暑いですね。水戸は36℃になるという予報をテレビでやっていました。現在午後4時前でこの部屋では33℃くらいで、湿度は80%弱のようです。どちらの数値も簡単な計器なので、正確かどうかは分かりませんが、信じるしかないですね。
猫のミーちゃんは、廊下にドタンとひっくり返ったまま寝ています。毛皮を脱がせてやりたいです。
広い住宅地だったところに、このような物が立っていました。この一帯はすべてこのようなさら地になっていました。
ちょっと画像が小さくてわかりづらいですが、建物が写っていますので、被災前の町の写真であるようです。
一枚いちまいの貼られた紙には、このような言葉が書いてありました。一部を拡大してみました。
22日と23日の二日間、民生委員の研修旅行で、石巻市と南三陸町に研修旅行に行ってきました。
どちらもあの3月11日の大地震で大津波の被災地です。石巻市では低いところ、しかも河川の近くがかなり被害を受けたようです。
「ようです」と言いましたが、実は当時はなんどもそのことはテレビ番組で見ました。しかし、被災地があちこち数多いので、遠方の私などは、どこがどれくらいの被害に遇ったかなどは、当時でさえ、もう区別がつかなくなっていました。
見学した石巻はかなりの広さの住宅地がさら地になっていました。うえの画像はさら地の上に立てられた励ましのパネルと、被害地の模型です。
二日目。これらは南三陸町の画像の一部ですが、町の大部分が被害を受けたそうです。聞き間違いがないとしたら15mの高さの津波だたそうです。
堤防は5mだったとか。予報では6m。こちらの方が犠牲者が多かったのではないかと思います。
逃げろと言われても、家族が心配だと安否確認に駆け回ってしまい、結局は犠牲になった人も少なくないそうです。
上の画像は、土砂で嵩(かさ)上げをしているところですが、これでもまだ6m足りないのだそうです。それでも国では「ここまで」と指定しているのだそうです。
上の画像二枚は、あの「逃げてください。逃げてください。」とマイクで市民に呼びかけていた女性が犠牲になったちくあたりです。
その後は、塩釜市からチャーター船で松島湾を横断して松島までいきました。
瑞巌寺です。工事をあちこちでやっていました。震災の被害の修理なのでしょうか。整地もしているようで境内はガラリと変わってしまったところもあります。
道路は、水戸からほとんどが高速で、まず常磐道。東仙台道、南三陸道と、どこからがそうなのかは標識はあったのでしょうが、いつのまにか変わって境目はわかりませんでした。
福島県はいわき市をすぎると、あちこちにこのような風景が見られます。これは放射能を沢山含んでいる土砂等を集めて管理しているところです。
このまま何年も置いたら、まず被服が風化して中身が露出するでしょうね。その後はどうするのでしょうか。
なお、被災地では観光旅行でもかまわないので気を使わず、とにかく見に来てください、現状を知ってください、考えてくださいと言っているそうです。
語り部の話では、人間と言うのは本当にこの教訓を学んだであろうかと考えると、まだまだ大いに疑問を感じると言っていました。何に疑問かは、嵩上げが不十分でも国の基準は不十分のままだとか、人の気持ちの揺らぎなど、テレビなどを見ているとヒントになりますね。