井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

2009-06-16 18:50:29 | ヴァイオリン

 多分,四大ヴァイオリン協奏曲の次に人気のあるものだと思う。欧米だけでなく,日本だけでもなく,韓国人や中国人にも人気の,本当に広く愛されている曲だ。

 この曲に関して,長年ひっかかることがあった。

 一般に,言語と音楽は不可分の関係で,音楽を理解するのに言語の学習は不可欠と言われる。殊にドイツ語圏に留学された方やドイツ音楽に詳しい方は,これを声高に主張されるし,程度の差こそあるが,フランス語圏,イタリア語圏においても,半ば常識的と言っても良いほどの見識である。

 これに異を唱えた,さる高名なピアニストがいらっしゃったのである。仮にピさんとしておこう。ピさんは,文筆活動もされており,何かの著書に「チャイコフスキーの協奏曲を演奏するのにロシア語ができないといけないとは思わない。シベリウスのヴァイオリン協奏曲を演奏するヴァイオリニストはフィンランド語ができるだろうか?」と書かれていたのである。

 ならば,という訳で,フィンランド語の学習書を手にしたことがある。これが未知との遭遇の連続,子音交替だったか母音調和だったか忘れたが,全く頭にはいらないシロモノ,フィンランド語を理解してシベリウスにアプローチする方法は,さっさと断念した。

 ただ一方で「バッハをやるにはドイツ語がわからないと・・・」などということを口にしたりするので,フィンランド語を知らないシベリウスは,どうも後ろめたさを感じずにはいられなかったのである。私の師匠だって,ロシアでは「エフゲニー・オネーギン」を聴かずしてチャイコフスキーの協奏曲を弾くなかれ,と言われたということだし・・・。

 そう思いながら二十数年たった,先日,ある高校生のシベリウスを聴いて,その後ろめたさから逃れる術を知ったような気が少ししてきた。

 その高校生のシベリウスは技術的には遜色のないものと言って良いと思った。ただ,やや物足りなさが残るのである。これが何か・・・。

 しばらくして気づいた。「拍子」がない。

 言い方を変えると,「日本語」で弾いていた。なるほど,日本語で弾くと,このようになるのか,というのを聴かされたのである。

 それから敷衍して考えると,ドイツ語であれ,フランス語であれ,ヨーロッパ語で考えたシベリウスならば,ここまでの違和感はなく,一種の味わいとして感じられるのかもしれない。でも日本語だと,どうか?

 この演奏,実はさるコンペティションにおけるもので,入賞はしたのだが,上位の賞ではなかった。審査員が,そこを重視したかどうかは定かではないが,ヨーロッパ語で演奏すれば,もっと上位にいったかもしれないなぁ,と思ったのである。

 という訳で,シベリウスを演奏するにあたってフィンランド語ができなくても,ヨーロッパ語の素養があれば,ある程度代用が利き,それがない場合は説得力に欠ける,やはり言語の勉強は必要,という結論に至ったのであった。

 二十数年に至るモヤモヤが晴れて,ようやくスッキリした。入賞しない演奏も,時として大変勉強になるものだ。高校生に感謝!