仕事が休みになったら、ブログが更新できる。
どうにかこうにか仕事納めを迎え、更新するぞと思ったら、
休暇と同時に謎の腹痛に見舞われ、思うほどに更新できなかった。
年始年末は病院があいていないし、救急車で運ばれるほどではないので、
何が原因かわからないまま。
深夜、鈍痛による浅い眠りの中、「K残して、死なれへん。私、死にたくない」と怯えた。
母からよく「私が死んだら・・・」と言われ、子供心に怖かった記憶が根深く残っている。
脅しではなく、母は病弱なところがあったからなのだが、
娘としては「もう、そんなこと口にすら出さんといて」欲しい恐怖だった。
神様に「どうかお母さんを長生きさせて下さい」と願う。
親を悲しませたくないから、親より長生きせねばと
子供にしてはずいぶん早く死というものを意識していた方だと思う。
大人になるにつれ、母がいないと何もできない父を見て、
あぁ父は母より先に自分が逝きたいと思っているな。
無茶をするのもその思いがあるからなのかなぁと。
できることなら父が母より先に(ごめん お父さん。願っているわけではないよ)
が父の理想かもと本人に確認できないことを思う。
まんが日本昔話で正直者のお爺さんとお婆さんが、仏様にひとつ願いを叶えてやろうと
問われ、
「私たちは何も欲しいものがありません。ただ死ぬ時は私たち二人一緒に死にたい。
そうすればどちらも寂しい思いをしなくてすむから・・・」
そして、最後、二人共に逝く、というストーリーがあるらしい。(やまちゃむのブログより)
美しきこの夫婦愛。
少し前の私なら、親より長生き、かつ、夫婦揃っては望むところであっただろうが、
今は違う。
親より長生き、夫を看取り(ごめん あなた。決して願っているわけではないのよ)、
残された子を支え、共に故人を偲ぶ強さを持ちたいと思っている。
子をもって、子供の死もまた恐怖である。
自身の子を亡くすというニュースを見ては、しばらく尾をひく。
子供の闘病ドキュメントを見て、どうして? なぜ神様は・・・
抜け出せない思いの私に先輩が
「大好きなお母さんに看取られてって、その子にとって幸せなことなんじゃないかなぁ」
この一言が光となって、看取れる強さを持ちたいと。長生きしたいと貪欲に。
仕事始めと同時に、謎の腹痛は治まったが、ママとして定期的に健診せねばと思う。
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