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本郷和人・著“壬申の乱と関ヶ原の戦い”を読んで

今週の政治動向は、沖縄知事選と内閣改造だった。内閣改造は、軽量人材の在庫一斉処分だったようだ。とってつけたように“全員野球だ”と言ったが、今までそうではなかったのか、と突っ込んでみたくなる。後はお手並み拝見、軽量人材からの“舌禍”を手ぐすね引いて待つばかりなり、か。否、それすらも討ち取れない野党では困ってしまうのだが。

沖縄知事選では、“基地反対”の玉城デニー氏が当選を果たした。
しかし出口調査では、若い世代ほど保守的傾向にある、結果だったという。沖縄の青年たちの意識の報道を見ていると、“情報が多すぎて何が正しいのか分からない”とか、“基地反対には飽き飽きした。もっと大事なことがある。”という意見が聞かれ、ここには問題を深く考えようとしない今日的傾向が見て取れるような気がする。或いは、“生活保守主義”にも、“今の生活さえ良ければ、それで良い”という思考停止の反知性主義の傾向が見て取れる。

そういえば、今週の“ひょうご講座”では、神戸大学の谷川真一教授による講演で、中国的なるもの、或いはロシア的なるもの台頭をトランプ的なものの登場により助長しているのではないか、といった指摘があった。“中国的なるもの”とは端的に“冊封”である、という。“冊封”とは、“称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。”要は“天子”や“皇帝”を中心として、国民国家規模を越えて周辺国も従属させる“縦社会”の形成を言う。いわゆる“帝国”の形成である。

“帝国”は、欧米の“スター・ウォーズ”等の御伽噺では“邪悪”の象徴だ。“邪悪”な“帝国”に対し、“正義”は必ずと言って良い程、多様で独立した“戦士”が対等の立場で“連合”する側にある。それが民主主義の原点であるかのように、子供達に教え込んでいるように見受ける。
しかし“邪悪”な“帝国”は、現実にはそう単純ではない。“帝国”自身が自らの価値観を“邪悪”だとは、絶対に語らないのが歴史の常だ。政権を選ぶ側が、それを見抜かなければならない。それを“情報が多すぎて何が正しいのか分からない”と言って流されていると、簡単に騙されてしまう。
あのヒトラーも自国民・ゲルマン人には手厚い政策をとった。特に労働者の厚生を企図し保護した。フォルクス・ワーゲンは誰でも買える刻印者として開発したのは事実で、有名な話だ。何より化学物質を忌避し、宮澤賢治が東北の農家に収穫量向上のため化学肥料を売り歩いていた時代に、ナチスは自然農法を奨励して、発癌を抑制しようと努力していたという。そしてベルサイユ体制で国際的に打ちのめされていたゲルマン人に誇りを取り戻すようにして、人気を博したのだ。
その後、“民主的な”選挙で一旦政権の座に座るや否や、“国家は非常事態にある”と称して独裁体制を布いた。今の安倍政権内に“そういった歴史を見習うべきだ。”と発言した、重要閣僚がいるとこを忘れてはならない。今の政権には又、憲法改正でその“非常事態”条項を設けるべきたと考えている人が確かに潜んでいる。実は憲法改正の狙いはそこにあるのだ。

今、米国でティモシー・スナイダーの“暴政”という本が売れている、という。全く知らなかったので、まだ読んでいないが、“ひょうご講座”の谷川教授が学生にテキストとして使っている、と紹介していた。“トランプの大統領就任に危機感を抱いたスナイダーが、緊急出版した本である。解説等を除くと小さな本だが、いかにして歴史に学び、愚行の繰り返しを防ぐかがわかりやすく書かれている。”という。“何が正しいのか分からない”とか暢気に構えていては大きな不幸と悲劇がやって来るのだ。民主主義とは何か、その価値の普遍性と重要性を十分に認識し、毀損してはならないという決意が今まさに必要なのだ。もう、これ以上アホの“邪悪”を放置することは許されない。


さて、今回は本郷和人・著“壬申の乱と関ヶ原の戦い”を紹介したい。
まずこの本の紹介文に、“なぜ、この地だったのか/古代最大の内戦・壬申の乱、室町幕府を確立させた中世の戦闘・青野ヶ原の戦い、近世最大の会戦・関ヶ原の戦い。三つの戦いがいずれも同じ地(不破=青野ヶ原=関ヶ原)で行なわれたのはなぜか? また、その結果が歴史を大きく動かしたのはなぜなのか?”とある。古代、中世そして近世において、天下分け目の決戦が、日本列島、本州のほぼ中央の同じ地で、なぜ行われたか。地政学的な意味がこの地に、どのようにあるのだろうか。これは確かに興味を引く課題だ。
それは日本中世史研究者の本郷氏が2014年の5度目の関ヶ原訪問に、桃配山の名が“壬申の乱に際して、大海人皇子(のちの天武帝)が兵士たちに桃を配った故事に由来する――”とある立札を読んで、浮かんだ疑問だったという。この本は、その疑問に対する著者の“答案”だと言っている。歴史学者が抱いた疑問に、自ら答えたとあれば、さらに興を引く。酷暑で疲れていた脳への、効果的刺激になるかと、また思わず買ってしまった。
特に、古代最大の騒乱、壬申の乱や、南朝を支持する北畠顕家による北朝幕府軍への挑戦については、あまり歴史ドラマでは取り上げられないストーリーで、良く知らない部分が多いので、それも興味を持つ大きな要因だった。

先ずこの本では、律令時代の“固関(こげん)”という朝廷の儀式を紹介している。“律令制において天皇・上皇・皇后の崩御、天皇の譲位、摂関の薨去、謀反などの政変などの非常事態に際して、「三関」と呼ばれた伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関に固関使を派遣して関所の防衛を堅固にするよう指示した。”という。実際には封鎖して通行を禁じたのであろう。そしてその“三関の東側を「関東」と呼んだ”といい、古代では中部地方も関東とされた。逆に“関西”は、この“関東”に対する言葉で、都人は“自分たちは関西にいる”とは思っておらず、“もっぱら「上方」がつかわれていた”と指摘。“固関”は中世以降形骸化するが、“「悪い奴は東からやって来る」という朝廷の意識は変わらなかった”という。
その後、何故そのような意識が都人にあったのかの検証が入る。古代より文明の息吹は大陸の西方より来て文化度も高く、米を中心とする農業生産性も畿内より西の温暖な地が高かったのは、事実であったろうと推測。あらくれ東国人が西国の豊かさを奪おうと試みるのは当然で、このため東と西が雌雄を決する戦いがしばしば起きるのは当たり前。そして衝突する場所の代表が、不破の関となる。ついでながら、“これは中国大陸で言えば、北方の異民族が侵略して来る”位置関係に酷似していて、鬼門の発想も日本では受け入れやすかった、とは別で聞いた話。

ついで壬申の乱の解説となる。大海人皇子は天智帝からの譲位を断り、出家を装って吉野に脱出。その際には既に屈強の舎人に護衛させて戦いの準備は行っていた、と推測している。つまり大海人皇子は、既存政権の政策をガラッと変えるために、政権軍との戦争を企図していたのではないかと著者は言っている。既存の天智・大友政権の唐や新羅とことを構える外交重視から、内政の充実を目指したことによる大きな方針転換を考えていたとしている。
大海人皇子は要害の地、吉野で一旦待機しつつ、さらに時期を見据え、東国の自領、現在の岐阜県安八郡湯沐邑に密かに赴き本陣を構え、さらにそこに政権側が新羅との戦争準備に徴用しようとしていた東国の兵を逆に配下にして、戦力化を図った。この軍勢を率いて不破の関から首都のある近江に入り、勝利するというのが戦いの概要である。そしてその後、天武天皇こそが三関を設けたとある。こうして、関ケ原こそがその後の戦略上の要衝となった、と解説している。
天武帝こそが、古代の日本の政治制度を確立し、大王(おおきみ)と呼称されていたのを天皇(すめらみこと)とし、国号も“日本国”としたとのこと。その後、朝廷の権威は東国へもさらに浸透していったという。

次に南北朝時代。“青野ヶ原の戦いは1338年(暦応元年・延元3年)正月に北畠顕家が率いる奥州の軍勢と、室町幕府軍の間で行われた合戦。”名門北畠家の出自等社会背景等が複雑で、その解説に紙幅が使われている。戦いの概要は、南北朝迭立から争乱が高じ後醍醐帝の要請に、北畠顕家が応じて奥州から出陣。途中で幕府方の鎌倉を落し、さらに美濃まで2週間で進撃したという。そして美濃国青野原(現、岐阜県大垣市、不破郡垂井町)で北朝方と衝突した。戦いの詳細は不明だが、青野ヶ原の戦い後、顕家は伊勢へ転進した。これは戦争目的を達成できなかったため、顕家軍の敗北と解釈するべきだと言うのが著者の主張。顕家は吉野の後醍醐帝を目指して大和に入るが、待ち構えていた高師直の軍勢と衝突し敗北、大坂の堺に回るがさらに敗北し自害した、という結末。
顕家の父、親房は南朝のために地域の豪族に決起を促すために東北の地で“神皇正統記”を著したりして努力するも報われず、後醍醐帝も崩御し、最後まで南朝方で指導的立場を失わず病死したという。
この戦いの歴史的意義は、武士の棟梁が推す室町幕府方の勝利、つまり形式的には幕府方の北朝の存続となったこと。つまりは、実質的、形式的にも武士の世の到来となったこととしている。“神皇正統記”は幕末の水戸学で復活し、明治政権下でバイブル化した。

関ヶ原の戦いは、存知よりのところが多かろう。この本の記述も常識の範囲で終わっていたように思うので、細かく追って説明するつもりはない。基本的には石田三成のいくさ下手によるものであり、秀吉政権の秩序(大義)のみに頼った人心掌握の拙さであった。*上杉との連携もあまり緻密な印象は無く、むしろ家康に利用された印象すらある。わずかに真田の対徳川の抵抗に成功したのみで、畿内での他の戦線(対細川、京極)でも無用な戦いに戦力を費やし、総大将の毛利輝元は大阪城に居たままであり、関ヶ原正面への物心両面での集中に失敗している。関ヶ原という局所での布陣等外形的には巧みであっても、刻々と変化する戦況の読みが甘く、決定的だったのは小早川秀秋の裏切り(著者は秀秋には“豊臣家への恩義はない”と言っている)であり、家康の掌中で転がされたと見るべきなのであろう。
そもそもが政治的に見ても、本来は豊臣家と徳川家のせめぎ合いであるべきものが、豊臣恩顧の家臣団の分裂に付け込まれた結果の戦いであったとすれば、敗北は必至であったと思われる。何よりも北政所・おねが家康に付いてしまったことが大きいと私は思う。
さて、その関が原での家康の戦争目的は、“秀頼をいつでも殺す状況にすること、つまり大坂城を支配下に置くこと”であったはずだと著者は言っていて、その目論見は成功した。

*三成の戦下手は映画“のぼうの城”で描かれている。

その歴史的意義は、江戸幕府開設のきっかけとなり、これにより政治の中心は東国へ移行したことになる。著者は“家康はおそらく、(鄙の)関東や東北には開発の余地は大いにあると考えていた。”又、“政治の都・江戸と経済の都・大坂”という二つの中心ができたことで・・・上方の元禄文化が生まれ、続いて江戸の文化・文政の文化が開花した”ので“江戸に幕府を開いたことは、日本にとって非常にいいこと”だったと指摘している。

江戸期に入って関東側からの都への攻撃はあるはずがなく、関ヶ原の畿内防衛の拠点としての意義は無くなってしまった。戊辰戦争では西側から東側への攻勢となり、ここでの軍事的衝突は生じず、そのまま江戸城無血開城となった。明治以降の国民国家成立後は、この地の地政学的意義は全くなくなってしまった。
おそらく今後は、国内の東西対立よりも、東京1極集中を崩す各地からの反乱、攻撃が政治的原動力にならざるを得ないであろうし、そういうエネルギーがなければ日本の発展はあるまい。当面は沖縄に注目するべきかも知れない。

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