歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

練馬 「春風」と「ラーメン」

2007年12月17日 | 東京の風景
一昨日の続きです。

暫しの追憶にひたりつつ、正門から校舎を眺めていたのですが、先ほどよりの尿意を思い出し、辺りを見回すと正門の斜め前に公園を発見。昔は畑だったところです。

この公園かなり広いです、すぐに「トイレ」が眼に入りました。「おう。ヨカッタ、ヨカッタ、一安心」と、そちらに向かいました。

入り口でタクシーの運転手さんとすれ違い中に入りました。用足しを済ませ、落ち着いて公園を眺めると、遠くの方にはブランコで遊ぶグループ、近くにはボール遊びをするグループが居ます。

昼下がりの公園、遊ぶ子供、見守る母親、平和な風景です。そんな風景の中に「荒々しい馬」の彫刻が立っていました。

遊んでいるうちに暑くなり脱いだセーターが、前脚に掛けられています。何かを掛けるのには、都合の良いポーズです。


この彫刻のタイトルは「春風」、作者は「中村善平」さんです。股間には明らかに雄のシンボルがハッキリと彫られています。


それにしても、大胆なポーズです。子供の遊び場には「チョット、チョット」と思ってしまいます。練馬区はかなり大らかなようです。

広い公園の先には、大人の遊び場「ゴルフの打ちっ放し」が見えます。写真ではあまり感じないのですが、かなり不気味です。


その場で見る「鉄骨とネット」は、かなり巨大で公園の空を覆いかすようでした。「打ちっ放しの鉄骨とネット」は風景として最悪です。

郊外の農家の跡取り息子が、いつまでも「大根や、菜っ葉」作っている時代じゃない、「ゴルフ場」の経営で、農民から「事業家」に転進すべきと、年老いた両親を説得した結果の風景・・・・・・、そんな妄想が頭を過ぎりました。

何と云ってもここは23区内ですから、「農業」は贅沢なのかも知れません。農地でも数年耕作していなければ、値上がり待ちの「単なる空き地」として、宅地並に課税されるのでしょうか?

「打ちっ放し」の隣の立派なお屋敷です。もしかして、このお宅が「経営者」でしょうか?


お屋敷のこちら側の駐車場も、もしかして、このお宅の経営でしょうか?


そんな、こんなの勝手な想像をしながら、実は「ラーメン屋」さんを探し歩いていたのです。

それは、高校の時に、月1度か2度そこで昼飯に「ラーメン」を食べるのが、最高の贅沢だったのです。

その想い出を探して辺りを歩き廻ったのですが、それらしき場所には見当たりませんでした。

この風景は「その頃」の匂いがしました。


この「霧ヶ峰」の「欽ちゃん」も、あの頃の様な気がします。


昼飯時が近づいてきました。あの頃の「ラーメン屋」を諦め、「練工」を後にしました。

大通りに出ました。地図を見ると「環8通り」です。高校の頃、こちら側にはまったく来た事はなかったですが、あの頃には多分「環8」は無かったと思います。


しかし、この「黄色と緑」の「YAMADA」は、郊外で良く見かける風景です。


そして、この「四つ葉のクローバー」の「ライフ」、良く見かけます。


「黄色と緑」、「四つ葉のクローバー」の風景を見て、40年前の過去から、今の時代に引き戻されました。

さぁ。昼飯を食べる時間です。これから「飯屋」を探しながら歩きます。

それでは、また明日。



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練馬工業高校は未だ残っていました!

2007年12月14日 | 東京の風景
昨日の続きです。

石神井川を渡り、二股を右に折れます。センターラインのある道路ですが、歩道はありません。確か、昔は砂利道だったような気がします。

高校に通っていた頃は、二、三人で横一列になって歩いていました。今回、歩くと車の通行量が多く、歩行者にはかなり危険な道になっていました。


道の傍らに、こんな「小さな祠」がありました。昔からずっと、ここに祀られていた筈です。あの頃は、気にも留めず前を通り過ぎていたのです。


車の往来を避けて、脇道に入ります。郊外の住宅地のノンビリと静かな風景。


公園が気になり始めました、ここには有りません。少し「貯まって」きたのです。公園と云えばトイレ、最近は防犯対策の為に公園のトイレが少なくなった気がします。昔は小さい公園にもトイレはありました。


何処の町でも見かける普通の風景。未だ、生活感が漂っていません。建物、電柱、路地が、景色としてして溶け込み馴染んでいないのです。


葱、キャベツ、白菜です。あの頃、家は疎らに畑の中に建っていました。


住宅地の一画に、あの頃の農家が一軒だけ残っていました。


予想外に早く、突然、校庭が見えてきました。昔は周囲は畑で遠くから校舎が見えたのです。

この高いフェンスは有りませんでした。それなりに風景に馴染んでいます。

この工場の建物はあの頃から有りました。鉄骨を切ったり、曲げたり、溶接したり、そんな工場だったと思います。今はもう仕事をしていないようです。


都立練馬工業高等学校です。40年前に通っていたのです。この門を3年間入ったり出たりしていたのです。


「練馬工高」とある下に非常階段が見えますが、あそこを「カエル飛び」で上り下りした記憶があるのです。上るだけだった?

そう云えば、いつの頃からか「カエル飛び」は身体に「害」があると云われ、運動部の練習から消えていきました。

当時、水泳部に入っていました。しかし、プールは無かったので、陸上トレーニングが主でした。

偶に、近所の中学校のプールを借りて練習するのですが、中学生に負けていました。陸上トレーニングばかりしていた「変な水泳部」でした。一年で退部したと思います。

私の通った、小学校、中学校は少子化で数年前に廃校となり、残るはこの「練工」だけとなりました。

小学校も、中学校も時代の役割を終え消えた訳ですが、この高校もそろそろ時代の役割を終え、消えかかっているように見えます。

何か、寂しい話しになってきました。

兎に角、時代は変わって行くのです。高度経済成長の始まった頃、時代の要請で都内に十数校の工業高校が新設されました。

当時、「新設校」と呼ばれ、古くからある工業高校より、偏差値が低く入り易かったのです。あの頃、都立の授業料は月980円でした。私立はその数倍も高かったのです。

あの頃は、兎に角く、安くて! 入り易い! 高校を目指しました。その先の事など何も考えていませんでした。

そんなこんなで、あれからいろいろ有りました。そして、今は、只、歩き廻っているのです。


それでは、また明日。



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豊島園の“バーデ”とは?どこの?どいつ?が付けたのか?

2007年12月13日 | 東京の風景

一昨日の続きです。

向山庭園を出て、数分で豊島園の入り口が見えて来ました。
毎日この前を歩いて、高校に通っていました。40年ぶりの豊島園です。


昔とは、まったく違う風景です。立派な「入園ゲート」です。昔はもっと手前にあり、もっと小さくて寂しげな「入場券売場」だったと思います。


入るだけなら、大人が千円で子供が500円ですか、まぁ、そんなところでしょうね。乗り物乗り放題で3900円の2900円、まぁ、そんなところでしょうね。


来ました! 来ました! 私が歩いて来た向山庭園の方向から、かわいい団体さんです。幼稚園の遠足でしょうか? それにしては「リュクサック」は背負っていません。


最近の幼稚園の遠足は、こんな感じなのでしょうか? それとも、近所の園児が「チョットだけ」遊びに来たのでしょうか?

豊島園駅、この感じは昔のままの気がします。


豊島園駅は、練馬駅で西武池袋線から別れて一駅で終点の枝線です。改札にホーム、懐かしい風景です。


昔、バスの発着場があった広場は「シネコン」になっていました。


豊島園の一画に「温泉施設」が出来ていました。以前、ニュースで見たような気もします。


「庭の湯」って、何か民家の庭先にある「小さなお風呂」をイメージしてしまいます。

庭に拘るのであれば、普通に「庭園の湯」とした方が「広さ」を感じてイイと思うのですが・・・・・・。まぁ、感性の違いと云うか・・・・・・余計なお世話ですけどね。

それにしても、看板にある『バーデと天然温泉』の“バーデ”なのですが、いったい何のコッチャと思って調べたら、ドイツ語で「浴室」のことでした。

こういうカタカナ言葉、それも「ドイツ語」です。「バーデ」何て、表現を使う奴は『何処の“何奴”ダァ!』と、ツッコミを入れたくなります。


高校へは、豊島園のゲート前を右に折れ、自転車の走る方向に脇道を歩いて行きます。


脇道のこの辺りにお菓子屋さんがあり、帰りに時々、バラ売りの「大きなアメ玉」を買って、頬張りなが友達と歩いていた記憶があります。


1個5円か10円でした。その当時でも、高校生がほっぺた膨らませて、大きなアメ玉を舐めている風景は、かなり変だったと思います。

広い通りに出ます、石神井川に架かる橋です。この川の下を都営大江戸線が走っているのです。

いつの間にか知らないうちに、地下鉄がこんな処を通っていました。


豊島園の真ん中を通って流れる石神井川。この風景は40年前と変わらないように見えます。



40年ぶりに高校に行ってみようと思います。15分ぐらいで着くはずです。

それでは、また明日。



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豊島園の隣り練馬区立“向山庭園”で一服

2007年12月11日 | 東京の風景

昨日の続きです。

戦う「練馬城南住宅組合」に守られた、美しく静かな向山3丁目を歩き、豊島園を目指します。

真っ直ぐ歩いて行くと柵に突き当たりました、柵の中は大きな樹が繁っています。多分、豊島園だと思います。

突き当たりを右に折れ、柵に沿って歩いていると、玄関の廻りに「立て看板」が幾つも眼に付きました。普通の民家ではないようです。


近づいて看板を見ると、“向山庭園”“入園無料”“事務所に声を掛けて下さい”とあります。

庭園を鑑賞出来て、それも“無料”でとなれば、これはもう入らない訳にはいきません。


早速、ガラス戸を開け中に入り、「スミマセ~ン! お庭を拝見したいのですが・・・」と、奥に向かって声を掛けると、奥から、作務衣風の出で立ちで、60歳半ばの頭を丸めた男の人が現れました。

「はい。これをどうぞ」と案内のパンフレットを手渡されました。

「お庭はどちらから入って行けば宜しいですか?」と聞くと、「どちらからでも結構ですよ」との答えが返ってきました。特に順路はないようです。

お礼を言って外に出て、辺りの様子を眺めると、明らかに、建物の右手より入るのが順路と思われました。

明らかに、庭へと続く導入路の造りです。


しっかりと手入されています。


山深い雰囲気を演出しています。


緑の中の“赤い実”鮮やかです。


屋根の“落ち葉”イイです。


石垣に“緑の苔”風情があります。“わびさび”です。 


“湖畔を望む茶室”趣があります。


石積みの隙間に根を下ろした小さな紅葉。石と紅葉の配色が渋い。茶室の下の“わびさび”です。


庭から、辺りを見上げると高層マンションが見えます。


浜口内閣の江木鉄道大臣の屋敷だったそうです。この庭園の池は豊島城の「濠」の跡と云われています。

豊島園駅から徒歩3分、敷地面積2613㎡、こんな素敵な庭園が無料なのです。

廻りのマンションの住民には最高です。掃除や植木の手入れが不用で、四季の自然が楽しめるのです。庭が無くても問題ありません。


ここだけが窪地になっています。左側が向山庭園、右側の木立が豊島園です。


“無料”の向山庭園はトテモよかったですよ。


抹茶に御菓子が付いて300円。庭の景色を眺めながらお茶を一服。頂いてくれば良かった! 残念!


それでは、また明日。


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戦う!練馬区向山城南住宅組合

2007年12月10日 | 東京の風景
昨日の続きです。

暫く普通の住宅街が続いていたのですが、何やら「チョット高級感」が漂ってきたのです。

緑が多くなり、敷地も広く、庭も広く、家の造りも「高そう」になってきました。



静かです。これこそ「閑静な住宅街」の見本のようです。




そんな事を思いつつ歩いていると、この看板が眼に入ったのです。

環境宣言とあります。近寄って読んでみました。

“このみどり豊な地域は、半世紀以上にわたるわれわれの街づくりの努力によって、形成されたものである”

凄いです、50年以上の努力の結果、この街の環境が造られたようです。私が生まれた頃から頑張っているのです。

“われわれは、組合契約に基づき、この居住環境がさらに改善されるよう努力する”

現状でも素晴らしいと思うのですが、もっと良くして行こうと、かなり意欲的なようです。現状に満足した時点から、後退が始まるのは世の常ですからね。

“すべての破壊行為に対して組合いの総力をあげて戦うことを宣言する”

これには「ビックリ」しました。「組合」の文字が無ければ、何処かの国の「対テロ戦争」の宣言のようです。

美しく、静かで、穏やかな佇まいの「高級住宅地」のなかで、このような「戦闘的」な表現の文字を見ると、チョット、チョットと思ってしまいます。

何かが起これば、戦闘態勢を整え、それ相応の「武器」を手に持ち、家の中から住民が飛び出してきそうな宣言文です。舐めてかかると「返り討ち」にあいそうです。

「練馬区向山城南住宅組合」は強そうです。それにしても、「むこうやま?」「さきやま?」「こうやま?」「むかいやま?」 何と読むのでしょうか?

それにしても、この看板の「汚れ具合」は「環境宣言」に似つかわしくないです。そろそろ、この「環境宣言」も、「内部」から綻び始めてきたのかも?


老木?に街の歴史を感じます。通りかかったこの「老女」の方は、もしかして、この地で、人生の大半を過ごされた方でしょうか?


立派な「お屋敷」です。100坪はありそうです。

向山の相場は坪200万となっていました。しかし、向山でも「ここは特別」なので、300万は下らない筈です、土地だけで3億円ですね。

つまらない計算をしてしまった。

東京は広いです。豊島園の近くに、こんないい住宅地があったのです。知りませんでした。きっと、普通ではない「戦闘的」な人達が暮らしているのでしょう。


格差、貧困とは、『そんなの関係ねぇ!』人達なのでしょう。


書くにあたって調べたのですが、この地は大正12年の関東大震災の直後から宅地化の話が進み、大正13年に40名余りで「城南田園住宅組合」ができたそうです。

実際に宅地化が進められたのは、昭和2年の豊島園駅開通後のことだそうです。そうすると、住宅地としては80年の歴史があるのです。

「向山」は「こうやま」と読むそうです。近くの豊島園辺りに「練馬城」があったらしく、練馬城の南という意味で「城南」と云うそうです。

「練馬区向山城南住宅組合」のみなさん、環境保護に頑張って下さい。

それと、差し出がましいようですが、看板はそろそろ「新品」に取り替えた方がイイと思います。

何たって「環境宣言」の看板ですから、周囲の環境を破壊してはいけません。


それでは、また明日。






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練馬 “芭蕉と棕櫚”普通の庭先

2007年12月09日 | 東京の風景
一昨日の続きです。

目白通りに出ました。この辺りは車でも通った事はありません。地図を見ると真っ直ぐ進めば、豊島園に突き当たるようです。


豊島園なのですが、何故か“としまいえん”と呼んでいました。小学校の夏休み、父と姉と3人でプールで泳いだ記憶と、「ウォーター・シュート」に乗った記憶があります。

二つは同時に体験したのか、それとも別々であったのかはハッキリしません。兎に角、父がそう云っていたのか、私が云い易かったのか「としまえん」ではなく、今でも“としまいえん”と呼んでいます。

“関東マツダ練馬豊島園店”豊島園は近いのです。それにしても、関東マツダの名前は懐かしい。高校のクラスメートでこの会社に就職した奴が何人かいました。


工業高校でしたから、当時、自動車販売店からの求人が多く有りました。“自動車部”に入っていた「中島」も関東マツダでした。

色が黒くて、眼が大きく、痩せていて面白い奴でした。あの頃「カルマンギアー」に乗りたいと云っていた事を、突然思い出しました。

大通りを入ると、ここにも野菜畑がありました。


ガレージで野菜の販売。マンションの住人には有り難い地場の新鮮野菜です。都会では「害虫」が少なく、「農薬」を使わなくても大丈夫、何て話しを聞いた事があります。


ホントか?嘘か? 害虫さえも生息できない環境での無農薬野菜。安全なのか?危険なのか? 良く判りません。

青い空、真っ白なモルタル外壁、庭先のショロ、平和な風景です。


2階建てのマンション、前はテニスコート、陽当たり良好です。布団もホカホカです。


緑に囲まれた家、こちらも布団が干してあります。芭蕉の木がいいなァー。


何処にでもあるような住宅街の、何処にでもあるような普通の家。普通の人が、普通に暮らしているように見えます。

いる様で、いない普通の人? ある様で無い普通の暮らし?

やっぱり、みんな、いろいろな事があるのでしょうか?

普通の街を、昼日中、カメラをぶら下げ、ウロウロ、キョロキョロ、歩き廻る私は、やっぱり普通の人ではない?


まぁ、兎に角、知らない街を歩くのです、知らない街で知らない人が、毎日、普通に暮らしている、そんな事が不思議なのです。


それでは、また明日。




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中村橋で“豚カツの夢”

2007年12月07日 | 東京の風景
昨日の続きです。

駅前の商店街を脇道に逸れると、直ぐに住宅街になります。何処にでもある普通の住宅街です。

駐車場の先に見えるコンクリートの塀。暫く見ていなかった気がします。昔、近所にあった『渡辺製菓』の工場もコンクリートの塀でした。

『♪ワタナベのジュースの素です! モウ一杯!』・・・・・・の渡辺製菓です。


小学生の頃は、塀を見ると必ず「よじ登り」中の様子を眺めたものです。渡辺製菓の塀にも友達とよじ登り、塀に腰掛け中を眺めていたものです。

塀で内部を覆い隠すと、どうしても覗いて見たくなるものです。最近は工事現場などで、覗き窓のある塀を見かけるようになりました。

しかし、“どうぞご覧下さい”と云われると、“それじゃ覗いてみるか”とはなりません。相手が見られたくないと覆い隠すと見たくなるものです。

住宅街の駐車場、コンクリートの塀、庭先きの樹、狭い路地、イイ風景です。


風景の中に、こんな二階家が「佇んで」いました。どこかで、いつの日か、見たことのある家・・・・・・、そんな気がしたのです。

周囲の家よりも一段屋根が低いために、より目立つのです。それなりに手入れが行き届き、小さくても、低くても、しっかりと頑張って建っています。

天井が低く、手を伸ばすと届いてしまいそうです。開け放たれた窓から部屋の様子をそっと窺うと、天井は無く屋根裏がそのまま天上になっていました。

路地を抜けると、目白通りに向かって新しい道路が造られています。道路の脇に“まさか”のキャベツ畑がありました。

後ろを振り返ると、駅は直ぐそこに見えます。こんなところで「まだ」農業を営んでいるのです。中村橋の周辺は「こんな処」だったのです。


キャベツに囲まれて建つアパート。デザイン、色使いも洒落てます。キャベツに囲まれて暮らすのも悪くないです。


キャベツ畑で思い出しました。
むかし、柳亭痴楽(4代目)云う落語家が、「痴楽つづり方教室」と云う落語をやっていました。

目つきも悪く「ゴッツイ顔」していたので、「破壞し尽くされた顔の持ち主」のフレーズで人気がありました。 今から40年以上前の事です。現在の痴楽ではありません。

その「痴楽つづり方教室」と云う噺の中に、“豚が昼寝をしていたら、豚カツにされて食べらそうになる夢を見て、ビックリして眼を覚ますと、キャベツ畑で寝ていた”と、云う落ちの、他愛ない噺しです。

このアパートの住人で太めの方は、毎夜、豚カツにされて食べられてしまう夢に魘されているかも?知れません。

廻りが大根だとサンマの塩焼きでしょうか? 畑に囲まれたアパートはそれなりの苦労があるかもねェ。

そんな、こんなを思いつつ歩いていると、ブロック塀に囲まれたお屋敷の脇に出ました。学校の校庭のような広大な敷地です。


見上げる大木に囲まれて、豪邸が建っています。ここらの「地主さん」でしょうか? 一回りするのに相当時間がかかりそうですし、掃除も一日がかりになりそうです。大変ダァ!


お屋敷の前は「目白通り」です。


ここを渡ると、豊島園はもうすぐ・・・・・・の、筈です。


それでは、また明日。



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西武線シリーズ再開!第一回!

2007年12月06日 | 東京の風景
再開です。前回の“西武線シリーズ”は7月6日に始まり、7月24日で終了した連続18回のシリーズでした。

最初の予定では、西武新宿線上井草駅から、西武池袋線を越えて東武東上線常盤台駅まで歩き、沿線間のイメージの空白を埋める予定でした。

しかし、当日(7/5に歩く)の暑さにより、前回のシリーズでは、西武池袋線の中村橋駅で中断していました。

あれから、4ヶ月の月日を経て、西武線シリーズの完結を目指し、11月14日、中村橋から常盤台まで歩いてきました。

今回、完結編を書くにあたり、前回のブログを読み返したのですが、前回は“真夏”の炎天下、木陰を辿り。

今回は“晩秋”の木陰を避けて、陽射しを辿る・・・・・・、季節の移ろいを想いつつ、シリーズの再開第一回目の始まりです。



JR山手線池袋で乗り換えです。中央連絡通路を通り、西武線の改札に向かったのですが、地下通路の階段には「ビックリ!」しました。


こんなところに、派手な色彩で「広告」が描かれていたのです。

黒の編みタイツに“ホットパンツ?”です、階段を踏み外しそうになりました。やはり、時々は都会に出ないといけません。

山手線に乗り、混雑した地下道で素早く人の流れに乗り、こんな風景を自分の眼で見る、そうか? これが? 今か? 何て思ったりしました。

実はわたくし、何を隠そう、今から“40年”ほど前、高校生の頃、池袋でJR赤羽線から西武池袋線に乗り換え、豊島園まで3年間通っていたのです。

池袋駅の“様子”はその頃と大きな変化は感じません。全体の“配置”は当時のままです。

この車体の黄色はホントにイイ色です。大好きです。久ぶりに見る「普通・保谷」の文字、懐かしいです。


途中、急行の通過待ちで3分間停車した「江古田駅」、駅のホームは昔のままです。この日は快晴でした。


中村橋に11時到着。先ずトイレで用足しを済ませ改札を出ました。寒い季節は「もよおす」ことが無くても、トイレがあれば「排泄」するのが、歩き廻る時の大原則なのです。以前に二度ほど「危険」な経験をしています。

改札を出たこの風景、4ヶ月前の暑い日の頃を想い出してきました。


人は疎らです。


駅前商店街も、昼には未だ時間があり、中途半端な時間です。


いよいよ、4ヶ月ぶりに東上線常盤台駅に向けて出発です。

本日、ここまでと致します。


それでは、また明日。





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取手“長禅寺のサザエ堂”

2007年12月05日 | お寺・神社
お詫びと訂正です。

昨日、「西武線シリーズ」の再開を予告したのですが、その前に「取手シリーズ」の最終回が残っていました。

以前に一度、「取手シリーズ」の最終回を予告して、そのまま忘れていたような気がします。かなり記憶が怪しくなった今日この頃です。

それでは、ズタズタに途切れた取手シリーズの再開、及び、最終回の始まりです。

取手宿本陣を見学して、駅の方にブラブラとではなく、スイスイと向かったのでした。この日(10/12)は徒歩ではなく、自転車で走り回ったのです。

以前から気になっていた「樹が繁る小高い丘」に行って見たのです。常磐線の車窓から間近に見える、駅前広場から少し入った所です。


やっぱり、そこは、思っていたとおり「お寺さん」でした。

「大鹿山 長禅寺」とありました。

なかなか「良さそうな」雰囲気です。自転車を石段の脇に置いて、石段を登って行きました。

本所区の源太郎さん、日本橋区の常吉さん、


麹町区の徳三郎さん、京橋区の喜三郎さん、


石段の「寄付」は、東京からがほとんどなのです。この寺は「東京」からも、多くの参拝者を集めていたようです。これは、もしかして、かなりの「名刹」かも知れません。

山門は、鐘突堂を兼ねた「鐘楼門」です。


ゴチャゴチャとした駅前商店街からは隔絶された世界です。ここは何処?何て思うのです。 


なかなか、ケッコウなお庭です。それなりに手入れがされています。それにしても、このホース、風景を味わう妨げになります、作業終了後は片付けましょう。


本堂は「鉄筋コンクリート製」なのですが、それなりに「木造」の雰囲気を出しています。


内部もそれなりの雰囲気です。


このお堂が、この寺の一押しです。「三世堂」と云い、過去、現在、未来で、三世だそうです。


それで、このお堂の「建築様式」が珍しいのです。はじめて見ました、聞きました。“さざえ堂様式”と云うのです。

外観は二層に見えますが、内部は三層になっており、登りと下りが「交差」することなく一巡できるそうです。

そして、宝暦13年建築(1763年の建築)で、現存する「さざえ堂様式」では、何と「日本最古」だそうです。

そんな説明板があるのですが、何故に?「さざえ堂」なのか、いまいち理解し難いのです。

帰宅後調べてみました。

これが、正しい「さざえ堂様式」なのです。これならば、誰が、何と、云おうと、見た目が、まさしく「貝」の「サザエ」です。


二重螺旋構造になっており、登りの参拝者と、下りの参拝者が「交差」しないようになっているのです。

これであれば、直ぐ納得です。この構造からすると、この「三世堂」は「改良型?」の「サザエ堂」と云ったところです。

やっぱり「サザエ堂」は、見た目が「サザエ」でないとねェ・・・・・・と、思うのです。登りと下りが交差しない事で「サザエ堂」を名乗れば、有る意味で、すべてサザエ堂様式になってしまいます。

サザエ堂は、あくまでも「階段」「スロープ」が「二重螺旋構造」であること、そして、外観が「巻き貝風」でなければならないと思うのであります。

これは会津若松市にある「国指定重要文化財」の「円通三匝堂」(1796年)です。


兎に角です。取手駅の傍に、こんな素敵なお寺があったのです。

“大鹿山 長禅寺”なかなか良かったです。


これで、二度の中断を余儀なくされた“取手シリーズ”を終わる事にします。


それでは、また明日。








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“ちりとてちん”は“和久井映見”が主役!

2007年12月04日 | テレビの話し
ホントは「西武線シリーズ」を再開する予定でしたが、ホントに困りました。昨日のスタジオパークに「和久井映見さん」がご出演になったのです。



「あの和久井映見さん」をインタビュー番組で見るのは「はじめて」なのです。和久井映見を「さん付け」で呼ぶのは「はじめて」です。何かとても「身近」になってきたのです。



演技をしていない“生”和久井映見を観るのは「はじめて」です。「はじめて」が三つも重なってしまったのです。西武線シリーズどころでは無いのです。




オープニングで見学者の間を通ってスタジオに入るのですが、拍手と、糸子さ~んの声援、握手責めで、もう大変でした。



司会者に「インタビュー番組は如何ですか? あまりこれまで有りませんよねぇ?」と聞かれ、「緊張シィーなので、上がっています」と、とても恥ずかしそうに答えていました。



この時の、表情、しゃべり方は、あの映画「息子」のシーンを思い出させてくれました。可憐な「乙女」の頃の「匂い」を残しています。今は39歳だと思います。



このドラマの主役は間違いなく「和久井映見」です。この番組を見て改めて確信しました。



「息子」が観たくなりました。清く、貧しく、美しく。都会の片隅の、またその片隅の、町工場の薄暗い材料倉庫で、真面目に一所懸命に働く美しい「和久井映見」の姿に「菩薩」が見えます。

もう、このような映画が「受け入られ土壌」は無くなってしまったような? 過去の清らかな想い出なのかも?

でも、もしかして、こんな映画が受け入れられる時代がまた訪れるような、そんな気もするのです。

格差から「貧困」が問題となってきた現在、仕事が無く、一日三食たべられない人達が問題となりはじめています。

地道に働いて、三食たべて、暖かい布団で寝る、人間はこの程度の「幸せ」で充分なのかも知れません。


それにしても、この放送があった事で、昨日のアクセス数126件の内、51件が過去に「和久井映見さん」を取り上げたページでした。驚きです。


明日からは、西武線の空白を埋めるシリーズを再開する予定です。


それでは、また明日。




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