井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

わぁ!すごい

2010-02-07 00:33:05 | ヴァイオリン

 学生時代,千香士先生からは「ヴァイオリン弾きは,協奏曲やソナタなどだけでなく,小品も弾けなければ一人前とは言えない」旨のことをよく言われた。いわゆるヴァイオリン的な魅力は,小品の方により多く含まれている,という主旨である。
 それを軽視する風潮に「誰がヴァイオリンを殺したか」などという物騒なタイトルで本を出し,警鐘を鳴らした評論家もいらっしゃった。(でもこれは正論だと思った。)

 ヴァイオリン界には,ヴァイオリン弾きはバッハ(無伴奏)とパガニーニ(CAPRICE)が弾けなければならない,という定説もある。ややアプローチの違いを感じるものの大同小異,同根の思想と言えるだろう。片や構築性の象徴,片やファンタジー性の代表格,といったところ。

 構築性こそ,クラシック音楽の一大特徴だ。他の音楽でこんなに所要時間の長いものは無い。一方「ファンタジー性」という言葉を使わせてもらったが,言ってみれば「わぁ!すごい!」という要素のこと,これは(もっと穏やかなものも含めて)音楽全般に不可欠なものであり,全ての音楽が共通に持ち合わせている要素と言って差し支えないだろう。エンターテイメント性と言っても良い。

 この「わぁ!すごい」の要素,ヴァイオリンには特に多く含まれるように思えてならない。ピアノのリストもすごいかもしれないが,パガニーニの「すごい」と比べてどうだろうか?

 それでもリストは「すごい」部類に属すると思うが,ショパンにそのような要素を感じるだろうか?

 ヴァイオリン以外で「すごい」と思うのはトランペット。ちょっと古いかもしれないけれど,アンドレ,ドクシツェル,ジャンルは違うけれどファーガソン,マルサリスなんて人達はすごいと思う。クラリネットのストルツマン、トロンボーンのリンドベルイもすごい。

 でも,それくらいで終わる。ステキだとは思ったフルートのランパル,クラリネットのランスロ,サックスのデファイエ,でも「すごい」というニュアンスではないのだ。

 ポッパーのハンガリー狂詩曲(チェロ)は多少すごいかもしれないけれど,ツィゴイネルワイゼンほどすごいか?

 どれを比べても,ヴァイオリンほど「すごい」とは思えないのだ。トランペット等は「すごい」のだけれど,如何せん音域が3オクターヴには至らないし,重音もできない。

 と書くと,他の楽器のひいき筋からはヴァイオリンを自慢しているように見えるかもしれない。

 さにあらず!

 ヴァイオリン弾きには,その「すごさ」が課せられるため,大変な重荷を背負っている,というグチをこぼしているのである。(もちろん,その両方の要素を強く含むところが魅力になっていることは充分理解した上での話。)

 「構築性」は知的なアプローチを必要とする。「ファンタジー性」には豊かな感性を必要とする。人間大抵どちらかが優っていて,他方は少ないものだから,みんな苦労する。バッハや古典派の楽曲には前者の要素が強く,ロマン派楽曲は後者の要素が強い。ちなみに筆者は感情的な人間なので,「構築性」が優る曲の方が表現しやすい。自分と同質な音楽なんて,恥ずかしくて演奏できますかいな。


梅鶯林道・跳弓階段

2010-02-04 21:11:53 | 梅鶯林道

ヴァイオリンの学習方法を考えたり,そのレパートリーを整理したりすると,スピッカートのことを考えざるを得ない。
オーケストラを演奏する時,重音は弾けなくても何とかなる。複数の奏者で手分けして弾けるからだ。でもスピッカートは他の手段で代用し難い。職業オーケストラの場合,スピッカートができなければ入団はできない。

そう,どこかでできるようにならなければならない技術なのである。そのためには,最低数ヵ月,場合によっては数年をかけることになる。
その練習は開放弦でもできるし,練習曲を使うこともできる。

しかし,開放弦で数年間スピッカートの練習は厳しい。
そこで考えた。
レパートリーを一望するとスピッカートやそれに似た技術(スタッカート,リコシェ,ソーディエ等)を使わなければ弾けない曲というのが結構ある。これらを難易度順に並べて,エチュードとして使ってしまうのである。つまり他の楽曲と並行して学習する形をとる。そして,完全にはスピッカート等ができなかったとしても,他が大体できていれば次に進んでしまうのである。これを2年間やれば,大抵弾けるようになるのではないだろうか。

スタートは梅鶯林道2級,楽器のサイズは3/4になってから,を標準と考える。スピッカートはフル・サイズの弓でないと労力ばかりがかかってしまう代物なので,それ以前に練習するのは筆者としては懐疑的である。

題して《跳弓階段》。怪しげなラテン語で「グラドゥス・アド・スピッカートゥス」としようかと思ったが,ここは梅鶯林道なので,やはり日本語がふさわしかろう。

1. キュイ:オリエンタル
(アップのリコシェで,まず慣れる。「演奏会用ヴァイオリン名曲集vol.2」に収録。)

2. クライスラー:「シンコペーション」 または 「道化役者」」
(元で跳ばすことに慣れる。どちらかで良いだろう。「クライスラー ヴァイオリン名曲集1」に収録。)

3. チャイコフスキー:メロディ
(ちょっと息抜き。アップのリコシェ?or スタッカート?がある。「演奏会用ヴァイオリン名曲集vol.5」に収録。)

4. モーツァルト=クライスラー:ロンド ニ長調~ハフナー・セレナードより
(スピッカートができなければデタッシェで弾いても音楽にはなる。)

5. クライスラー:シチリアーノとリゴードン
(同上「クライスラー ヴァイオリン名曲集1」に収録。)

6. パガニーニ:無窮動(常動曲)
(デタッシェで弾くのだが,速く弾けばソーティエになる。アッカルドはクロイツェルの2番等を使う代わりに,これの最初のページを使うことを勧めていた。「クライスラー ヴァイオリン名曲集2」に収録。)

7. クライスラー:前奏曲とアレグロ
(スピッカートに移弦が加わる。このあたりの曲は【1級】のレヴェルと見なして良いだろう。「クライスラー ヴァイオリン名曲集1」に収録。)

8. チャイコフスキー:スケルツォ
(これはデタッシェでは音楽にならない。「演奏会用ヴァイオリン名曲集vol.5」に収録。)

9. ノヴァチェック:無窮動(常動曲)
(スピッカートにしたりデタッシェにしたりして変化をつける。「演奏会用ヴァイオリン名曲集vol.2」に収録。)

10. サラサーテ:序奏とタランテラ
(スピッカートとリコシェのオン・パレード。【初段】になって,跳ねる弓を徹底させるために使うと良い曲。)

以上10曲。ただし,現段階ではまだ「机上の(空)論」,今から実践していって,裏付けをとる「タタキ台」である。早速本日,うちの学生達に課題として提示した。(大学生になっても,スピッカートに関しては,まだ心もとない者もいるのが現実だ。)

ただ指針の一つにはなると思う。眺めているだけで,何だかできるような錯覚さえしてくる。さあ,がんばろう。


渡辺 茂:たきび

2010-02-01 17:59:45 | アート・文化

かきねの かきねの まがりかど

この歌である。

話変わるが,三カ国語話せる人は「トリリンガル」,二カ国語話せる人は「バイリンガル」という。
では1カ国語しか話せない人は・・・

答「アメリカン」    (どこかの国のジョークより)

過日,オレゴン州の公立小学校から,日本語教育のプログラムが存亡の危機にあるという報道がなされた。驚いたことが一杯ある。

・アメリカ合衆国の公立小学校で日本語教育が成されていたこと。
・それが20年も続いていたこと。
・日本語を学ぶ小学生は,9州で3000人いること。

その子供たちは立派に日本語で自己紹介をするし,会話もするのであった。前述のジョークを見事に覆している訳だ。

その子供たちが歌っていたのが「たきび」

たきびかぁ・・・。日本では15年ほど前のダイオキシン騒動以来,ほとんどできなくなってしまった。
ということは,今の日本の子供たちは,たき火ができない。できないから当然知らない。知らないものを歌うのは無理があるから,やはり当然のように歌われなくなってしまった。

寂しい限りである。

なかなか良い歌だと思う。ドレミソラの五音音階でほぼできていながら、ファが1箇所だけはいる(あーたろうか、の「ろ」のところ)。このセンスが心憎い。

作曲者の渡辺茂氏、一般には知られていないかもしれない。しかし井財野にとっては師匠のような存在である。

小学生の頃、「作曲のべんきょう」という子供向けの本があり、熟読玩味したものである。その著者が渡辺茂氏。都内で小学校の校長先生をなさっていたはずだ。他に有名な作品は「ふしぎなポケット」(ポケットをたたくと、ビスケットが・・・割れる、ではなくて増えていく歌)

そのような経緯から大変な敬意を抱いている「たきび」、アメリカの小学生の歌声は感慨深かった。

まるで日本の小学生が歌うように歌っていた。

そこで気づいた。あれ?本当に日本人みたい。
つまり,ガイジンさんの変な強勢(ストレス/あの竹中シュトレーゼマンのような)が「ない」のである。いわゆる「平板」な歌い方だった。完璧日本風である。日本の子供たちは「マクドナルドじいさん」とか「ビンゴ」とか,きちんとストレスをつけて歌えるだろうか?

そのような次第で二度感心してしまった。日本にとっては歓迎すべきことである。何とかプログラムの存続を願いたいし,冒頭のジョークが通じなくなる日を待ち望む。