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小谷城跡散策

今年も“びわ湖環境ビジネスメッセ”の時節となった。今年は 長浜周辺でNHKの大河ドラマ“江―姫たちの戦国”にちなんで、江・浅井三姉妹博覧会を開催している。なので、この機会に小谷城跡に行ってみたいと計画した。なぜならば、このような博覧会が企画されていない時は 小谷城への交通の便はもっと悪かったように思うが、博覧会中は このための長浜からのバスが走っているこの時が城跡を見るチャンスだと思ったからである。ネットで状況を調査し、午前に 小谷城跡を見て、昼食には長浜で何か名物でも食べ、午後にはメッセを視察する予定とした。大河ドラマ終盤の淀君晩年時期だけを書いた、司馬遼太郎の小説文庫本“城塞(上巻)”を前日に買って、米原・長浜までの長い電車乗車時間に読むつもりとした。



阪神電車で大阪に出て、長浜行き新快速に乗車。車中、久しぶりの司馬遼太郎節を楽しむ。この小説は解説や挿話がかなり自然で読みやすい印象であった。途中彦根付近でで眠ってしまったが・・・。長浜駅西口10時10分発で巡回している博覧会バスに乗り込む。
“江のふるさと館”で下車、そのまま小谷城の山を途中まで登ってくれる小谷城バスの切符を買う。現地では、今 流行の若い歴女達であふれていると思いきや、そのような雰囲気はなく、目の前を手押し車を押して老女がヨタヨタ急いでいる。どこへ行くのかと先を見れば、今から私が乗ろうとしている小谷城行きバスを目指して急いでいるようなのだ。私は慌てた。確か、案内には足元は“滑りにくい靴底のくつを履くこと。ハイヒール、サンダル等は危険”と注意書きがあったはずで、そうならばそれ相当な山登りハイキングのはずである。少なくとも、足元がおぼつかない年寄りが行く所ではない。よく見ると高齢者の集団がバスに乗り込んでいる。一体、どういうことだ!!老人会の団体を乗せ、私のような普通に歩けそうなのは4~5人しかおらず、若い人は全くいないという状態。日本の高齢化社会を象徴しているのだろうか。



このバス、一般車を規制している狭い林道を登攀するのですれ違い通行が不可となっていて、運行は厳格に実施されているようだ。バス一車に1人のガイドが付いて案内してくれる仕組。このガイドも現役引退の70歳前後の男性。挙句の果て、目的地番所跡に到着してバスを降りる時、私に“若い人からお先にどうぞ!”と言われたのには閉口した。結局、このご老人達の約半数は バス降車後この番所跡付近で 皆が見学を終えて帰って来るのを待つことにしたようだ。
皆さん、ここで用意されていた竹の杖を携える。私は 意地もあって取らず。100m弱ほどのゆるい坂を登りきると、そこにハイキング・コースの全体を示す掲示板があり、ここからガイドの解説が始まる。






通常のハイキング・コースとしては、江のふるさと館の尾根の向こうの清水谷からスタートして追手道を通ってこの場所に到達するようだ。そして、これから向かう小谷城の遺跡を登りつつ小谷山(大嶽城跡)山頂へ達し、ここから下り、福寿丸跡、山崎丸跡へ到達、清水神社に戻るというのが 熟練ハイカーのコースのようだ。これを途中までバスで登り、本丸跡まで行って戻るのが今回参加した手頃な散策の1時間コースということらしい。
さて、その清水谷には家臣団屋敷跡というのがあり、平時は浅井氏は山城ではなく家臣団や一部領民とここに居住していたとのガイドの解説であった。そう言えば 徳島城も小高い山頂にあるが、平時は領主も麓の屋敷に居たとのことであったし、武田信玄ですら通常は躑躅ヶ崎館に居たが、攻められた時のために山城を用意しようとしていたとのこと。当時、山城はそういった戦時の時のみのもので、統治のためのものではなかったのだ、と改めて思った。
だが、かの秀吉は、この地を拝領した時、この城をあっさり放棄、廃城とし、琵琶湖畔の当時の今浜、今の長浜に居城を構築したとのこと。考えてみると、戦いは野戦で雌雄を決するものであり、城に籠もる場合は外部からの強力な援軍がない場合、殆どそのまま敗北、滅亡となっている。兵糧攻めにあえば、いずれ敗れる道理だ。従い、堅固な山城はそれほど有効ではなく むしろ統治のためには不便極まりないものであるとの柔軟で合理的な判断によるものなのだろう。それも 信長の居城が平城の清洲城であったことも当時の常識から自由な発想ができたのかも知れない。

ここから さらに登って遥か下に 虎御前山(標高224m)が見える地点に出た。(小谷山は標高495m)信長軍は小谷攻城の時、清水谷に真っ向対面しているここに滞陣したという。その山向こうには多少の靄があったが琵琶湖が見え、快晴の下 眺めは非常に良かった。この山全体が国の史跡に認定されており、環境省の監督下にあり、草花の採取はもちろん、石一つ持ち帰りは禁止とのこと。



ここから順次、御茶屋跡、御馬屋跡、馬洗い所(池)などと結構のどかな名称の地を行くが、ガイドによると、これらは“体をあらわす”名ではなく平和な江戸時代の人々が想像して付けたものだという。本来はもっと戦闘的用途の地であったはずだろうとのこと。
桜の馬場跡が 大河ドラマ“江”のロケ地とのこと。ガイドはドラマのそのシーンの写真を見せながら、そのものズバリの風景を示してくれる。



黒金門跡から大広間に入るが、この門では今や石積みの状態だけが残っているが、発掘の結果によると相当立派なものだったらしい。大広間はかなり広い平地となっている。普通の幼稚園の運動場の2~3倍程度の広さはある。自然のままではこのような平地はありえないので、掘削し盛土工事を施した結果であるとのガイドの説明である。その奥の石垣の上が本丸。その石垣の手前に井戸跡のくぼみがあり、発掘の結果、女性の化粧道具が出てきたとのこと。これにより、江姉妹とその母が この辺りに籠城していたと想像される由。その本丸の奥に大堀切があり、対岸に中丸跡と続いている。信長軍によって京極丸が落とされ、さらに上の小丸に居た父・久政と分断された本丸の浅井長政はこの西側の少し下の赤尾屋敷で自刃したとのこと。
ここを折り返し点として、予定は終了、下山となった。“いくさ”とは そんなお気楽なものではなく凄惨を極めるものと、十分承知はしているつもりだが、まさに “兵どもが夢の跡”を お手軽に感じることができて満足であった。



“江のふるさと館”で巡回する博覧会バスに乗り換え。最早、正午過ぎ。バスで古戦場姉川を越えて、長浜市街に戻って来た。このバスにもボランティア・ガイドが同乗しているが、親子丼の鳥喜多・本店の紹介があった。しかし、バスを降りて店の前に行くと、当然のように4~5人の待ち行列があった。そこで、親子丼が無性に恋しくなり、本店をあきらめ、いつものように長浜駅南東にある支店に向かうが、行き着いてみると残念ながら営業していない。
仕方ないので駅前のビルの脇にある大衆食堂に入る。店内は昭和の戦前、戦争直後の雰囲気そのまま。一見 旨そうな“にしん蕎麦セット”を頼むが、食べてみると少々残念!昼食だけは間が悪かったと 諦める。

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