ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

「TO*SCA」最終号。

2006-11-27 21:02:35 | FC東京とサッカー
昨日のFC東京対浦和戦で配られた「TO*SCA」、これで最終号との事。配っている知合いに、「今年最後ね」と言ったら「いえ、これで終わりです」「ええ!どうして!私、いつも楽しみにしているに・・・。もう本当にこれで最後?」「本当に最後です」。

J2の頃は、たまにしかゴール裏に行かなかったから、「東なめ」は本当に時々しか手にしなかった。一つのチームのサポーターになるのは初めてだったので、ゴール裏なるものにはナカナカ近づけなかった。たまには、一緒に立って歌って拳を振りたかった。

ホームにはほとんど夫と行き、座って応援していた。生まれて初めて泊まりの遠征なるものに行った。鳥栖の応援ツアーだった。今から思えばビックリの、スタッフを入れても10人もいないような少人数のツアーだった。試合の時もサポーターが少なく、私も一生懸命に声を出した。太鼓もなく手拍子だけの応援。J1に上がったばかりの頃も、地方の試合は、そんな応援が多かった。いる人で、何となく集まって、でも夢中で声を出していた。そして、楽しかった。

今は、どんなに遠くても東京のサポーターが沢山、応援に行く。太鼓も青赤のタスキも。たまに、間違ってゴール裏に紛れると、もっと歌えもっと跳ねろもっと声を出せと煽られる。「ちょっと・・・」と思うので、近づかないようにしている。

「TO*SCA」を読みながら「東なめ」時代の古き良き楽しかったゴール裏を、ふと懐かしく思い出した。昨日の浦和戦にちょっと、その頃のゴール裏の雰囲気を感じた。「スタジアムへ行こう」を歌うゴール裏の手のフリが、浦和と違いバラバラの向きに揺れているのが「東京らしくていいな。やっぱり東京が好きだな」と思った。

「TO*SCA」を友達は字が多すぎてイヤと言うけど、私は読むのを楽しみにしていた。正直、無くなるのは淋しい。

「TO*SCA」の編集者の皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。

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映画「トモローワールド」

2006-11-25 21:43:00 | 映画・ドラマ・小説・マンガ
娘が見たいと言ったので見に行く。

近未来、人類が子孫を残せなくなって18年が過ぎた。史上最年少の18歳の少年が殺された所から映画は始まる。人類に未来が無く、何処の国も人も社会も荒廃した世界。

政府の仕事をしている主人公セオは、昔の恋人に密入国者の為の通交証を作ってくれるように頼まれる。この世界では自国民以外は見つかれば即、収容所に入れられる。

そして、かかわった黒人系の少女「キー」。その少女キーは妊娠していた。セオの驚愕。そこから、キーを謎の希望の船「トモローワールド号」に乗せるための逃亡が始まる。

荒廃と瓦礫のスラムで、政府軍と反政府軍の戦いの中で、キーは出産をする。いつもセオが持ち歩いているウイスキーで、汚いマットと手を消毒したセオに助けられて。でも、そのシーンにはビックリし感動した。本当に赤ちゃんが生まれたのだ。スルリと生まれた赤ん坊は臍の緒を付けたままキーのお腹の上に。

反政府軍に連れ去られたキーと赤ん坊をセオは戦闘の中、助けに行く。沢山の難民が住んでいる破壊されたビルの中、爆弾の音の中、かすかに聞こえる赤ん坊の声を頼りに。

泣く赤ん坊を抱き、それをかばうようにセオが人々を掻き分け、階段を下りていく。人々はまるで、救いを求めるように手を差し伸べていく。銃を振り回し、爆弾を打ち込んでいた軍隊が、その赤ん坊の泣き声を聞き、まるで神のキリストの降臨のように階段を下りてくるキーに道を開ける。十字を切る人、落涙する人、遠慮がちに赤ん坊に手をさし伸べる人。

霧が一面に立ち込める海のボートの中で、目印のブイの側で、赤ん坊を抱きながらキーはセオを呼ぶ。二度と返事をする事が出来なくなった血だらけのセオに。「セオ、船が来る!トモロー号が」と。

映画は作り物。いかに本物に見せるか。日本映画には絶対に無理だろうと思う。荒廃し汚く、崩れ落ちたビル群。すべての人々に未来がなく希望もなく都市も人も朽ち果てていく世界を、本当にリアルに作っている。そして、政府高官の素晴らしい住居。その高官が「こんな素晴らしい眺めも100年後には誰も見る人はいない」と自虐的に笑う。

赤ちゃんは人類の未来。子供の笑い声は人々の幸せ。世界中の子供達の未来の幸を思う。
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父の死

2006-11-16 21:25:09 | 父の事
最愛の父が5日に他界した。辛かった。やっと平常心になって来た。

私は高校を卒業して田舎から都会に働きに出て、そして結婚した。もともと寡黙な父だった。子供の頃、朝起きれば父母は田んぼに行っていた。学校から帰ってきて私と妹で夕食を作り、暗くなってから帰ってくる両親を待っていた。食事が終わっても寝るまで何かしら働いていた。私の子供達のように、父に甘える事はなかった。甘えたかったが、そんな余裕もなく出来なかった。

年を取って農業を辞めて、田んぼを他の人に作ってもらうようになって、つくづく母が言った。「農業がどんなに辛い仕事だったか、辞めて初めて分かった。今は天国みたいだ」と。

何となく親はいつまでも生きているように思っていた。でも、考えてみれば平均寿命は遥かに超えていたのだ。もう寿命と思うよりしょうがない。

父は安らかな最期だった。体一杯で呼吸をしていた父がだんだん、穏やかな呼吸となり、そしてロウソクが消えるような最後だった。私達は手を握り静かに、溢れる涙と共に別れを惜しんだ。

家に帰って来た父は、死ぬ為に必死に生きていた時とは違い、穏やかに眠っていた。目の周りのクマも消え、まるで10歳も若返ったようにきれいにしてもらい横たわっていた。遺影は自分で選んで用意していた写真が飾られていた。ほんのりと口元がほころび、若過ぎず、年寄り過ぎずよくこんなステキな写真があったなアと感心した。

本当に仲の良かった父と母。長い長い年月を二人で生きてきた。もっともっと実家に帰ってやれば良かった。後悔することばかりである。

今、母は姉に引き取られて暮らしている。もう、どんなに寒い冬が来ても、どんなに大雪が降っても、もう心配しなくてもいい。母は、暗くどんよりとした雪国を離れ、今年から太陽が一杯の冬を過ごせる。

母さん、長生きしてね。父さんの分も孝行するから。あんまり早く向こうに行かないでね。足腰も頭も老いて来たけど、でもでも、母さんは私の母さん。



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ひとまず家に帰る

2006-11-05 17:51:32 | 父の事
もうダメかもと思った時もあったが、小康状態になったので、ひとまず帰る事になった。出直して来る事にした。すぐに連絡が来るかも知れないが・・・。

しかし、ただ死を待っているだけなのは、非常に心が消耗する。ただ、手を握り、顔を見つめているだけ。そして、思いはただひたすら過去をさまよう。

思うは父が、もっともっと若く元気でバリバリ働いていた頃。子供達を連れて毎年帰っていた頃。田舎に活気があった頃。どこの家にも子供達があふれていた。特に夏休みには、私達のように里帰りした家族で、田舎は賑やかだった。

今は、どこも年寄りばかり。家は昔ながら、でも人々はどこへ行ったのだろうと、思う程歩いている人を見ない。通るのは車ばかり。どんなに近くても車。

私は田舎生まれなのに、今は東京に変えるとホッとする。ここが私の住む所と思うのだ。田舎に帰るたびに、私の恋しい古里は幻想だったのかと思う。

父が旅立ち、母が姉の所に引き取られたら、お墓参りにしか帰らなくなるのだろうか・・・。

でも、又すぐに呼び出しが来るかも知れないが、東京に向かう新幹線の中でホッとしている自分がいる。早く、見なれた景色の中に行きたいと。
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死に行く父ちゃん

2006-11-05 04:09:40 | 父の事
仮眠を取り妹と交代する。手を握りそっと頭をなでながら、やさしく語りかける。

「父ちゃん、大丈夫よ。ここにいるからね。一人じゃないからね。一人にはしないからんね」

体全体で呼吸をする父。口を開け、空気を貪るように。苦しいのだろうな、辛いのだろうな。でも、眉間に皺は寄せない。癌患者末期の痛みが無いのはありがたい。

いとこが見舞いに来て言った。「ウチの父は最後、私にしがみつき苦しいよ助けてくれと言いながら死んだよ。おじさんは痛みが無いから看病するほうも助かるよね」と。

でも、ゼーゼーと息をするのが苦しそう。時々、目じりから涙が一筋。

息子が東京から来て、2時間程手を握って行った。「おじいちゃん、僕だよ、タカシだよ、分かる?」と言ったら、目を開け「おはよう」と言った。そして、よくやる癖のクシャクシャの顔で笑った。一杯一杯、可愛がってもらったね。

時々、大きくため息をつく。「もう疲れた」と言うように。

父ちゃん、ありがとう。もう休んでもいいのよ。と言う気持ちと、こうして、ずっと手を握り髪をなでながら語り続けていたいと言う気持ちと。

自然に命を終わらせるのは、大変な大仕事なのだなと思う。早く、朝にならないかな
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死に行く命

2006-11-04 04:49:59 | 父の事
医者にこの週末までかなと言われた父の命。手を握り、ただじっと見つめている事しか出来ない。そして思う。“死ぬという事は努力のいる事なんだな”と。

入れ歯を外した口は、息をするために開けられている。その為、唇も舌も乾き、時々湿らせてあげなくてはならない。

全身を使い呼吸をする父。息をする事だけに全身のエネルギーを使っている父。呼吸をするという事がこんなに大変な事だとは。死ぬ為に必至に努力している。死ぬという事も大変な仕事なんだなと思う。

すべての生きとし生きるものは死ぬ為に生きている。誰もいつかは必ず死ななければならない。自然の摂理。もちろん私も。永遠の命なんてないのだと、あらためて思う。

それなのに、どうして簡単に人の命を、そして自分の命を奪ってしまえるのだろう。こうし
て、父の顔を見つめていると、死者の国に行った色々な人達を思い出す。

祖母が死んだのは、雪の降り積む師走だった。私はまだ小学生だった。明日の朝でしょうと医者に言われ、前の日の夜には親戚達が集まり、準備とその時を待つ為に、祖母の回りを囲んでいた。

都会に働きに行っていた姉は、雪の為に電車が遅れ、待っても待っても到着しなかった。医者も祖母の傍に坐り、そこにいるすべての人が祖母の回りに坐り、その時を待つ。

やっと姉が到着して「おばあちゃん!」と駆け寄った。医者が母に言う「どうぞ、末期の水を」と。母はそっと唇を濡らす。祖母はコクンと飲み込むようにし、大きく息をする。「ご臨終です」と医者の声。まるでドラマのような祖母の死だった。小さな私は、きっと大きく目を見開いて見ていた事だろう。大往生だった。死が身近に、そしてそれぞれの家にあった、古き昔。

今は、人は病院で死を迎える。父は誰かに手を握られ、親しい人達が別れを言いに訪れる。娘は昨日、東京から来て2時間程いて帰って行った。今日は息子がやっぱり2時間程、別れの為に来るという。

色々な死に方があるこの時代で、父の迎える死は幸せな形なんだと思う。


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父への子守歌

2006-11-03 19:48:37 | 父の事
たまたま父の付き添いが私一人になった。ふと、手を握り頭をなでながら、子守歌を歌ってあげた。

「ねんねんころりよ おころりよ 坊やは良い子だ寝んねしな・・・」

父の時代は母にだっこされるのは乳を飲む時だけ。子供の多い田舎の農家の嫁には、我が子を抱く時間なんて無い。まして子守歌なんて。

長男以外、中学を卒業すれば都会に奉公。そして赤紙で戦争。今の子と違って、生まれた時から母に甘える事なんて、出来る時代ではなかった。

一杯抱きしめて子守歌を歌って育てた私の子供達を思い涙がこぼれた。

父ちゃん、向こうに行ったら父ちゃんの父や母に、子供に戻り一杯抱きしめてもらいなさいね。きっと両手を広げて待っているよ。そのうちに私も行くから、そしたら私を抱きしめて。

それまで、こうして手を握っているから怖くはないよ。皆が行く所だから。
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終末医療

2006-11-03 04:45:07 | 父の事
父が老人病院に入院して9日目に入る。意識がなくなり3日目に入る。

そばに住む妹が風邪気味という事で連れて来て末期癌と診断され、最後の日に向けての日々が始まる。

妹は2つの選択から1つを選ぶ事を要請される。1つは最善の積極医療措置をする事。1つは痛みと苦しさの緩和処置だけ。妹は「緩和処置だけをを選んだよ」といった。私達も望む所。

全身を癌に侵されているが、不思議と痛みは無いみたい。先生も驚いていた。もっと早く見つかっていればと悔やんだが、今になればこの方が良かったかも。早く見つかれば、癌治療の為に長い治療の苦しい毎日だっただろう。今日までの母との住みなれた家での穏やかな生活はなかっただろう。

母は風邪で入院しているだけと、思っているが意識は無くともまだ生きている父に会わせた。「じいちゃん、じいちゃん、こんな姿になって」と泣いた。もう半分分からなくなっているが、長い長い人生を一緒に過ごした夫婦。辛い苦しい時代を生抜いた二人。一緒にいたくても、一緒に寄り添っては行けない場所がある。

一人ぽっちになる、と泣く母。泣いてあげて、悲しんであげて、でも、私達3人の姉妹がついているよ。それぞれのやさしい夫も孫達もいるのだから、一人ではないよ。

眠り続けて3日目に入る。私と妹で交代で夜の付き添いをしている。病院にはその為の畳敷きの布団もある小部屋があり助かる。単時間でも横になって眠れるのは助かる。

もう呼び掛けても反応が無くなってきた。ただ一生懸命に呼吸を続けている。父の体には1本の点滴と無線式の小さな心電図が付いているだけ。時々、看護士さんが血圧、体温、酸素量、おむつ替えに来るだけ。積極治療はない。

どのくらい残されているのだろう。こうして手を握り顔を眺め、父との日々を反芻できるのは。もう少し、今しばらく、こうしていたい。

ありがとうね。私は生まれて来て良かったよ。あなたの子供で幸せだったよ。

父ちゃん、辛い戦争はあったけど、その後は幸せだったよね。
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父親の病室にて

2006-11-02 04:47:35 | 父の事
父の様子がおかしいという連絡あり、会社を早退し田舎に帰る。

病室に入るとベットに寝ていた。別人のようになった父が。入れ歯をはずしているからよけいに、小さく見える。「私、わかる?」と大きな声で言うと、コクコクとうなずく。

ちよっと風邪ぎみだからと病院に行き、脱水症にかかっているからと入院する。そして検査をしたら末期の癌とわかる。すべての臓器に転移しているとの事。この週末に帰る事にしていたが急いで駆け付けた。

何十年もかかっていた病院でわからず、かかりつけの病院を変えたら、もう末期だなんて。もう父と会話も出来なくなってしまったなんて。昨日はちゃんと病院の食事を取りながら話をしていたそうだ急に昏睡状態になったそうだ。

こんなに癌が進行しているのに、今まで辛くはなかったのかしら。癌は痛みがひどいというが、痛そうなそぶりはない。熱もない。でもゼーゼーと息がくるしそうだ。

昔から体は頑健だった。あまり病気もした事がない。寡黙で頑固な所もあったが、働き者の父だった。私達娘三人をこよなく可愛いがってくれた。本当は息子がほしかったのだろうと、よく思った。

父さんもう少し頑張って。離れていてあまり親孝行出来なかった。後悔する事ばかり心に浮かぶ。
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