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2018夏の近況と感慨

先週末は台風20号に見舞われた。この台風、“西日本を縦断”と言ったテレビ局があったが、正しくは“横断”だ。縦断と言う場合は、進路が西から東でなければならないが、今回は南から真っ直ぐ北上している。神戸付近通過時の暴風が結構酷く、時折家の窓などに雨が叩きつけられて、それが恐ろしく家中に響くことが何度かあって、若干の恐怖を覚えた。しかし、昨年10月の台風よりはましだったので、まずは大丈夫だろうの安心感はあった。規模強度としては中小型の部類の台風だったので、翌日は何事もなかったかのように世の中は動き始めるのだろうと思っていたが、そうはいかなかった。
例によって前日早々と営業を取りやめたJR西の神戸線は、その割には翌日の立ち上がりが悪かった。どうやら翌日の夕方にようやく平常に戻ったようだ。一体、何が障害でそんなに立ち上がりが悪いのか詳細は発表がないので不明のままだ。舞子付近で海岸線に最も近い箇所があるが、それならば山陽電車の方がもっと不利のはずだが、復旧は山陽の方が早かった。
これは根拠なき想像だが、JRは究極のコストダウンを目指しているので、予防保全の考え方を放棄したのではないか。故障したり、障害が起きてから、その不具合部分を是正することにしているのではないだろうか。現実に故障したり線路上に障害が生じれば、それだけで列車を走らせることができなくなるので、運行をストップさせても世間から非難されることはない。従がい、全ての問題が、後手後手に回って復旧が遅くなる傾向にあるのではなかろうか。例の新幹線の台車フレームの亀裂がその好例で、この場合は問題が起きていても、列車を走らせてしまった。だから、今や“何か問題があれば、列車を止めろ!”となった。
しかし予防保全をないがしろにする組織に待っているのは大事故でしかないのではないか。だから、鉄道会社のように公共性に大きな役割を担う組織の在り方としては、現状の会社方針とは逆のような気がする。つまり、予防保全を徹底して、多少の障害が生じても問題を極小化して安全を確保し、少々の悪天候でも人々の不安に応える安心・安全の姿勢が望まれるのが当然ではないのか。JR西は鉄道会社としての社会的責任、公共性を放棄している。

しかし、台風一過の翌日に予定されていた世界一周の船旅用の客船の公開が午前は中止され、午後のみになってしまい、午後には研修が予定されていた私は、見学を断念せざるを得なかった。非常に残念。ずぼらな私には宿泊所が移動する船旅が夢だ。しかし、船酔いが心配。その他、運動不足はどうするのか、航海時ヒマはどうやって潰すのか、当然日本のテレビは見れない等々さまざまな懸念要因がある。それを打ち消す一助に船内見学は必須だったのだが・・・。

ところで、この夏の酷暑は一体何によるのだろうか。7月頃に良く語られたのは、太平洋高気圧の上にチベット高気圧が載って、二重布団となっているからだ、という見解だった。ところがその強力二重布団は8月には一体どうなったのか。その点に全く言及しない気象予報士や、南下したという予報士、東西に分裂したと語る者、北上したという者、様々だった。
高気圧が南下したのならば、南下したあたりで多量の台風発生は説明できない。強力な高気圧の下で熱帯性低気圧の発生が見られるはずがないからだ。北上したというのも間違っている。何故ならば、その時既に秋雨前線は南下しているとの説明なので、秋雨前線より北に太平洋高気圧が存在すると言うのも珍説だ。となると東西に分裂したとする説明が説得力があるが、二重布団のような強力な高気圧団を分裂させる力は何に依ったのだろうか。この説明がなければ納得性は乏しい。
ここに気象予報士の限界、否日本の気象学の限界を見たような気がする。高気圧の強度や存在を的確に説明できなければ、台風の発生や進路予想もいい加減になるはずだ。しかしそれが結構適切なのは近未来予測のためで、1週間先となると殆ど当たらないという現実があるのではないか。気象学が長期予測にいい加減ならば、気候学もいい加減にならざるを得ないのではないだろうか。気候学がいい加減ならば、地球温暖化論もいい加減にならざるを得まい。

台風が来る前8月の初めに、この夏の狂ったような酷暑を前に夏季休暇を宣してはみたものの、それと同時に体調を崩し、かかり付け医に“夏風邪”を宣告された。その後、投薬期間と合わせるかのようにほぼ1週間、食事時以外は眠り続けるというような状態から徐々に脱することができた。お医者も夏休みなので、治りきらないうちに薬切れとなるのを恐れたが、ピタッとタイミングが一致したのには驚いた。あの方は名医だ、と改めて思ったのだ。
下の子の就活予定が判然としないまま、病に臥せってしまい、何処へ遊山することもないままだったが、上の子が東京から戻って、淡路島・慶野松原で海水浴、翌日は有馬温泉と安近短旅行を楽しんだ。
慶野松原では病み上りのせいか、身体が重い感じでわずか50m弱先の浮体にも泳ぎ着く自信を失い、意欲無く日光浴に専念した。ここでは魚のジャンプが見られるのが常だが、今回も御多分に漏れず見ることができた。海水浴の後、島で日帰り温泉を探したが適切な所が見つからず、淡路SAで海峡の夕景を眺めつつ夕食を摂って帰る。
今回改めて有馬温泉の温泉街を散策したのは初めてだったので新鮮だった。昔、毒水と恐れたという炭酸泉源も見ることができた。以前、日帰り温泉は“金の湯”だけだったように記憶していたが、今回地図を見ると“銀の湯”が別の場所にあったので先ずそこから入ったが、ここでの高温のサウナに少々当たったようだ。そしてその後の“金の湯”入湯でダメージが強くなったようだった。それで少々長めの休憩の後、電車やバスに乗って帰るよりは車を運転して帰る方が楽な印象だった。


さてこの間、政治的な動きは自民党総裁選が公示されたくらいだったが、本来はコップの中の嵐とは言え、事実上の首相選びにも拘らず、“利害と打算”が先行しており、国民には実に白けたものに見える。立候補を正式表明していない安倍氏が国会議員票の7割を獲得しているという。自民党の陣笠議員等は“信なくば立たず”には程遠く“寄らば大樹の陰”、総裁選での論功行賞に期待しての猟官運動の前哨戦と化しているのだ。大勢が決まっていては、論功行賞も期待できないはずだが、そんな計算すらできないオバカばかりのようだ。
日本社会は大局的には人口減、マイナス金利でもインフレにならない不思議な経済、これは日本の危機以外の何物でもない。政策金利がマイナスとは、投資しても意味のない社会、つまりは将来絶望社会だと宣言しているということと同じではないのか。不思議にもこういうシリアスな見方は日本にはない。その上国際的に、中国、北朝鮮の脅威、さらには韓国の従軍慰安婦問題を梃子にした嫌がらせの中で、米国に盲従するとは、一体どういうことだろうか。明治150年にして、尊王攘夷の気概はどこに消え失せたのか。正義を見失った戦略なき大東亜戦争の敗北に、気骨すら雲散霧消して誇りと矜持を見失い、目前の利害に右往左往している日本人の醜悪さを、何と評するべきか。
そして、誇りと矜持をも失った末に、あの戦争で酷い目に合わせた沖縄の同胞を“土人”呼ばわりして、その上国土を米国に嬉々として無償提供してしまうのか。そんな安倍政権にすり寄る輩が、日本の将来を憂いているとは、寸毫も思えない。考えれば考えるほど怒り心頭に発するが、おとなしい羊の群れと化した日本国民は、いつまでも愚民のままで終わるのか。これではいずれ外国にマトンにされてしまうだけではないのか。
思わずここまで書いてしまったが、私はゴリゴリの右翼ではないつもりだ。普通のナショナリストであり、リベラリストのつもりだ。しかし、歴史を知れば知るほど、あまりにも現在の日本の政治状況は酷すぎるのではないか。社会心理学者はこれをどう分析しているのか、一向に聞こえて来ない。

酷いのは与党自民党ばかりではない。野党も支離滅裂だ。つまり、理想や信念を持っていないため政治信条の軸が明確でない国民党代表戦に見られるように、これも利害と打算の結果、不毛な争いになっているのではないか。
日本の政治家はもっと日本の現実を見据えて、将来どうするべきかを語るべきではないのか。将来の夢を語るという政治家としての第一の資質に欠けているのではないか。

政治家ばかりではない。障害者雇用をめぐって、日本の御役人・公務員の劣化も甚だしいことが今夏明らかになった。法の適用を厳格に実施するのが、日本の御役人だったはずだ。しかし、役所の中の役所だった財務省の公的記録改竄に見られるように、中央省庁のみならず、県単位でのいい加減な法遵守が見られることが発覚したのだ。
お蔭で、本来雇われるべき障害者の雇用機会が失われて、法の目的を果たしていないのだ。これは実に驚くべきことだ。これが氷山の一角でないことを祈るばかりだ。

法解釈と適用のいい加減さは官界ばかりではなく、今夏民間でも発覚したのだ。外国人技能実習生への扱いがいい加減であることが、日本の代表的な大企業でもあったことが発覚したのだ。一例として、日立製作所の笠戸事業所で、“フィリピン人技能実習生が、目的の技能が学べない職場で働かされている疑いがあることが分かった”という報道が一部でなされた。この報道には続報がなく、他社の報道もないが、“(外国人の)技能実習を巡っては、三菱自動車と日産自動車で実習生に実習計画外の作業をさせていたことが発覚している”ことから、日本社会ではこれ以外でも結構一般化しているものと見た方が良いのではないか。
一流企業の不祥事にはマスコミも及び腰であることが多い。CM収入の減少を恐れていると言われている。目先の利害優先なのだ。こんな骨のないことで、日本のマスコミが社会の木鐸足り得るはずがない。
少し以前、日本の企業の多くはコンプライアンスを標榜し、社会的責任を強調して、毎年CSR報告書すら公刊していたが、これらには、虚偽が結構語られていたと思うべきではないか。あの“決算粉飾”の東芝の報告書は、不正が明らかになる前は超一流であると評価されていたのは事実だ。今やその報告書を良しとした学者や有識者は、何らかの責任を取ったのだろうか。さすがに監査法人は責任を取ったようだが、目先の利害で、御追従を述べる御用学者や有識者が日本には多すぎるし、彼らの責任を厳しく問う動きも、日本では決して生まれない。それもこの国の不思議さなのだ。
それとも国家の公的記録ですら、改竄される日本では、公刊物に虚偽を記載するのは当然のことなのだろうか。そうしたことは、やがて決算報告書にも敷衍していくのが普通のことになるのだろうか。虚偽を語ることに何の罪悪感もないから、それは増殖するはずだ。

将来の理想像を見失った日本は、誇りや矜持をも失い、目先の利害と打算だけで戦々恐々とし、利害におぼれて堕落し続けるのではないか。誇りも矜持もない羊の群れの落ち行く先は地獄ではないのか。
政治復活したマレーシアのマハティールはこうした日本に“愛国心がない”と嘆いているそうだ。正しく慧眼ではないか。
こういうけじめのない中で、モリ、カケ、ザイムショウ、ニチダイ、ボクシング等々、スキャンダルが続々と温泉地獄のように腐敗臭がぽかり、ぽかりと浮き上がってくる社会に危機感が全くないこの不思議さは、一体どういうことだろうか。現実を厳正に知ろうとせず、いい加減なマスコミに踊らされて、グルメと享楽に明け暮れる無知な愚民には、明るい社会は来ないのではないか。日本は米国や中国の好餌となるばかりではないのか。
こうした国民的不安感の潜在的蔓延が、日本経済を活況にさせない遠因であるとの見方もなきにしもあらずだが・・・。

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