井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

東大と芸大を卒業すること

2015-12-18 00:25:58 | 大学

今月始め、広島大学の定期演奏会というものに、半ば無理やり参加させてもらった。いわゆるサークルの定期演奏会ではなく、授業の延長線上の催しで、第41回ということなので、かなりの伝統を持っている。(かつて開かれなかった期間もあり、実際には60年以上前から開かれていたそうだ。)

ことの発端は、私が面倒を見ている学生が「よそでも演奏したい」と言いだしたことからなのだが、私自身も以前からかなり興味を持っていたのは確かだ。

教育学部で、まともなオーケストラの授業ができているところは、今や全国に10前後しかない。

オーケストラはパートによって、あるいは職務によって、負担や責任が全く異なる。必要とされる能力もかなり異なる。
その異なる同士が力を合わせて一つの音楽を作る。
これこそ、様々な異なる能力をまとめなければならない音楽の授業の最高のモデルで、本来全大学にあるべきなのだが。

その貴重な存在、成立させるだけで大変なはずなのに、演奏した曲はというと、幻想交響曲だ、レ・プレリュードだと、かなり難しい曲の名前ばかり挙がってくるので、一体どうなっているのだろう、という興味があった。

今回の曲は、フィンランディアと新世界。断っておくが、教育学部の授業のオーケストラというのは、大半が大学に入学してから楽器を始める初心者集団である。彼らも二言目には「副科のオーケストラですから」を連発していた。
それは百も承知。その初心者集団が、フィンランディアはともかく、新世界をやる!?

正直言って、演奏水準の点では全く期待していなかった。そこをどこまで切り抜けていくのか、という様子を見たかったのだ。

ところが、予想に反して、演奏水準は結構高かった。立派に一般的アマチュアオーケストラのレベルに届いていた。これはショックだった。

私は、弦楽器が難しい曲は基本的に取り上げない。なので、今年はホルストの木星やラヴェルのボレロをやったけれど、両方とも弦楽器はかなり易しい。実質数カ月の授業では、これが精いっぱいだろうと思う。

一方、広島大学では年間を通した授業が開かれ、学生が自主的に週1回のパート練習をしているという。これが大きい、と彼らが言っていた。

なるほど、私のところの4倍以上の時間をかけて練習すれば、ここまでできるということか。

驚いたのはこれだけではない。
この定期演奏会、最初に吹奏楽があって、次に合唱があって、最後にオーケストラなのだ。
私の隣のヴァイオリン学生は、その前アルトを歌い、そのまた隣のヴァイオリン学生は、最初にサックスを吹いていた。

管楽器専門の学生も、余ってしまったら弦楽器をやるのである。

これはさすがに、それだけの楽器を保有している大学でしかできない芸当だ。

ここで思い出されたのは、かつていらしたハヤカワ先生のこと。
東大管弦楽団に所属されていた時に、全ての楽器を演奏経験したと聞いている。
そして、東大を卒業されると芸大の作曲科へ進まれた。

ところで昔、指揮者の故岩城宏之さんが「芸大を出てから東大に行くなら凄いけど、東大出てから芸大に行くやつは○○」みたいなことを、あちこちでおっしゃっていた。

少なくとも昔は、東大出て就職先が無いことは考えられなかった。そして芸大出て就職できないのは昔も今も変わらない。

そう考えると、何を好んで芸大へ、というのは当然の考え方である。

が、この期に及んで、このような場所の先生としては最高の人材だと言うしこないことを悟らされた。

学校の音楽の先生は何でもできるのが理想型だ。となると、その理想をさらに追求していくと、東大も芸大も出るというのが究極の姿になる。

それの後代の学生への影響はさすがに大きい。東大と芸大を卒業する意義を改めて深く考えさせられた体験だった。


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