本土寺を出た。
弊ブログの記事では本土寺を長々と紹介したが、実際のところは30分強程度の滞在であった。
12月初旬では紅葉が終わりを迎えつつあり、境内を少しばかり足早に歩いていたかもしれない。
いや、これから流山と柏と我孫子に取手まで行かなきゃならなかったのが大きいだろう。
さて、例のごとくスマホで本土寺から南流山駅までの経路を検索したところ、「本土寺」の位置があさっての方角になっている・・・。
スマホのGoogle Mapで始点をずらす方法を知らなかったので、仕方なく表示されたルートの所まで移動してから、Google Mapの最短経路にしたがって進むことにした。
南流山駅に向かう途中・・・
難読地名登場(^_^;)・・・すぐ横にあったのが、
あぁ、すっきりした。
南流山駅周辺で「飛電」を留められそうなところを探し、北口の某コンビニに駐車させていただいた。
スタンプ台を探し、南北出口通路からは少し隠れたところに発見。
ああ、このパターンか。改札の駅員にスタンプを出してもらい、
71番、南流山駅!
絵柄は「駅舎と近藤勇の石碑」。
スタンプの絵柄に採用された「近藤勇の石碑」というのは、近藤勇陣屋跡にあるようだ。
というわけで近藤勇陣屋跡までのルートを確認する。
しかしGoogle Mapさんは、近藤勇陣屋跡までのルートをなかなか表示してくれない。
検索結果の中には、近藤勇さんという人の税理士事務所とかが出てくる。その事務所は大阪にあるようだ。
ママチャリで大阪まで行けってか!
スマホでいろいろ検索していくうちに、近藤屋敷陣屋跡は流鉄流山線の終点・流山駅の近くにあるとわかった。
とりあえず流山駅を目標としつつ、進路をとった。
南流山駅からなんと2.4km、なかなか遠いわ~。
流山は、新撰組の局長・近藤勇と副長・土方歳三が最後に別れた地。
戊辰の戦役で敗走を重ねていた新撰組は、流山で敗残兵をまとめるべく、また新規の兵を募るべく陣屋を構えていた。
そこに新政府軍が流山を包囲する。
当時幕臣となり名を「大久保大和」と改めていた近藤。
土方は、その改名がまだ周知の事実でないことを利用し、包囲する新政府軍に釈明する策を立てた。
近藤は新政府軍の陣屋に出頭したが、新撰組が粛清した御陵衛士の生き残りにより身元が判明してしまう。
そのまま捕縛、板橋に身柄を送られ、斬首された。
土方は北へ逃れ、宇都宮、会津、函館で転戦し、戦死した。
松戸で長居してしまったので、流山はあっさりと終了。