プロポーズの言葉などない。
ただ、あぁ私はこの人と結婚するだろうなということだけがわかった。
主人に出会うまでの私はずっとさびしかった。
私の方が相手を想っている気がしてならなかったからだ。
片思いが多かったので恋愛は必然的に私の方が相手を一方的に想うパターンなのだが(笑)、
男女関係という意味だけではなく、それは、友達に対してもそうで、
また、人間関係のみならず、仕事に対してもこのブログにおいてもそう、
とにかく良くも悪くも、私は対象に情熱を欠けすぎてしまう嫌いがある。
主人と出会って・・・不思議なことにさびしさを感じなくなった。
きっと言葉ではなく、うぬぼれでもなく、
私のことを深く想ってくださっていることを感じたからであろう。
ドキドキ感はないが、安心感があった。
切なさはないが、信頼があった。
うまく言えないが、我々はあわれ、ではなく、いとをかし。
日々の生活の中で、
どうしてこの人と結婚してしまったのだろうと思う時がある。(笑、きっと主人もであろうが)
そんな時、私がさみしくなくなった理由を思うようにしている。
こんな時、金魚のあくびを期待して水槽を見つめる。
LEDライトに照らされた水草の緑と金魚のオレンジのコントラストが実に美しい。
次が読めない金魚の動きを飽きずに眺める。
愛でる。
リッツ・カールトン東京に宿泊した折、立ち寄った「東京ミッドタウン」3階。(どのお店も素敵)
WISE・WISE tools 店舗内、「富士山のぐいのみ」前で立ち去り難く、赤と青を購入。
(桐の箱に紫のリボン、シルバーのメッセージカードの組み合わせも素敵な包装)
飲めない私は置物として愛でる。赤富士を見つめながら、何かいいことありますように。
晴天、見えない青空に不安が募る。
放射能の次はPM2.5・・・空気も? 食べ物も? 目に見えない恐怖。
運動会で見た青空を懐かしく思い出しながら、愛でたいと思う。
安心して、大きく息を吸いたい。
とは、よくいったもので、あぁ、あの時あぁすればよかったのにと思うことがある。
どうしてそうなってしまったのかを考える。
今回の場合、不可抗力ではない。
後になって振り返ってみると、徐々に魔の刻に向かう要因があった。
ひとつひとつの状況は必ずしもそれを引き起こすものではないであろうが、
連なった時、勃発した。
覆水盆に返らず。取り返しがつかないのだろうか・・・
いや、まだわからないではないか。
確かに私は失敗した。
でも、これからに、活かすことができるのではないか。変わることもできるのではないか。
渦中から脱出した時、
あの時、これくらいの痛手で済んだのはむしろ幸いだったと思う日が来ることを願って
唱える「人間万事塞翁が馬」
先日、息子とテレビで見た「DOG×POLICEドックポリス 純白の絆」。
見終わってすぐ、息子は家にある白いクマの人形を「シロ」(映画に出てくる警備犬の名前)と呼ぶ。
おトイレにいく時も「シロ」同伴、園に行く時は「シロ、いってくるからな」の語りかけ。
落書き帳にシロの絵を描く。
映画のシロではなくクマのシロを見ながら描いているので、映画のシロとは程遠い絵が完成する。
そんなシロもどきをハサミで切る。次に、紙を細長く切ってヒモを作る。
描いたシロに貼って、できたのが超薄型てらてらの紐つきシロ。
息子が紙製のヒモを手に薄っぺらなシロと散歩する。
息子は真剣になりきっているので笑ってはいけないが、私はひらひら歩く手製のシロが可笑しくて仕方がない。
あんなに「シロ、シロ」言っていた息子だが、継続して映像刺激を与えない場合、
3日を境に下火になって・・・
きたと思ったら、また次のブームがやってくる。今度はGONかぁ。
ゴンになりきり、「ゴン ゴン」言っている。
ゴンは「ゴン」としか話せない。今度の役作りは「ピカチュウ」並みに苦労している(笑)
1度見ただけなのに鮮明に心に残る映像がある。
伊丹十三監督の映画「たんぽぽ」。
母親が家族のためにご飯を作る「最後のチャーハン」のシーン。
危篤状態の妻に駆けつけた夫が声をかける。
眠るな、しっかりしろ。
目をあける気配のない妻に夫が言う。
「そうだ、母ちゃん。晩飯の支度だ」
その言葉に病床に伏していた母が突如立ちあがり、ふらふらになりながら台所へ向かう。
ネギを切る、チャーハンを炒める音。
「はい、できたよ」と運んでくる母。取り分ける。
「母ちゃん、うまいよ」夫が妻に声をかける。
子供たちの食する様子。ほほ笑む母、倒れる。
「ご臨終です」 長女の悲鳴に近い泣き声。
夫「さぁ、お前たち、食え。母ちゃんが作った最後の料理だ。まだ温かいうちに食べろ」
私がこのシーンを見たのはいつだったのか・・・
10代前半だったか、テレビで家族と見ていた。
見た歳こそ覚えていないが、見た時の恐怖は覚えている。
子供だった私は母親の蒼白い顔が怖かった。
母親になって、ある日ふとこのシーンを見たくなる。
まだ自分で取り分けられない末っ子にチャーハンを手渡す時、
子供がちゃんとその重みを把握するまで手を添えている。
死ぬ間際、最後の最後まで・・・これぞ母。今の私に恐怖心はない。名シーンだと思う。
ホテルにホスピタリティを学びにいく編、いかがでしたか?
プチ・ホテルジャンキーは私ではなく主人で、
そんな主人に便乗し、私も楽しませていただいております。
結婚した当初、宿代にこんなに経費をかけるなんて! と怒りました。
ところが、いざその空間に身を浸すと・・・
ホテルは寝るためだけの単なる箱モノだ、なんてとんでもない。
毎回、学びがあります。
さらっと英語で接客する彼らに対し、日本語だけで仕事し、
お給料をいただける立場に心から感謝する機会にもなっていますし(笑)
朝食後、
立ち去る我々に「どうぞよき一日をお過ごしくださいませ」とのお声掛け。
この一言が違和感なく存在する世界に学び・・・
いつもこのブログをご高覧いただきまして、ありがとうございます。
今朝は私からみなさんに心を込めて「Have a Good Day!」
ホテルにホスピタリティを学びにいく。
心くばりに、心づくし。
私はホテルや旅館にその「心」をみにいく。
お部屋に向かう道、その洗練された上質空間には、香りがあり、花があり、芸術がある。
靴底から伝わる柔らかさを感じながら扉の前へ。
ドアをあける瞬間はいつもドキドキする。
あまたあるホテルの中からお客様に選んでいただくために・・・
どのような工夫がなされているのかを観察する。
他と一線を画すために辿りついたそのホテルの答えと
さらに高みを目指す向上心を随所に感じながら、
それでもやはりホテルの印象を決めるのは、そこで働く「人」。
たった一人のほほ笑みに、立ち居振る舞いに、言葉遣いに、
ホテルとしての評価が下されることが往々にしてある。
ひとりひとりが企業の顔であるということ。
自分の働く姿はいつも誰かに見られているということ。
サービスを受けながら、身の引き締まる思いで彼らを見つめる。
高級ホテルの宿泊費は我々夫婦にとって決して安いものではないが、
サービスからインテリア・空間演出まで幅広い学びの場であり、自己投資だと考えている。
ありがとう、あなた・・・支払いはいつも主人のカード♪