石井望長崎純心大学准教授の論文の英文要約の理解
・・・ 真実の歴史が明らかにしなければ、東シナ海に安寧は訪れません。日本政府は、10年計画で、百億円単位の資金を供出して、民間に研究機関、宣伝・運動組織を創設させ、支援すべきです! 何と既に400年前、尖閣諸島のはるか西(大陸沿岸媽祖群島)で中国の領土紛争は解決していた!
[下記は溝口墨道氏による石井先生の論文英文要約の理解です。台湾海峡の地図を見ながら読むと驚くべき事実が分かります!]
中華人民共和国は、尖閣諸島は数百年間中国の管轄下にあり、現代の国際法は適用できないと主張しているが、何と、早くも1604年に、最も公平な国際関係を求めた自然法・国際法の父である偉大な法学者フーゴ・グロティウスがすでに尖閣諸島関連の国際法を制定していたのです。
16世紀半ばは倭寇の最盛期で、悩んだ明は、1580年までに、大陸沿岸島嶼の東引島(媽祖群島東北端)、烏坵島(金門島嶼内)、台湾と福建の間にある澎湖島を、今日の主権概念地域として規定しました。
1592年、日本の豊臣秀吉は、スペイン領のルソン島を征服も考慮に入れながら相互貿易の条件交渉をし、朱印船貿易の基礎を築きれました。17世紀初頭オランダが東印度に進出したため、日本、オランダ、スペイン、ポルトガル間の覇権争いとなり、明は、福建に沿った沿岸島嶼の主権を守ろうとしたのみでした。
明は、マカオのポルトガル人占有を許したように、オランダ人に東引島を与えるかどうか議論し、最終的に、領有権の主張をオランダに通知しました。 当時の明は、オランダとスペインは同盟していてオランダ人もスペイン人と同じく日本に行っていると信じていました。東引島(媽祖群島東北端)、烏坵島(金門島嶼)は、この時代以前は日本覇権の外縁部で、澎湖島と日本の中間に位置していたので、明は、東引島(媽祖群島東北端)、烏坵島はスペインとオランダの覇権に属していると考えました。
東引島(媽祖群島東北端)はまさに福建から琉球尖閣への航路の西端入口なので福建当局は、オランダに東引島を提供することに慎重でした。中国の裁判所は、琉球王の承認式を琉球ではなく福建で行うべきかを繰り返し議論しました。それは、明の使節が琉球に出航した場合、密輸が発生し日本、オランダ、スペイン連合に利益をもたらすので、東引島が固定貿易ポイントとして占有される可能性があったからです。同様の事がマカオで発生しました。ファンワルワイクの澎湖諸島への進出が、東引尖閣琉球航路についての激しい議論を引き起こしたことを示しています。
これ等の議論は、東引島(媽祖群島東北端)が日中の最前線地帯であることを明確にするのに役立ちました。 言い換えれば、ファンワルワイクは、尖閣水路の最も西の入り口から中国を隔離しました。尖閣諸島は、東引島(媽祖群島)の遥か東にあるから、中国の主権海域のはるか外側に位置していたのです。
当時、グロティウスの有名な作品「デ・インディス」([東]インド諸島)は、自由な主権海の最初の国際原則を提案しました。東インド諸島のいくつかの「ドメイン」がオランダの貿易を妨げていたため、彼はヴァンワルウィックの活動に関心がありました。
21世紀に入り、オックスフォード大学図書館で「ジョンセルデンマップ」が発見されました。これは尖閣海域を含む東インド諸島全体を正確に描写しています。これは、John Seldenがグロティウスへの反論に使用するために収集したソースの1つでした。 1622年、バタビア総督はフォルモサ(台湾島)遠征軍の司令官に指示を出し、「タンゲサン」という場所に言及しました。これは、おそらく赤アザラシ船の歴史資料にある東引島を指します。 「サン」は土地または島です。我々は更に調査を続行し、先に進める必要があります。
上記の記事は、石井望長崎純心大学准教授のサイト(英文)を和訳された溝口 墨道氏の投稿を石井先生の了解の元にコピペしました。
今まで以上の内容の濃い研究発表ですが、日本国内では全くマスコミが報道せず、広まっていません。
日本は石井先生の「歴史戦」で世界に伝えなければなりません。どうぞご協力のほどをよろしくお願い申し上げます。
どうぞ皆様、ツイッターやフェイスブック、またはブログなどで「拡散」をお願いしたいと思います。
★ 石井望先生のサイト・・・http://senkaku.blog.jp/2019092981107468.html
Grotius and Taiwan: American Society of Comparative Law, University of Missouri
American Society of Comparative Law, University of Missouri.


