歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

全生庵「金ピカ観音」と「圓朝」

2007年09月02日 | 東京の風景
昨日の続きです。

三崎坂の所々に立つ「円朝まつり」の幟を見ながら坂を下ると、ありました。ここです、祭り会場の「全生庵」。


三遊亭円朝は知っていましたが、この時期に「円朝まつり」をやっているとは知りませんでした。

円朝を知っていると云っても、落語界では神様のような人で、落語を現在のような形に作り上げた、名人中の名人と云われた落語家・・・・・・その程度です。

話しとしては、芝居話し、特に怪談話しを得意とし、滑稽話はまったくやらない、笑わせない落語家だったようです。



昔から「お笑い」は、一段低くみられていたのです。円朝は「尊敬される落語家」を目指していたようです。

そこら辺で、山岡鉄舟との繋がりが出来たのでしょう。「エライ人・尊敬される」人に成りたがる・・・・・・そんな人は結構いますからね。

まぁ。結果として円朝により、落語、そして落語家の地位もそれなりに向上したのでしょう。

それで、「円朝まつり」の方ですが、祭りの催しとしては、落語会と幽霊画の展覧会のようです。

幽霊画は円朝のコレクションで、円朝が亡くなった8月11日に合わせて、8月だけ一般に公開されているそうです。「円朝まつり」とは、幽霊画の一般公開の事のようです。

幽霊画を500円払ってまで見る気しません、500円払うならば、「すき家」で牛丼を食べる方を選びます。

墓好きとしては、円朝、鉄舟の墓はこの眼で確かめようと本堂裏手の墓地に向かいました。

この「全生庵」は山岡鉄舟が、維新に殉じた人々の菩提を弔うために、明治16年(1883年)に建てたお寺だそうです。鉄舟は5年後の明治21年(1888年)に亡くなっています。

本堂の脇まで来ると、これです! スゴイです! 落ち着いた「渋い」風景の中に、この「ど派手」な「金ピカ」な観音様が飛び込んできます。

鉄舟、円朝の時代から、このお姿で、ここに居られたのでしょうか? でも、しかし、仏像は全て「金ピカ」が本流なのです。

貴い方は「金」に覆われている事で尊ばれるのです。これが仏像の本来の「お姿」なのです。

博物館や、古いお寺で見る仏像は、派手な装飾が剥がれ落ち「渋く」変身していますが、元々はみんな「ど派手」な姿をしていたのです。


金ピカの観音様の下を通り抜けると、圓朝の墓がありました。


圓朝は、天保10年4月1日(1839年5月13日)生まれで、明治33年(1900年)8月11日に亡くなっています。

墓石には「三遊亭圓朝無舌居士」と刻まれている「よう」です。実際に私が読めたのは「三○○○○○舌居士」の4文字でした。

この戒名は「山岡鉄舟」の筆によるものと、入り口にあった案内板に書いてありました。鉄舟は明治21年に亡くなっています。

何故、明治21年に亡くなった人が、明治33年に亡くなった圓朝の戒名を書いているのか不思議な気がしました。

何故何んだろう? どうして何だろう? と考えたのです。

調べてみました。戒名は本来生前に与えられるものだったのです。

そうです! 圓朝は仏教の修行を積み生前より戒名を与えられていたのです。

死んでから、修行もせずに「貰う?買う?」と高く付くのです。良い戒名が欲しい人は、生きている間に修行をすると「安く」手に入ります。

しかし、修行を積んだ寺に葬られる場合、問題はないのですが、修行を積んだ寺と、葬られる寺が異なる場合は、生前に与えられた戒名があっても、別途、戒名代の請求があるようです。

宗派が異なると、戒名の付け方も異なるようで、お釈迦様もきっと驚いている事でしょう。今の寺は葬式が最大の「収入源?」ですからね。


これが「山岡鉄舟」のお墓です。お寺を開基された人ですから、墓地の中で一番いい場所にあり、一番大きな立派なお墓です。


全生庵は、何と云っても燦然と輝く「金ピカ観音様」です。これまで、谷中に抱いていたイメージを覆してくれました。


新しい?谷中?の発見でした。


それでは、また明日。


コメント
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