某オーケストラのコンサートマスターAと、ヨーロッパと日本を行き来する音楽家Bと私の会話。
日本のオケの人達の練習の仕方で一つ気づいたことがある。バロック関係の人達だと、最初から最後まで、一つ一つの音の形をどうするかって話に終始する。日本のオケの人達は割と「こういう感じで」とか「こんな雰囲気で」っていう音楽作りをしようとするんだよね。
短い時間で何とかしようとすることを考えた時、そういう方法だと時間がかからないからじゃないかな。
ヨーロッパ(多分オランダが中心のイメージ)なんか、まず音程ですよ。音程がはずれていても感動するなんてことは考えられない。音痴の歌をいいと思う人がいるだろうか。
ここで驚いたのは私。もう20年も前の話だが、ミュンヘンで日本人留学生の後輩と会った時の会話。
日本人の練習って、まず音程からはいったりするじゃない。こっち(ドイツ)は違うの。まずそういうことを言うとね、「そんなことは後から段々良くなるんだから、まずどういう音楽を作るかが大事」っていって、どうすれば良いか意見を聞いてくるの。
20年間に完全に逆転したのか、はたまたオランダとドイツの違いか、正確にはわからない。が、何となく前者のような気がする。
さらに何となくイヤーな感じがしたのは、日本人の学力と話のタイプが似ていたからだ。
「日本人の詰め込み教育が諸悪の根源」とばかりに「ゆとり教育」へ流れ、結果は学力低下。「難問奇問が多すぎる」のが悪とされて、マークシート方式のテストが主流になり、結果は思考力低下。
正確に述べると「逆転」ではない。20年前の音楽作りと現在の音の形作りがイコールではないからだ。前者は、どこの声部を強調したり引っ込めたりするか、テンポをどうするか、どう歌うか、などということ。後者は、音をどのようなアタックで始めて、どのように伸ばすか、強弱や長短、かなり即物的なことである。
音楽作りは「当然こうなるだろう」、という共通理解がある団体ならば、いきなり「音程」の練習でも当たり前、だろう。
はっきりしているのは音程も音楽作りも大事で、どちらもやらなければならない、ということ。
「雰囲気」だけでは、本来綿密な音楽作りはできない。これも「音程」は言わなくてもバッチリの集団ならば「雰囲気」だけで済むのかもしれない。
ともかくバロックにおいては「音の形」作りの作業がとても重要だ、ということだけはとても深く心に残ったのであった。