The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“考えよ!”イビチャ・オシムを読んで
今、サッカーW杯・南アフリカ大会に 日本中が盛り上がっている。私も にわかサッカー・ファンとして、日本チームは面白いゲームを展開してくれていると思っている。戦前、日本チームは 殆ど1勝もできないという予想が一般的であり、絶望の中にあったのだが、それが現実に開催されてみて、強豪と言われたカメルーンへのたった1勝だけで大きく ムードは変化して来た。そしてオランダ戦では 善戦した。こういう日本チームの現在の“強さは本物”と 言えるのだろうか。
日本のサッカーの水準が 客観的に また世界的に見てどういうものなのか、そして その水準が ここ数年停滞気味のように見受けられるが、それが 何故なのか それが知りたくて イビチャ・オシム氏の本を手にしたのだ。彼は、日本チームの決定力不足は 何によると見ているのか 非常に興味があったのだ。
日本人による この手の本も多数出版されているが、それは どこか大きく偏った見方をしている可能性を感じるので、サラエボから世界を見据えている客観的な眼は どのように見ているのか 非常に興味があったのだ。
オシム氏の語る日本のサッカーへの言葉は次に要約されている。
“それ(目的の達成)は、コレクティブ(集団的・組織的)であるための訓練でもあるだろう。戦術的なディシプリン(規律)だろう。対戦相手を徹底的に研究し、あらゆる事態を想定し、準備することである。そして最も大切なものは、自分たちはできるんだと信じる「自信」である。”
そして、何故 日本のサッカーが停滞しているのか、日本人のマインドに肉迫して この本の副題である“なぜ日本人はリスクを冒さないのか?”と問いかけ分析している。
オシム氏は“「リスクを負わない者は勝利を手にすることができない」が私の原則論である。リスクとは、負けることによって認識すべきものではない。だが、日本人は、そのようにして生きているように思える。”と言う。
そして日本人のリスク感覚には、トラウマがあると言う。太平洋戦争における敗戦が リスクに対して“日本人にとっては深層的なトラウマになっているのではないか。”と指摘している。
そして サッカーにとって重要な“ディシプリン”について、日本では徹底して幼少期から教育されて“「自分自身で考えることをやめる」ことを意味するようになる。いきすぎた教育とは人間を硬直させるものである。”と言っている。そして、“自分で考えることをせずにディシプリンやルールを重視した行動をとってしまっている。” “その行為は、言い方を変えれば非独立性のサインに他ならない。この問題は、日本の教育や社会、学校の組織にまつわる事項だから簡単に変革を求めることは難しいと理解している。”とまで 言っている。
重大な問題を前にして、硬くなる日本人に 次のように言っている。
“もちろん、その時に失敗することだってあるだろう。重要なのはトライすることなのだ。日本では、長年にわたって失敗に対し罰を与えるような教育システムになっているように思える。そういう社会性が、ある意味、サッカーでは悪い方向に作用する。
「失敗をして罰を受けるならば何もトライしたくない」という深層心理が消極的な姿勢につながるのである。「日本人には責任感がない」とは決して言えない。日本人のメンタリティの問題は「責任感がない」のではなく、その責任感に自分で限界を作ってしまうことではないか。自分で勝手に仕事の範疇を決めてしまい、それを達成すると、「後は自分の責任ではない」と考える。”
“日本人選手たちは、大きすぎる責任のためにリスクを少ししか負わないからだ。責任感の強すぎる選手は、リスクを全く負わなくなるのだ。
結局、サッカーであろうと人生の他の分野であろうと、誰もが多くのリスクは負わないのだ。現在では、誰も必要以上のリスクは負わない。そこが私にとって日本人の理解しがたい部分である。なにしろ銀行家でさえリスクを負わないのだから。”
やはり、日本人は どうしようもなく農耕民族なのかも知れない。オシム氏は “走ること”は サッカーにおいて絶対的前提条件であると言う。猛烈に“走りながら、考える”、そして瞬時に自分の責任において決断し、実行することが必要なのだ。それが 決定力につながるのだろう。それは、日本人には決定的に苦手な部分なのかもしれない。日本人は考えることはできる。しかし、“考える”にしても どちらかというと熟慮となってしまう。その間に様々なリスクを想定し、場合によっては上長に相談し、そのなかでの最良の手を選択し、おもむろに“次の一手”を実施する、というのが一般的な日本人の姿ではないか。特に、農耕社会では上長への相談は重要な要素ともなっており、これで多くの問題は解決してきた。
ところが、サッカーの場合、おもむろにやっていては試合は終わってしまうのである。そういう思考態様が、狩猟民族との大きな違いなのだろう。狩猟では 熟慮のたびに相談しながら“次の一手”を繰り出していては、獲物は どこかに姿を消してしまう。リスクを負いつつ自らの責任において瞬時に決定し、実行する必要があるのだ。
このような日本人が サッカーで成功するためには どうするべきか。やっぱり 瞬時に 最良の選択肢を繰り出せるように 戦術を磨くことが必要なのかも知れない。様々な パターンでどのように対応するのか予め考えて決めておくことが 重要なのだろう。そして、様々な状況を 想定して 連携の訓練を重ねるべきなのだろう。
日本の野球は その歴史と伝統の中で 様々な状況下での戦術パターンが 既に豊富にあるのだろう。野村氏のID野球はその典型なのだろう。それに 野球は 試合中のある程度の熟慮や、相談の余裕は与えられているのである。だからWBCで勝てたのだろう。
サッカーにおいて あるパターンを作り出すと言えば、セット・プレーだろう。幸いにも このセット・プレーは日本は得意であると言われている。連続するゲームの流れの中で ある種、一息つく瞬間も 日本人には必要かもしれない。だから日本サッカーにとっては 巧みに セット・プレーに持ち込むのが肝要ではないか。そのために 相手のファウルを誘う。相手のファウルを引き出すのにどうするか、相手チームの気分も分析し、ゲーム毎に 十分に戦略を練るべきなのだろう。審判の特性もよく調べておく。こういった見方での下準備が 重要なのかもしれない。恐らく 既にその程度の話は 先刻ご承知だろうとは 思うのだが・・・。
こういった 瞬発力や決定力は サッカーばかりではなく、おそらく相場取引でも必須の能力なのかも知れない。だから 日本人は 金融の世界では 欧米人に遅れを取ってしまうのかも知れない。そして なにより 合理的リスク感覚が 日本人には決定的に欠落しているようにも見えるのが 根本的問題なのだろう。
ついでながら、この本の最初に W杯ドイツ大会での 日本人のメンタル面において、相手チームへのリスペクトが欠けていたのではないか、と指摘している。そのために 一度の敗戦で メンタリティが一挙に崩壊した。確かに、特に不確実性の高い サッカーでは “勝敗は時の運”という側面が強い。だから、この“相手チームへのリスペクト”という 姿勢は 平常心を維持する上において重要な要素なのだろう。つまり、一旦 負けても 次の試合に引きずらない“自信”を維持するためには そういう心構えも必要なのだ。
これは、騎士道や武士道でも言われることだし、品格あるスポーツ・マン、ひいては 社会人として必須な要素かも知れないが、最近は見落とされ勝ちなことである。
さらに、この本にはW杯・南アフリカ大会を面白く見るためのオシム氏の選手やチームの評価も出ていて興味深い。ちなみに本田選手の評価はそれほどではない。それほど、日本チームは急速に進化しているのかも知れない。
この本には 何故かしら訳者の名が記されていない。しかし、頭のクリアで 独創的なオシム氏らしい語り口が 正確に反映していて実に読みやすい。そして、面白く読み終えることができた。
日本のサッカーの水準が 客観的に また世界的に見てどういうものなのか、そして その水準が ここ数年停滞気味のように見受けられるが、それが 何故なのか それが知りたくて イビチャ・オシム氏の本を手にしたのだ。彼は、日本チームの決定力不足は 何によると見ているのか 非常に興味があったのだ。
日本人による この手の本も多数出版されているが、それは どこか大きく偏った見方をしている可能性を感じるので、サラエボから世界を見据えている客観的な眼は どのように見ているのか 非常に興味があったのだ。
オシム氏の語る日本のサッカーへの言葉は次に要約されている。
“それ(目的の達成)は、コレクティブ(集団的・組織的)であるための訓練でもあるだろう。戦術的なディシプリン(規律)だろう。対戦相手を徹底的に研究し、あらゆる事態を想定し、準備することである。そして最も大切なものは、自分たちはできるんだと信じる「自信」である。”
そして、何故 日本のサッカーが停滞しているのか、日本人のマインドに肉迫して この本の副題である“なぜ日本人はリスクを冒さないのか?”と問いかけ分析している。
オシム氏は“「リスクを負わない者は勝利を手にすることができない」が私の原則論である。リスクとは、負けることによって認識すべきものではない。だが、日本人は、そのようにして生きているように思える。”と言う。
そして日本人のリスク感覚には、トラウマがあると言う。太平洋戦争における敗戦が リスクに対して“日本人にとっては深層的なトラウマになっているのではないか。”と指摘している。
そして サッカーにとって重要な“ディシプリン”について、日本では徹底して幼少期から教育されて“「自分自身で考えることをやめる」ことを意味するようになる。いきすぎた教育とは人間を硬直させるものである。”と言っている。そして、“自分で考えることをせずにディシプリンやルールを重視した行動をとってしまっている。” “その行為は、言い方を変えれば非独立性のサインに他ならない。この問題は、日本の教育や社会、学校の組織にまつわる事項だから簡単に変革を求めることは難しいと理解している。”とまで 言っている。
重大な問題を前にして、硬くなる日本人に 次のように言っている。
“もちろん、その時に失敗することだってあるだろう。重要なのはトライすることなのだ。日本では、長年にわたって失敗に対し罰を与えるような教育システムになっているように思える。そういう社会性が、ある意味、サッカーでは悪い方向に作用する。
「失敗をして罰を受けるならば何もトライしたくない」という深層心理が消極的な姿勢につながるのである。「日本人には責任感がない」とは決して言えない。日本人のメンタリティの問題は「責任感がない」のではなく、その責任感に自分で限界を作ってしまうことではないか。自分で勝手に仕事の範疇を決めてしまい、それを達成すると、「後は自分の責任ではない」と考える。”
“日本人選手たちは、大きすぎる責任のためにリスクを少ししか負わないからだ。責任感の強すぎる選手は、リスクを全く負わなくなるのだ。
結局、サッカーであろうと人生の他の分野であろうと、誰もが多くのリスクは負わないのだ。現在では、誰も必要以上のリスクは負わない。そこが私にとって日本人の理解しがたい部分である。なにしろ銀行家でさえリスクを負わないのだから。”
やはり、日本人は どうしようもなく農耕民族なのかも知れない。オシム氏は “走ること”は サッカーにおいて絶対的前提条件であると言う。猛烈に“走りながら、考える”、そして瞬時に自分の責任において決断し、実行することが必要なのだ。それが 決定力につながるのだろう。それは、日本人には決定的に苦手な部分なのかもしれない。日本人は考えることはできる。しかし、“考える”にしても どちらかというと熟慮となってしまう。その間に様々なリスクを想定し、場合によっては上長に相談し、そのなかでの最良の手を選択し、おもむろに“次の一手”を実施する、というのが一般的な日本人の姿ではないか。特に、農耕社会では上長への相談は重要な要素ともなっており、これで多くの問題は解決してきた。
ところが、サッカーの場合、おもむろにやっていては試合は終わってしまうのである。そういう思考態様が、狩猟民族との大きな違いなのだろう。狩猟では 熟慮のたびに相談しながら“次の一手”を繰り出していては、獲物は どこかに姿を消してしまう。リスクを負いつつ自らの責任において瞬時に決定し、実行する必要があるのだ。
このような日本人が サッカーで成功するためには どうするべきか。やっぱり 瞬時に 最良の選択肢を繰り出せるように 戦術を磨くことが必要なのかも知れない。様々な パターンでどのように対応するのか予め考えて決めておくことが 重要なのだろう。そして、様々な状況を 想定して 連携の訓練を重ねるべきなのだろう。
日本の野球は その歴史と伝統の中で 様々な状況下での戦術パターンが 既に豊富にあるのだろう。野村氏のID野球はその典型なのだろう。それに 野球は 試合中のある程度の熟慮や、相談の余裕は与えられているのである。だからWBCで勝てたのだろう。
サッカーにおいて あるパターンを作り出すと言えば、セット・プレーだろう。幸いにも このセット・プレーは日本は得意であると言われている。連続するゲームの流れの中で ある種、一息つく瞬間も 日本人には必要かもしれない。だから日本サッカーにとっては 巧みに セット・プレーに持ち込むのが肝要ではないか。そのために 相手のファウルを誘う。相手のファウルを引き出すのにどうするか、相手チームの気分も分析し、ゲーム毎に 十分に戦略を練るべきなのだろう。審判の特性もよく調べておく。こういった見方での下準備が 重要なのかもしれない。恐らく 既にその程度の話は 先刻ご承知だろうとは 思うのだが・・・。
こういった 瞬発力や決定力は サッカーばかりではなく、おそらく相場取引でも必須の能力なのかも知れない。だから 日本人は 金融の世界では 欧米人に遅れを取ってしまうのかも知れない。そして なにより 合理的リスク感覚が 日本人には決定的に欠落しているようにも見えるのが 根本的問題なのだろう。
ついでながら、この本の最初に W杯ドイツ大会での 日本人のメンタル面において、相手チームへのリスペクトが欠けていたのではないか、と指摘している。そのために 一度の敗戦で メンタリティが一挙に崩壊した。確かに、特に不確実性の高い サッカーでは “勝敗は時の運”という側面が強い。だから、この“相手チームへのリスペクト”という 姿勢は 平常心を維持する上において重要な要素なのだろう。つまり、一旦 負けても 次の試合に引きずらない“自信”を維持するためには そういう心構えも必要なのだ。
これは、騎士道や武士道でも言われることだし、品格あるスポーツ・マン、ひいては 社会人として必須な要素かも知れないが、最近は見落とされ勝ちなことである。
さらに、この本にはW杯・南アフリカ大会を面白く見るためのオシム氏の選手やチームの評価も出ていて興味深い。ちなみに本田選手の評価はそれほどではない。それほど、日本チームは急速に進化しているのかも知れない。
この本には 何故かしら訳者の名が記されていない。しかし、頭のクリアで 独創的なオシム氏らしい語り口が 正確に反映していて実に読みやすい。そして、面白く読み終えることができた。
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