歩いてもあるいても

2012年09月26日 | Weblog

 

夏目漱石の『坑夫』という小節の最初の部分に

 「 さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生(は)えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩行(あるい)たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。」 という文が出てきます。

    

 歩いてもあるいても松原。ときどき、どういう風景だったのだろうと思う事があります。というのは、私もそういう経験をしたことがあるからです。

 
                       めずらしい雲

 子どもの頃、父に連れられて十三参りというのに行ったことがあります。汽車に乗って、ある駅で降り、そこから延々と細く曲がりくねった田舎道を歩くのですが、その途中に松林があって、それが延々と続くのです。

 その中をどんどんどんどん歩いて行くと、やがて大きなお寺があり、その前でお辞儀をして帰ってくるのですが、十三歳になったらお参りに行くのだそうです。

 
 
                             古いキュウリと新しい苗のキュウリ

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%A9%A3%E3%82%8A というサイトに十三参りのことが書いてありますが、ちょうど私がお参りに行ったお寺が書いてありました。

 延々と続くのは見事ですが、反面、いつその状態から抜け出られるのだろうかと不安にもなり、息苦しくもなります。私も軽いそのような状態に陥ったことを覚えています。

 今の日本もそうなのかなと思ったりして、少し息苦しいです。早く抜け出たいものです。何かまずい空気を吹き飛ばす良いことがないものですかね。

 

    廃 句

       里の秋静かにしずかに暮れて行く
       今日一日無事に過ごせてありがたや
       年取るとキュウリも腰が曲がるんだ
       松山が雑木山になり竹山に               松枯れにより
       その次は梅の山には? ちょっと無理か        松竹場