階段写真を撮るときに考えること。
もう2年ぐらい経ってしまって、かなり前の事になるが、忘れないように書き記しておこうと思う。
タモリ倶楽部のロケの合間に、タモリさんと個人的にお話することができた。それだけで本当に光栄なことなのだが、そこで坂道写真について興味深いお話を伺うことができた。
何気なく、今でも坂道写真を撮りに行かれるんですか?とお聞きしたところ、今でも夏場のお休みの日の午前中などに一人で行かれるとのこと。超有名人なのにフットワーク軽いんだなぁ。最近は次々と周りの建物の様子が変わってしまうので、昔行った坂道を改めて訪れたりもするとのこと。こういう話は、結構あちこちを歩いて撮り歩いている方ならではの発言だ。しかも、思い通りの写真を撮るのはなかなか難しいと仰る。
そして「人や車が写るのはキライ」と妙にハッキリと仰ったのが印象的だった。モノとして坂道の写真を撮りたいので、人が写るのはイヤなのだと仰っていた。だから車や人が居なくなるのを待って一時間以上同じところに佇んでいたこともあるという。タモリさんがずっと佇んでたら逆に人が集まっちゃいそうだけど。
そこで「私は、以前はモノとして階段写真を撮っていたのですが、ある時、知人に「全然、人が写ってなくて生活感が無い感じですね」と言われてから、少し気にして人を写し込むようにしたりもしてるんです。」と申し上げた。すると「いやぁ、生活感なんて要らない。私はそういうの大っキライ!、私の本の写真には一人も写ってない。」と笑っておられた。確かにタモリさんの「東京坂道美学入門」には、全くと言ってよいほど人物が写っていない。東京の街を写したにしては静かな街並み写真だ。
「でも、予定があってもう時間が無いっていうのに、宅配便のトラックが停まっちゃったりして、ホントイライラしたりするんだよなぁ。宅配便は停まるなって言いたくなっちゃう。」
アハハ・・・。
その時はそれで話がまた別の方向に向かってしまった。だが後から考えると、このタモリさんの撮り方は、タモリさんらしいというだけでなく、都市風景写真の一つの考え方を示しているのではないかとも思われる。
添景として人や車が入れば、それはそれで構図的に締まる面があるかも知れない。しかし、それが無くてもなかなか美しい構図になることもあろう。また人物や車が入った構図は偶然性に左右される。タモリさんは敢えてその手の偶然性を排し、その坂道が元来持つ美しさを焼き付けようとしているのかもしれない。
また、人物が入っていれば生活感が現れるというのは分かり易い。だが実は人物が居なくとも、生活感は街並みに現れている。街の風景を見れば、そこでの生活の様子は想像することができる。
妙に具体的な形を伴った人物が写り込んでいるより遙かによく、街を行き交う人々の姿を、誰も写っていない写真から私たちは想像できるのだ。人の居ない写真は一見クールに思えてしまうかも知れないが、そこには見る側の想像力を期待する部分が多々あり、意図を良く読み取るためには、バックボーンとしての知識も要求される。
実は大学の授業で、「景観はこれを構成する社会が共有する意識の反映である。」(「風景とは何か-構想力としての都市」内田芳明、朝日選書、1992)なんてことを私は話してたりする。これ、上記の本の内容の一部を引っ張り出して意訳した言い方で、一種の受け売りなのだが、さらに言い換えれば、街並み景観には、そこに住んでいる人や関わっている人の半ば無意識的な考えが反映されているということで、もっと言えば、街並みには文化が現れているということかもしれない。
ここ数年、ずっと、人が写っていない → 生活感がない → 生活に関心がない → 冷たい、とか、人と正面から向き合うのを避けて逃げている、みたいな気がしていて、ややそれがコンプレックスにもなっており、努めて人物を入れるようにしていた。でも一方で、本来はクールな撮り方の方が私も好きである。また、しばしば意図せざる人物がフレーム内に入って、結局納得できないこともある。本の中では、誰も居ない写真ばかりでは飽きるだろうと、ある程度、人物が入っているカットを採用したが、今考えてみると、タモリさんのような撮り方で押し通すのも良かったかも知れないなぁと思う。
タモリさんのお話からは一貫した態度が伝わってきた気がする。私の場合、人が写っていなくても構わないという程度で、残念ながらそこまでの信念はないが、今後は人物写真コンプレックスのようなものは捨てて、もう一度、撮り方を考えてみようと思うのだった。
もう2年ぐらい経ってしまって、かなり前の事になるが、忘れないように書き記しておこうと思う。
タモリ倶楽部のロケの合間に、タモリさんと個人的にお話することができた。それだけで本当に光栄なことなのだが、そこで坂道写真について興味深いお話を伺うことができた。
何気なく、今でも坂道写真を撮りに行かれるんですか?とお聞きしたところ、今でも夏場のお休みの日の午前中などに一人で行かれるとのこと。超有名人なのにフットワーク軽いんだなぁ。最近は次々と周りの建物の様子が変わってしまうので、昔行った坂道を改めて訪れたりもするとのこと。こういう話は、結構あちこちを歩いて撮り歩いている方ならではの発言だ。しかも、思い通りの写真を撮るのはなかなか難しいと仰る。
そして「人や車が写るのはキライ」と妙にハッキリと仰ったのが印象的だった。モノとして坂道の写真を撮りたいので、人が写るのはイヤなのだと仰っていた。だから車や人が居なくなるのを待って一時間以上同じところに佇んでいたこともあるという。タモリさんがずっと佇んでたら逆に人が集まっちゃいそうだけど。
そこで「私は、以前はモノとして階段写真を撮っていたのですが、ある時、知人に「全然、人が写ってなくて生活感が無い感じですね」と言われてから、少し気にして人を写し込むようにしたりもしてるんです。」と申し上げた。すると「いやぁ、生活感なんて要らない。私はそういうの大っキライ!、私の本の写真には一人も写ってない。」と笑っておられた。確かにタモリさんの「東京坂道美学入門」には、全くと言ってよいほど人物が写っていない。東京の街を写したにしては静かな街並み写真だ。
「でも、予定があってもう時間が無いっていうのに、宅配便のトラックが停まっちゃったりして、ホントイライラしたりするんだよなぁ。宅配便は停まるなって言いたくなっちゃう。」
アハハ・・・。
その時はそれで話がまた別の方向に向かってしまった。だが後から考えると、このタモリさんの撮り方は、タモリさんらしいというだけでなく、都市風景写真の一つの考え方を示しているのではないかとも思われる。
添景として人や車が入れば、それはそれで構図的に締まる面があるかも知れない。しかし、それが無くてもなかなか美しい構図になることもあろう。また人物や車が入った構図は偶然性に左右される。タモリさんは敢えてその手の偶然性を排し、その坂道が元来持つ美しさを焼き付けようとしているのかもしれない。
また、人物が入っていれば生活感が現れるというのは分かり易い。だが実は人物が居なくとも、生活感は街並みに現れている。街の風景を見れば、そこでの生活の様子は想像することができる。
妙に具体的な形を伴った人物が写り込んでいるより遙かによく、街を行き交う人々の姿を、誰も写っていない写真から私たちは想像できるのだ。人の居ない写真は一見クールに思えてしまうかも知れないが、そこには見る側の想像力を期待する部分が多々あり、意図を良く読み取るためには、バックボーンとしての知識も要求される。
実は大学の授業で、「景観はこれを構成する社会が共有する意識の反映である。」(「風景とは何か-構想力としての都市」内田芳明、朝日選書、1992)なんてことを私は話してたりする。これ、上記の本の内容の一部を引っ張り出して意訳した言い方で、一種の受け売りなのだが、さらに言い換えれば、街並み景観には、そこに住んでいる人や関わっている人の半ば無意識的な考えが反映されているということで、もっと言えば、街並みには文化が現れているということかもしれない。
ここ数年、ずっと、人が写っていない → 生活感がない → 生活に関心がない → 冷たい、とか、人と正面から向き合うのを避けて逃げている、みたいな気がしていて、ややそれがコンプレックスにもなっており、努めて人物を入れるようにしていた。でも一方で、本来はクールな撮り方の方が私も好きである。また、しばしば意図せざる人物がフレーム内に入って、結局納得できないこともある。本の中では、誰も居ない写真ばかりでは飽きるだろうと、ある程度、人物が入っているカットを採用したが、今考えてみると、タモリさんのような撮り方で押し通すのも良かったかも知れないなぁと思う。
タモリさんのお話からは一貫した態度が伝わってきた気がする。私の場合、人が写っていなくても構わないという程度で、残念ながらそこまでの信念はないが、今後は人物写真コンプレックスのようなものは捨てて、もう一度、撮り方を考えてみようと思うのだった。