夏目漱石の『坑夫』という小節の最初の部分に
「 さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生(は)えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩行(あるい)たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。」 という文が出てきます。
歩いてもあるいても松原。ときどき、どういう風景だったのだろうと思う事があります。というのは、私もそういう経験をしたことがあるからです。
めずらしい雲
子どもの頃、父に連れられて十三参りというのに行ったことがあります。汽車に乗って、ある駅で降り、そこから延々と細く曲がりくねった田舎道を歩くのですが、その途中に松林があって、それが延々と続くのです。
その中をどんどんどんどん歩いて行くと、やがて大きなお寺があり、その前でお辞儀をして帰ってくるのですが、十三歳になったらお参りに行くのだそうです。
古いキュウリと新しい苗のキュウリ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%A9%A3%E3%82%8A というサイトに十三参りのことが書いてありますが、ちょうど私がお参りに行ったお寺が書いてありました。
延々と続くのは見事ですが、反面、いつその状態から抜け出られるのだろうかと不安にもなり、息苦しくもなります。私も軽いそのような状態に陥ったことを覚えています。
今の日本もそうなのかなと思ったりして、少し息苦しいです。早く抜け出たいものです。何かまずい空気を吹き飛ばす良いことがないものですかね。
廃 句
里の秋静かにしずかに暮れて行く
今日一日無事に過ごせてありがたや
年取るとキュウリも腰が曲がるんだ
松山が雑木山になり竹山に 松枯れにより
その次は梅の山には? ちょっと無理か 松竹場