先日、テレビで何十年かぶりで「ハチのムサシは死んだのさ」を 聞きました。たまたま見た「懐かしのメロディー的」な番組です。
その曲を聴いて「浅田光輝先生」と始めてお会いした時のことを想い出しました。私が20代の頃ですから、いまからもう・・・30年ほど前の昔のことです。
現在、「浅田光輝先生」の名前を知っているのは、限られた範囲の人達かも知れません。60年代から70年代にかけて、それなりに知られた「政治経済学者」でした。
その先生とお会いしたのは、友人に誘われて参加した、あるサークルを通してでした。
偶々、その友人のサークルに誘われて、浅田先生の「別荘」に何人かで泊まった時の事でした。
夕食の時に、何故か先生が、
『流行歌はほとんど聴かないが、今流行の「ハチのムサシ」の歌はとても気に入っている・・・・・・・』
そんな内容の話をされたのです。話の前後の事はまったく記憶から消えてしまいましたが、今回、テレビで流れる歌を聴いていたら、30数年ぶりに、その時の情景が浮かんできたのです。
「ハチのムサシ」のことを想い出し、それに繋がっていろいろと、その時の事が少しずつ、甦ってきました。
私の記憶は、先ず食べ物のから始まります。その日の夕食は鉄板焼きだったのですが、市販の「タレ」ではなく、私の手作りでした。
醤油に砂糖、ニンニク、生姜、りんご、胡麻油を調合し、先生にも「美味しい」と云ってもらった記憶があります。
また、夕食後に風呂に入ったのですが、先生が風呂場のドアの前に来て、「湯加減はどう?」と聞かれました。
まさか、有名な学者に湯加減を聞かれとは思わず、かなり恐縮した事を覚えています。その時、何と返事をしたのかは覚えていません。
それと、テレビの映りが悪いと先生が云われたので、私が屋根に上がり、アンテナの方向を調整したのを想い出しました。
その場に、ある大手電機会社の研究所に勤めている人が居たのですが、その方をさ差し置いてテレビの映りを直してしまいました。
先生に「これなら東京で観るのと同じだねェ。ありがとう」と、お礼を云われ、とても嬉しく、誇らしい気持ちになったり・・・・・・・。
それと、別荘近くの「大手スーパー」で、1リットル入りのコーラ瓶を発見して驚いた事・・・・・・。
まぁ。兎に角、大した想い出ではありませんが、懐かしい青春時代の一コマです。
その先生も、去年の10月10日に88歳で亡くなられました。私がその事を知ったのは、亡くなられて一ヶ月ほど過ぎた頃でした。
ご家族の意向により、世間には公表されなかったとの事です。本来であれば新聞でも報道された筈です。
今回、あらためて「ハチのムサシ」の詞を読んで見ました。
先生は「ムサシ」に何を想い、聴いていたのか・・・・・・、いろいろ考えてしまいます。
「ムサシ」も「浅田光輝先生」も闘い、そして、死んでしまいました。
『ハチのムサシは死んだのさ』
内田良平 作詞
むろふしチコ 補作詞
平田隆夫 作曲
ハチのムサシは 死んだのさ
畑の日だまり 土の上
遠い山奥 麦の穂が
キラキラゆれてる 午後でした
ハチのムサシは 向こう見ず
真赤に燃えてるお日様に
試合をいどんで 負けたのさ
焼かれて落ちて 死んだのさ
ハチのムサシは 死んだのさ
お日様仰いで 死んだのさ
高い青空 麦畑
いつもと変わらぬ 午後でした
ハチのムサシは 死んだのさ
夢を見ながら 死んだのさ
遠い昔の 恋の夢
ひとりぼっちで 死んだのさ
ハチのムサシは 向こう見ず
お日様めがけて剣を抜き
たたかいやぶれて 死んだのさ
焼かれて落ちて 死んだのさ
ハチのムサシは 死んだのさ
たしかにムサシは 死んだのさ
やがて日は落ち 夕暮れに
真赤な夕日が 燃えていた
浅田光輝も、ムサシも、「カッコイイ!」です。
平田隆夫とセルスターズ ハチのムサシは死んだのさ 1972
ハチのムサシは死んだのさ
その曲を聴いて「浅田光輝先生」と始めてお会いした時のことを想い出しました。私が20代の頃ですから、いまからもう・・・30年ほど前の昔のことです。
現在、「浅田光輝先生」の名前を知っているのは、限られた範囲の人達かも知れません。60年代から70年代にかけて、それなりに知られた「政治経済学者」でした。
その先生とお会いしたのは、友人に誘われて参加した、あるサークルを通してでした。
偶々、その友人のサークルに誘われて、浅田先生の「別荘」に何人かで泊まった時の事でした。
夕食の時に、何故か先生が、
『流行歌はほとんど聴かないが、今流行の「ハチのムサシ」の歌はとても気に入っている・・・・・・・』
そんな内容の話をされたのです。話の前後の事はまったく記憶から消えてしまいましたが、今回、テレビで流れる歌を聴いていたら、30数年ぶりに、その時の情景が浮かんできたのです。
「ハチのムサシ」のことを想い出し、それに繋がっていろいろと、その時の事が少しずつ、甦ってきました。
私の記憶は、先ず食べ物のから始まります。その日の夕食は鉄板焼きだったのですが、市販の「タレ」ではなく、私の手作りでした。
醤油に砂糖、ニンニク、生姜、りんご、胡麻油を調合し、先生にも「美味しい」と云ってもらった記憶があります。
また、夕食後に風呂に入ったのですが、先生が風呂場のドアの前に来て、「湯加減はどう?」と聞かれました。
まさか、有名な学者に湯加減を聞かれとは思わず、かなり恐縮した事を覚えています。その時、何と返事をしたのかは覚えていません。
それと、テレビの映りが悪いと先生が云われたので、私が屋根に上がり、アンテナの方向を調整したのを想い出しました。
その場に、ある大手電機会社の研究所に勤めている人が居たのですが、その方をさ差し置いてテレビの映りを直してしまいました。
先生に「これなら東京で観るのと同じだねェ。ありがとう」と、お礼を云われ、とても嬉しく、誇らしい気持ちになったり・・・・・・・。
それと、別荘近くの「大手スーパー」で、1リットル入りのコーラ瓶を発見して驚いた事・・・・・・。
まぁ。兎に角、大した想い出ではありませんが、懐かしい青春時代の一コマです。
その先生も、去年の10月10日に88歳で亡くなられました。私がその事を知ったのは、亡くなられて一ヶ月ほど過ぎた頃でした。
ご家族の意向により、世間には公表されなかったとの事です。本来であれば新聞でも報道された筈です。
今回、あらためて「ハチのムサシ」の詞を読んで見ました。
先生は「ムサシ」に何を想い、聴いていたのか・・・・・・、いろいろ考えてしまいます。
「ムサシ」も「浅田光輝先生」も闘い、そして、死んでしまいました。
『ハチのムサシは死んだのさ』
内田良平 作詞
むろふしチコ 補作詞
平田隆夫 作曲
ハチのムサシは 死んだのさ
畑の日だまり 土の上
遠い山奥 麦の穂が
キラキラゆれてる 午後でした
ハチのムサシは 向こう見ず
真赤に燃えてるお日様に
試合をいどんで 負けたのさ
焼かれて落ちて 死んだのさ
ハチのムサシは 死んだのさ
お日様仰いで 死んだのさ
高い青空 麦畑
いつもと変わらぬ 午後でした
ハチのムサシは 死んだのさ
夢を見ながら 死んだのさ
遠い昔の 恋の夢
ひとりぼっちで 死んだのさ
ハチのムサシは 向こう見ず
お日様めがけて剣を抜き
たたかいやぶれて 死んだのさ
焼かれて落ちて 死んだのさ
ハチのムサシは 死んだのさ
たしかにムサシは 死んだのさ
やがて日は落ち 夕暮れに
真赤な夕日が 燃えていた
浅田光輝も、ムサシも、「カッコイイ!」です。
平田隆夫とセルスターズ ハチのムサシは死んだのさ 1972
ハチのムサシは死んだのさ