしまうだろう。


昨日、用があり、出かけた帰りに、桜並木の散歩道を歩きながら、辛い気持ちになった。

川面の両岸から一杯に枝を伸ばした桜。艶やかな開花を夢見て、春色の青空に膨らむつぼみ。見下ろせば穏やかに流れる川の中に鯉がゆったりと泳いでいる。

この、平和な中にいる自分と、彼の地の、泥に埋もれた悲劇が日常になった被災地とのギャップに涙が出た。

彼らのために、私に何が出来るのだろうか。皆で考えて協力して行きたい。

亡くなられた方々の冥福と、被災者達への手厚い支援がありますように。













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建設環境委員会と地震

2011-03-12 19:47:55 | Weblog
昨日、稲城市の 「建設環境委員会」 を傍聴して来た。

「稲城市によるランド坂地区工事説明会開催の陳情」が取り上げられるというので。

議員の人数は6人の偶数で、賛否が同数の時は、議長が決める。

議員と市側との質疑応答、賛否討論、採択か不採択かへと進む。

議案は、1~12まであり、8番までは全員が、一部一人が反対で、採択された。

そして、問題の、9.第22号陳情 「稲城市によるランド坂地区工事説明会開催の陳情」。

質疑は活発に沸騰した。反対するだろうと分かっている女性議員が、何回も市に、チャンと説明するのですねと念を押していたのに、反対の討論には、「チャンと市が説明するというから、採択する必要が無い」 と、訳の分からない事をいう。

そして、尊大な態度をしている男性の議員が、堂々と書いてもらったのだろうと思われるメモを読み上げて反対討論をした。それも、さっきまで質疑応答していた内容とズレた内容で。傍聴席からは、失笑が。

賛成3と反対3。当然のように、議長が反対を入れ、市への陳情は不採択となる。

次の、10.第一号陳情 「有害物焼却事件に関する市民懇談会の開催を求める陳情書」

これは、議員の質問に市側は苦しい答弁。

でも、これは、多数決で採択される。

同じ、陳情書で、どうして、このように別れるのか。開発工事となると、あからさまに一部議員の態度が市民に背を向けるのは何故なのか。まるで、何かがあるように。市民に知られたくない事があるのではと勘繰ってしまう。

それと、この説明会に参加してもらう市民の対象者は、災害が出た時に、それにかかわる人達と、市は言う。災害が出た時の不安の為に説明会を、と言うと、絶対に災害は起こらない工事をするから災害は起こらないと言っていた組合と市だが、昨日は、「災害が出た時に関わる人達」 と言った。

市が災害が出た時にと言うから、その危険を少しでも考えていると言う事なのか。

集中豪雨や地震の時の不安を感じさせる工事だから、その不安を除いて欲しいから、詳しく話を聞きたいと言っているのに、どうして議会が拒否するのか分からない。どうして、市ではなく議会が必要無いと言うのだろう。

そして、一部議員の議論の拙さと質の低さに傍聴席からはヤジの声。市民の声を聞かず、市民に背を向けている議員がいると言う事に、腹が立ち、情けなくなる。

それに、市民が市に説明会の開催を求めているのに、市が説明会には出ると言っているのに、説明会の開催を開かなくていいとは、どういう事なのだろう。どうし、それが議会にかけられるのかも分からない。

そして、次の議案に移った時に、大きな横揺れが長く続く。地震だ。

委員会は中止になり、私は直ぐに家に帰った。

エレベーターが止まっていて、やっと家に着いたら、同じ階の人が廊下にいて、食器がほとんど割れて、家に入るのがイヤになる、と言っていた。

私は、慌てて家に入ったが、写真立てが落ちたり、小さな飾りが落ちたり、本が少し落ちている程度だった。

食器棚は、震度5になると扉があかないようにストッパが落ちる防災グッズを付けていた。それが、チャンと作動して食器は無事だった。

娘は会社で朝まで過ごす事になり、千葉に住む息子も無事だった。日立に住む夫の弟も無事だった。

私は、寝るまでテレビの前で、津波の凄まじさ、恐ろしさに固まっていた。



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小平は寒かった!

2011-03-09 19:45:20 | FC東京とサッカー
FC東京と早稲田大学との練習試合を、小平に見に行って来た。

家を出る時には、そんなに寒いと思わなかった。

太陽が出ている時には、寒いくらいだったが、ちょっとでも陰ったら、寒い!寒い!寒い!となった。

こんなに寒いのに、見学者は多い。小さな子達が、「寒い、寒いよ」と言いながら、追っかけっこして遊んでいた。

一本目は、2点取ったけど、ちょっと動きが足らないかな、シュートが少ないのでは、なかなか崩しきれないな、と思いながら見ていた。







2本目の大竹のゴールは凄かった。ボールを繋ぎながら、5~6人が相手ゴール前に雪崩れ込んだ。迫力があった。見学者からも拍手が上がった。

あんなシーンをJリーグの試合で、何回も見たい。

あんなにシュートを外しまくっていたタツヤくんも、見事なミドルを決めた。

2本目は楽しかった。

しかし、寒かった。

そして、風が強くて、花粉症の涙を拭きながら、鼻をかみながら見ていた。

3本目は、もう限界と思い、もっと見ていたかったけど帰って来た。

電車に乗りついで帰った方が早いが、武蔵小金井からバスで調布に出る事にした。時間はかかるが、暖房の暖かさの中で、ウツラウツラと気持ちいい時間を過ごす為に。

帰ってから、ネットを見たら、8-0

土曜日の岡山戦も、こんな調子で頑張ってもらいたい。

ガンバレ! トーキョー!









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