都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

文藝春秋銀座別館/坂口ビルⅡ

2024-12-18 | 中央区  


 Photo 2008.1.26


所在地: 
構造:
階数:
建設年:
解体年:
坂口ビルⅡ(中央) 
中央区 銀座5-5-13  
RC
4
戦前
2021(令和3)
文藝春秋 銀座別館(右)
中央区 銀座5-5-12
SRC
7+B1+R
1972・73(昭和47・48)
2021(令和3)

 銀座5丁目、並木通りとみゆき通りの交差点に面して建っていた2棟のビル。

 写真中央の4階建てはいかにも古そうで縦長の上げ下げ窓で規模も小さい。これに対して右隣の7階建ては横連窓で前者よりは赤っぽいタイルを張ったモダンなオフィスビル。よく見ると階高も異なる。諸々の情報からすると4階建ての方は戦前に建てられたもののようで、一方の7階建ては1972年か73年に建てられたものだったようだ。2010年の住宅地図では「坂口ビルⅡ」と「文藝春秋別館」として記されている。

 ただ、写真をよく見ると二つのビルは壁が繋がっていて一体のようだった。住宅地図で「坂口ビルⅡ」とされている4階建てビルの端、二つのビルの境目に「文藝春秋 銀座別館」という赤い袖看板が付けられている。


 出典『銀ぶら百年』、p.203

 『銀ぶら百年』という本には、1950年当時の文藝春秋社屋の写真が掲載されている。西角の4階建て、後の「坂口ビルⅡ」は、この写真では奥に写っているもの。また、この写真中央の建物、文藝春秋とオール読物の袖看板のある5階建ては、1973年に改築されて最近まであった建物(一枚目写真右側の7階建て)になったと記されている。

 ただしこの写真では当時の社屋は奥の4階建てと階高が概ね揃っていて、また横連窓ではない。『銀ぶら百年』では「改築」としているが、実際は建て替えだったのではないかと思われる。ネット上の不動産サイトの記事では1972年竣工とあるので、翌73年から使い始めたということではないだろうか。

 戦前の火保図では二つのビルの場所には4階建ての「本田医院」が記されている。また戦後の1950年の火保図では、角地部分はバー チエリ、残りの部分が本田医院・文藝春秋・オール読物で、角地と一体のRC造4階の建物とされている。
 文藝春秋の沿革、社史によれば、1950年に本田ビルを買い取って、内幸町の幸ビルから移転したという。『銀ぶら百年』の写真の社屋は5階建てだが、5階は増築だったようだ。

 この後、文藝春秋は、銀座西8-4(現 銀座8-2-8)のエーワンビル(RC・5F)を買収して、本社は1955年11月に移転。以降、この建物は銀座別館になり、翌1956年〜2016年にはB1〜2Fが文藝春秋画廊になっていた。
 1958年の火保図では、角地部分は喫茶店チエリ。

 この後、1960年代〜2000年頃までは、角地は徳屋ビル、東隣は文藝春秋別館。2000年代になると角地は坂口ビル、更に坂口ビルⅡとなった。


 Photo 2012.8.1

 跡地には最近になってビルが建ったが、かつての西角の部分と隣では別のビルが建てられた。設計が同じ会社で工事の期間も似たような時期だったのに別々のビルになったのは、土地所有者が現在も異なっていたりするからなのかもしれない。

参考『銀ぶら百年』泉麻人 著、文藝春秋 刊、2022
  『文藝春秋三十五年史稿』文芸春秋新社、1959
東京紅團(東京紅団)文藝春秋の足跡を歩く

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #近代建築  #オフィス  #商業系 
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