文化財だとばかり思っていた建物もいつのまにか解体されてしまっていた。
三田の藩邸長屋風建物
所在地:港区三田2-3(三井倶楽部敷地内)
建設年:明治40年代、関東大震災で被災し昭和初期に大改装される。
構造・階数:木2
2008年7月頃解体
Photo 2007.7.1
ネット上の記事の中には、この建物は、江戸期にここにあった砂土原藩の長屋の遺構であると記しているものがあり、「砂土原藩邸長屋」とされていたりすることも多いのだが、いろいろ調べてみたらどうもそうではないようだ。大名屋敷に造られた長屋を模した建物なので「藩邸長屋風建物」としておく。
かなり前のことになるが、昨年10月末に早稲田大学芸術学校の「現代作家作品論」なる公開授業でお話をさせて頂いた。私自身は建築家でも映像作家でもなく、とりたてて作品があるわけでもないので、ちょっと申し訳ない気分だったが、とりあえず、東京という都市とそこで写真を撮るということについて、少しお話をした。
その講義の中で、とりあえずいろいろ写真を撮っておくと、あとあと意外な展開になることがあるなどと言いつつ、幕末のフェリックスベアトの写真などを引き合いに出しながら、記録的写真の性格について触れ、ついでに三田1丁目には江戸期に建てられたとも言われる藩邸長屋の建物が現存しているんですよというお話をした。
さて、授業後、受講生の方々が感想を書いて下さったのだが、その中に「あの長屋建物はもう無くなってますよ」というものを発見。
えっ?!、あれって文化財じゃなかったの? 三井倶楽部の敷地内にあって、保存されてきた建物じゃなかったの? と思ったが「毎日、通勤で通ってる途中にあった建物なんです」という文面もあり、いぶかしく思いながら帰宅。
後で検索してみると、その話がやはり事実だったことが判明。とあるブログには現場写真もあった。うわぁ、やっぱり壊されちゃったんだ。がーん。おーい、三井倶楽部さんよう、なぜ保存してくれなかったんだ・・・。
ちなみにこの建物は「港区の文化財」港区教育委員会(1984年発行)にも載っていて、そこには木造二階建てで、幕末か明治初年頃の建物と記されていた。
三井倶楽部さんは、J.コンドルの洋館には使い道があると考えたけど、長屋には用がなかったのだろうか。
三井倶楽部のHPには、なにもお知らせは載ってないようだった。ちょっと残念な扱い。こっそり壊しちゃった感じもする。残す時にはたいがい「保存します」って大々的にプレスリリースするのに、壊す時にはだんまりというのが、往々にしてあるようだけど、それって企業姿勢としてどうなんだろう。それともそんな気も起こらないほど価値のない建物だと考えてたんだろうか、などといろいろ考えてしまう。
今まではあの高台をまちあるきコースにもしていた。それは三井倶楽部だけでなく、あの建物があったからで、幕末期の江戸を忍ぶよすががあったから。それがなくなってしまったのなら、三田1丁目の高台は私にとってあまり魅力的な場所ではなくなってしまう。今後はもう通るのを止めようかと考えたりしている。
解体の事実を知った直後は、三井倶楽部のせいで取り壊されたのだと思っていたのだが、その後、なぜこの建物が壊されたのか、そして跡地がどうなるのかについて、いろいろ検索してみたら、港区議会の総務常任委員会記録(平成20年6月25日)がヒットした。
港区議会総務常任委員会記録
その中の4頁に、用地活用担当課長の説明があり、港区が都市計画道路の整備のために三井倶楽部の土地の内、道路に面した約600平米を購入したことがわかる。
6頁には
「まず委員ご指摘の門とか塀でございますけれども、これは昭和初期に建てられたものでございます。三井不動産と協議していく中で、当時の設計の原図が残っておりますので、移設に当たってはその原図をもとに三井倶楽部、創設当初の大正の姿をよみがえらせる形で、その雰囲気を壊さない形で、再整備するとお聞きしております。
2点目の道路沿いの建物でございます。建物につきましては、明治時代後半、明治40年代と言われておりますが、建築されまして、大正12年の関東大震災により壊れた経緯がございます。それで、昭和4年ごろに大改造をしておりますが、江戸時代の表長屋の趣を残している貴重な建物でございます。ただ、文化財的価値はございますけれども、文化財の指定までいくものではございません。区といたしましては、ひき家をして中に残すように協議をしておりますが、何分建物がちょっと古い関係もありますので、今後、一番いい保存方法について、これから担当の方で協議していくということを聞いております・・・」
とあって、三井倶楽部が開発をしたくて壊したわけではないことが判明。逆に考えると、都市計画道路予定地で、開発のしようがなかったから、ほったらかしにされて、今まで残っていたというのが実態だった。古い建物なのにほとんど利用されていなかったのもそのへんの事情なのかもしれない。
三井倶楽部のHPで全く扱われていなかったのも、これが区の都市計画道路建設による結果で、三井倶楽部の事業ではなかったためなのかもしれない。何らかの建物を建てるために壊したわけではなかったのだった。
確かに今まで、あそこは歩道が無く、歩きにくかった。西側のオーストラリア大使館の前などは既に広い歩道が造られているが、三井倶楽部の前は昔のままだった。
三井倶楽部から道路用地を購入してはいるのだが、敷地面積を減らして貰ってるわけで、狭くなった敷地に曳屋をして建物を残せというのは、その原因となった道路を造る側の区としてはあまり強く言えなかったのかもしれない。
しかしそこまで考えると、あの道は、そうまでして拡幅する必要があったんだろうかとも思う。むしろ車道を少し狭くして歩道を付けるだけで良かったんじゃないかと思うのだが、そういうことを言うと、都市計画決定をしておきながら今さらそれを取り消すなんて、開発権・利用権の侵害だと言われかねない。いったん都市計画決定をしてしまうと変更しにくいことが、諸々の開発を強行することに繋がってしまっている。
あちこちのHPには、江戸時代の建物であるとか、別の藩邸内にあった建物が移築されてきたとかいう記述がある。公的なものでは、前述のように1984年に発行された「港区の文化財」で、幕末か明治初年頃の建築とされているが、今回の議事録では明治40年代築で、昭和に大改造されたと、いつのまにか新しい時代の建物になってしまっていた。最近の調査により、比較的新しい建物だったことが判明したのだろうか。
議事録の記述は公的なものだし、他の情報より詳細だ。個人のHP上の情報は、私のHPやBlogも含めて、伝聞や他の記事の引用が非常に多く、間違っているケースもある。文化財を調査する専門家ではないので、とりあえず、明治40年代に建てられて昭和に大改造を受けた、という議事録を受け容れることにする他ない。
三井倶楽部説明板(港区教育委員会設置) Photo 2009.3.31
さて、確認のため、現地を訪れてみたところ、既に塀の位置が大きく後退して歩道が広がっていた。そして三井倶楽部の説明板も建て替えられていた。ご丁寧に「かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋もありました」と記されている。昔の説明板を撮った写真が手許にあったので確認すると、そちらでは「・・・前面道路ぎわに建っていた木造の建物には、もとの武家屋敷の長屋のおもかげがうかがえる。」となっていて、現在の記述とは若干異なっていた。壊すにあたって誤解が無いようにするためか、少しだけ詳しく加筆したようだ。
比較的新しかったとはいえ、それでも昭和初期。80年近く経った古い建物だったことは事実だ。また、「文化財的価値はあるけれど文化財指定するほどではない。」というのも微妙だ。文化財指定はされていないが、少なくとも過去においては文化財の資料に掲載されていたのも、微妙な扱いである。
同時期に建てられた近代建築などの中には、当時の建築技術、建築文化を良く残すものとして、文化財に指定されるものもある。一方この建物は、確かに古いけれど、その前の江戸時代の建物のレプリカであり、特に建築技術や文化の面で先進性があるわけでも、当時の状況を示すものではない。また武士が住んだり使った建物ではないし、改築されちゃってる。だから文化財指定には至らないというのは、やはり仕方ない面はあるなと思う。
でも・・・。レプリカでも、私たち一般人にとっては、江戸の町の雰囲気を知る手掛かりだったことは間違いない。私も含めて、相当数の人が、武家屋敷の遺構だと思っていたのも事実だ。
ブログには後日談も載っていた。港区の担当者の話として、江戸時代の建物ではなく、明治時代の建物で、内装としても江戸期の状態を残しておらず、あまり文化財的な価値がなかったのだとか。江戸期のものなら移築なども働きかけたのだが、とのこと。
少なくとも外見は武家屋敷の建物を模した建物だった。ああいう建物は、都心にはもうほとんど残ってなかった。明治の建物でも数少なくなっているのだから、多少でも文化的価値があるのなら、もうみんな保存すべき文化財ってことにはならないのかしらと、考えは行ったり来たりする。詰まるところやはり残念な結果だ。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 港区 #道