FRANCO CORELLI Tosca 1956
コレッリは戦争で自宅を焼かれ、大変な苦労をし、造船所に勤めたが、音楽への想いは日に日に強くなるばかりだったという。
以下はコレッリの回想、マリオ・デル・モナコへの畏敬と憧れ、そして修業時代。
若き日のコレッリ<あこがれのマリオ・デル・モナコに魅せられて>
デル・モナコはすべてを備えていた。声、美貌、完璧なプロフィール。舞台の上で彼は支配者として振舞っていた。
『オテロ』は、至上空前の演技歌唱だった。
彼には十分な準備期間があって、15才から勉強を始めていた。私は始めるのが遅すぎたんだ。
あるとき、シチリアーニの前で嘆いたものだった。
「僕はデル・モナコみたいな美声じゃないんです」
「よく聞きなさい、コレッリ」 マエストロが私にこう答えた。
「確かにデル・モナコの方が君より美声だ。でも、君には彼にはない何かがある。」
私はあるアメリカの批評家のカルーソーについての批評を思い出した。「美しい声だ。だがその心は、声よりも大きく美しい」
私には、この心があった。それが正しく備わっていさえすれば・・・。
しかし、とにかくデル・モナコは大スターとして振る舞い、それが出来たし、実際そうだったんだ。
デル・モナコは確かにスターだった。
人々は、私に言ったものだ。"フランコ、さあ、行けよ!"でも、私は徹底出来なかった。"被写体になること"すら出来なかったんだ。
フラッシュをたかれると、目をむく始末で…。全然笑えなかった。私はとても臆病で内気で、逃げ回ってばかりいた。
<正面から激突した日々>
オペラ座での『ドン・カルロ』のリハーサルのことはだね、クリストフがひじょうに礼儀知らずだったからだ。
あれは、忘れもしない1958年1月だった。一幕で中断してしまったカラスとの『ノルマ』の3週間後だ。
クリストフは、フィリッポ゜二世役で、二手に分かれた民衆の間の高くなった平台の上で歌わなければいけなかったのだが、私が前方にいるのが嫌だというんだ。
「聴衆から、私が見えなくなるだろう」って。冗談じゃない。私はそこから8メートルも離れていたんだ。彼の邪魔になどなってなかったはずだ。ダブル・キャストのテノール、マリオ・フィリッペスキは、演出家が決めた定位置にいたというのに。フィリッペスキは舞台のその位置にいてもよいのに、なんで私はいけないんだい?
「君は、そこからどくんだ」とクリストフは、端役の一人の剣を抜いて、私に向かって突き付けながら、わめいた。
私はうっかりその刃を両手でつかんでしまったので、手が切れて少し血が出た。
バス歌手は、その場から立ち去った。高名で一流のバスが、だ。
残念なことだ。その8日後、劇場支配人と芸能記者を満足させるために、我々は握手をしたが。
サン・カルロ劇場での『イル・トロヴァトーレ』の悶着は、それから5,6年後に起こったことだ。マンリーコとアズチェーナだけの場面の最後で、劇場中が沸いた。私はとても満足だった。最初のうちはうまくいってなかったのに、その喝采が前の不出来な部分を消し去ってくれそうだったから…。
ところが稲妻のような声が轟いた。「ブラーヴァ、フェードラ・バルヴィエーリ!お前なんか行っちまえ!」
私に向けて発せられたその声は、脇の桟敷席の三番目の列にいた若い観客からで、しかも手で私を挑発するしぐさをしていたんだ。
私は我を忘れた。私はその男を追いかけた。剣をドン、ドン、ドンって階段に響かせながら、私は桟敷席の廊下に出た。
人々の間から、彼を探し出して、襟首をつかんでやった。
支配人のディ・コスタンツォが駆けつけて、「こら、やめなさい!やめなさい!なんで君はやっかいを起こすんだ?私を破滅させんでくれ」
それで男を離して、一件落着。
アレーナでのことは、1961年の夏だった。スコットとシミオナートと共演した『カルメン』で、マエストロ・ファビアン・セヴィツキーが幾つかのフレーズを、意味もなしに、やたらと伸ばしたんだ。
私は言ってやった。「私は辞めます。さもなくば、彼が辞めるかです」
それで、指揮はモリナリ=プラデッリに変わった。私はベル・カントの名において、アーティストとして身を守った。それだけのこと。
デビュー当初の頃、私の声にはヴィブラートがかかっていたのだが、やっとのことでそれを取り去ることが出来た。
とにかく勉強して、自分に気に入らない部分は、直すようにした。
私は自分の音色を探求し、ごく微細な強弱のつけ方も学んだ。
そう、私は最大の成功を収められないのではないかと恐れて、『ローエングリン』のような作品は避けた。
たとえ、セラフィンが「あなたが私があなたの声に恋してしまったように、あなたがこの音楽に恋することを望みます」と献辞の入ったスコアを私に贈ってくれたとしても。
<実現しなかった『オテロ』全曲録音、偉大なる指揮者たち >
そして『オテロ』は延期に延期を重ねて、直前になってキャンセルしてしまった。
『オテロ』の夢は、ほとんど実現しかけていたんだ。『オテロ』に立ち向かうために、機が熟すのをを待っていたというのが、その意図だ。
その時は、やってきていたと言ってよかった。ジョン・バルビローリ指揮、ミレッラ・フレーニ共演で、1965年に"His Masters Voice"に録音する予定だった。
それが半年前になって、私は「やらない」と言ってしまった。私の生涯の最大の過ちだ。
何らかの興味深い結果に結びついていたことだったろうに。
<ヘルベルト・フォン・カラヤンついて>
真に偉大な人だった。人々を陶酔させる"ピアニッシモ"を紡ぎ出していた。厳格で人を惹きつける人だった。
きびきびとして、エレガントで魅力的な立ち居ふるまいだった。手の動きがとても雄弁で。第一級の人物で、礼儀正しかった。
ザルツブルク音楽祭での『イル・トロヴァトーレ』で、ソプラノとバリトンとの第一幕の三重唱を練習していたときのことだ。
何度も何度も練習を重ねた。三日間続けても、オーケストラに完璧にシンクロナイズさせることに神経をすり減らして、我々はこのシーンをうまくこなせなかった。
そこは弦楽器のドラマテッィクな途絶えることのない流れの部分だった。
4日目になって、私は勇気を奮って尋ねてみた。「マエストロ、いつになったら、ソロの練習に入るんですか?」と。
彼は正しくスコアのそのページを開いて「安心しなさい。ここはただテンポをちょっと速くするよう気をつければいいのだから」と答えた。
☆ カラヤンはコレッリに自由に歌わせたようですね。しかし先輩のデル・モナコはコレッリに「カラヤンはオーケストラを効果的に聴かせる
ために、ピッチをわずかに高くしている。これでは喉がたまらない。わずかなピッチの差でも声楽家には影響があるのだ。」と言った。
デル・モナコはカラヤンにも言った。気性の激しいデル・モナコは歌手の喉をこわすおそれのあるものは許さなかった。
カラヤンは次の世代のドミンゴやカレーラスを使うことになる。