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長谷川宏・著“新しいヘーゲル”の読後感想

ウッ!マンボー♪!?オオサカ,コウベでマンボー?
ついこの間、緊急事態宣言解除と言い、GO TOキャンペーン再開と言っていたのに?この見通しのない右往左往の無策!これは政策ではない!オサルの政治ごっこ!
このアホアホ無策の無駄の繰り返しの中、日本の国際的立ち位置が“周回遅れ”であると、先週ある経済アナリストが指摘していた。指摘されて初めて気付くような類のものではないが、改めてげんなりする話だ。それも場合によっては2~3周遅れというものもあるようだ。

たとえば、対新型ウィルス対策にしても、PCR検査やゲノム解析による疫学的調査不能の防疫体制の無策。さらには気付けばワクチン開発・普及では完璧に取り残されて、OECD加盟国中最悪という実態。これらは日本人の対新型ウィルスへのファクターXに何とか支えられて社会が崩壊せずに持ちこたえているだけという実態である。
ワクチンの生産では驚くことに、インドがアストラゼネカ社のワクチンの世界生産のライセンスを担っていて、これに日本は資金援助すると言って胸を張る。しかし、このワクチンは日本では未だ承認されていない。この政策矛盾に平気なのがこの国のマヌケ。

しかも政権の思い付きで始めたデジタル庁設置の実態も不透明なまま、デジタル技術を防疫政策に反映させる努力すら放棄しているかに見える無様さ。未だに社会的接触アプリのCOCOAの機能不全と改善・普及への意欲の無さ。
対新型ウィルス禍にあって、何故か国税庁の膨大な納税データを使って公正・公平な企業支援政策が展開できない不思議さ。これを指摘する意見が出てこないこの国の世論の不思議さ。全てがデジタルに対する国民認識の遅れから来ているのではないか。

デジタル技術の開発・普及には半導体技術もその重要な要素であるが、その生産において、重要な工場がこの時期に火災をこうむるというガバナンス不足の情けなさ。ISO/TS16949が形骸化していたのか。無駄の多い日本企業のマネジメント体制なのか。さらには日本のトップの半導体会社が海外企業に買収されそうな勢い。かつての半導体強国の成れの果て。だが、実はあのインテルはかつて日本の生産管理技術で蘇ったのだと聞いている。
21世紀に入っての多くの日本の経済人の見通しの暗さとだらしなさ。将来投資が見通せないのは経済人としては完璧に失格であろう。かつての日本は“経済一流、政治は三流”と言っていたが、実態は全てが三流だったのげはないか?

経済界と言えば、SDGsをやけに声高に言っている企業が、その精神に反して人権無視の中国に投資してかの国と上手くやって行こうという政治的判断の論理矛盾と甘さ。日本には人的パイプがあるというミャンマーすら、中国に操られて手出しができない不思議な外交無力。ジリジリと日本の外交力も国力と共に衰退しているのが実態であろう。

さらには、財務省、総務省から厚労省へと国家高級官僚の引き続く劣化。利権争いの足の引っ張り合いが醜聞暴露に至ったのか。アホな政治家に忖度していれば事は済む、という矜持の無さ。結果として重要な国家文書の誤記多数。文書の承認・審査で一体、どういう決済をしているのか。文書管理は組織ガバナンスの基本中の基本である。下手すれば、オバカ企業並みの組織運営だ。不要なハンコが結果として無責任体制の温床になっているだけで、ハンコが無意味な訳ではないことを示している。それを分からずに、ハンコ無用論を唱えるバカさ加減。コトの本質を分からず、アホアホオンパレードのこの国!

何度も言うが、オリパラ開催もその哲学を示せず、ズルズル時間だけが過ぎてゆく政治力の無さ。ついにはオリパラ開催の世界最大の資金提供をしている米NBCから、公衆衛生を重視しての開催は中止という見解さえチラホラ聞こえてくる始末だ。
大阪市はウッ!マンボー♪で、聖火リレー中止決定!これには五輪担当相すら賛意?!そうなれば聖火リレーが東京に来る頃、どうなっているかの初歩的想像力はあるのだろうか。国全体が“緊急事態宣言”となれば、聖火リレー全てはどうするのか?
聖火リレー全てが中止となればオリパラ自体どうするのか?アホアホの想像力には及びもつかない事態で、世界に赤恥となるのがセキノヤマ?
東北復興の証が立たないまま、アンダー・コントロールもままならないフクシマF1を抱えて、しかも対新型ウィルス克服もワクチンなしで不能では、オリパラ開催は不可ではないのか。オリパラ開催の金を医療体制の再構築するのが喫緊で最大の政治課題ではないのか。思考力・想像力なく、利権のみが繁栄するこの国の政治状況をどう考えるのか?

日本社会のジェンダー意識の遅れ。未だに“夫婦別姓”でもめている国。これは最早周回遅れどころではない。
客観的には、世界経済フォーラム(World Economic Forum)および世界銀行(World Bank)が発表した世界各国と日本の男女格差(ジェンダーギャップ)指数ランキングで、日本は120位の未開発国。低開発国ですらない、何ら開発されていないからだ!アジア太平洋地域ではニュージーランドがトップで、4位にランクインしている。フィリピンは前年から1つ順位を落として17位となった。韓国は6つ順位を上げ、日本より上の102位となっている。中国も日本より上で107位。あのミャンマーは109位だという。これが近代国家とは言えない理由だ。
自民党と言う19世紀的発想の頑迷固陋が原因の中心だ。そこに“言論の自由がある”という不思議な理屈。そういう頑迷固陋のアンシャン・レジームを支持する日本人が多数いること。そこにこの国の閉塞・退行の原因があるのではないか。

ここに挙げた閉塞感というより悪くなる一方の後退感、もう列挙に嫌になるほどの底なし凋落だ。これを打破する夢を語れる先進的思想・哲学のある政治家が居ないこの国。考えてみれば、戦前戦後を通じて、閉塞感を打破する夢を語る政治家が居た例がないことに最近気付いた。夢に障害があれば、それを取り除くための思想・哲学も持ち合わせていないのだ。
現下でのオリパラ開催がその端的な例だ。既に投下したサンクコストを潔く放棄する決断力や想像力もないのだ。それがズルズル損害を拡大し、場合によっては国家破綻に至る場合もあるにもかかわらず!
戦後間もなく“所得倍増”を言った政治家を除いて、理性に基づく夢を語れる政治家は戦前戦後を通じて全く皆無なのだ。内部での利権闘争に明け暮れているのが日本の政治家なのだ。それは戦前戦後を通じてなのだ。日本の高等教育で思想・哲学をおろそかにした結果であろうか。


さて、やっぱり思想・哲学が大切だとそう思った時、私自身は哲学の“お勉強”をして行こうと一層思うようになった。
だが今、私の“お勉強”はヘーゲルで立ち止まっている。西研先生の“ヘーゲル・大人のなり方”を読んだが、まだまだ消化不良なので、引き続きヘーゲルにもう一歩突っ込んで、今度は長谷川宏氏の著書“新しいヘーゲル”に取り掛かった。

長谷川宏氏はwikipediaによれば次の通り。
“島根県生まれ。1968年に、東京大学大学院哲学科博士課程修了。東大闘争を経験参加した事で、(けじめをつけるため)一切大学には就職所属せず、自宅で学習塾を開くかたわら、哲学研究者として、原書でヘーゲルを読む会を主宰。同会での活動をもとに、1992年に『ヘーゲル 哲学史講義』を新訳し、多数の関連出版を開始した。従来の専門家的な訳語をできる限り排した訳文は、読みやすいと評判になった。”

在野の哲学者。そういえば昨年夏に見た映画“三島由紀夫vs東大全共闘”のはるかな背景に居た人ではないか。そこには映画が示したよりもっと深い重層的な人間模様があったのだ。つまり68年博士課程修了ならば、著者はすでに学生ではない。このようにあの東大闘争は、多大の東大関係者に負の負担をしいたようだ。

ところで、“新しいヘーゲル”の本の紹介文は次の通り。

“社会を矛盾と対立のるつぼととらえ、そのむこうに統一と秩序を見通した哲学者。壮大で華麗な思考の躍動を平易な日本語で説きつくす。”(アマゾン・紀伊国屋書店)
“読めば本当のヘーゲルがわかる絶好の入門書。弁証法とはどんな思考法か。意識とは、歴史とは何か? 近代社会の自由と自立を求めて、道徳や宗教より「知」の優位を説いた思索を、平易な日本語で描ききる。”(講談社HP)

目次
第1章 ヘーゲルはむずかしいか?―弁証法入門
第2章 『精神現象学』―魂の遍歴
第3章 世界の全体像―論理・自然・精神
第4章 人類の叡知―芸術と宗教と学問と
第5章 近代とはどういう時代か―日本と西洋
第6章 ヘーゲル以後

いずれも“平易な日本語”との評価。ある読者の感想に“本書はヘーゲル哲学を材料にしたエッセーでした。エッセーとしては評価できます。”とあった。ならば、西研先生が“哲学を理解する要諦は、哲学者が何を言いたいのかを知ることだ。”という意味のこと言っていたので、この本がそれに相当するものだと思って読み始めたのだ。
以下、あまりにも引用部分が多くて長文になり過ぎていて、著作権侵害につながるやもしれないが、私の感想文として、或いは学習ノートとしての紹介と思って、我慢して頂きたい、と言わざるを得ない。

著者が修士論文でヘーゲルを取り上げた時、“哲学を専門とする何人もの先達が、陰に陽に「ヘーゲルはむずかしいぞ」といいいいしたものだった。”だが、著者の結論は、“そんなことはない”“素直にヘーゲルのいうところを追って行けば、おのずと理解が得られるようにその哲学は語られている。”と言っている。
実際にヘーゲルが学生に講義した時、当時のドイツの学生はすんなり理解していたはずだ。“話題が豊富で、目くばりがよく行きとどき、視野が広い。”だからむしろ面白い講義だったはずだ。著者は3つのヘーゲルの講義録を訳してみて、そう感じたという。
ヘーゲルに限らず、なぜ日本では哲学そのものをも難しいものとなったのか。西洋崇拝の権威付けがそうさせたのだ。また生活実感に伴わない漢語の訳語がそれに拍車をかけた、との指摘である。
近代哲学の祖・デカルトは“方法序説”をラテン語で書くところを“フランス語で、しかもエッセー風のくだけた文体で語っている”。だから日本語でも“方法序説”ではなく、“方法の話”と訳すべきであろう、と言っている。
カントも“むずかしく語ろうとする意図はまったくない。”と言いきっている。それは“西洋近代の哲学がキリスト教の支配や権威から解放され、人間世界のできごとを人間のことばで人間にむかって語り掛けるものである以上、あえて難解なよそおいをこらすことは筋ちがいもはなはだしい愚挙”だからだという。ヘーゲルはその解放の哲学の頂点なのだから、難しいはずがないではないか、という著者の主張である。
おそらく、この精神で著者は様々な著作をものし、“平易な日本語”のかたりくちという評価を獲得してきたのであろう。

ここでついでに、ヘーゲル哲学の特徴である弁証法についても語っている。ここで難解な言葉の解説が冒頭にある。
その弁証法の結論“アウフヘーベンAuf-heben”という言葉には“ヘーゲルが「捨てつつもちあげる」という矛盾した意味をこめ、日本語では「止揚」とか「揚棄」といったなんとも不格好な訳語”となっているが、実際には“「捨てる」という意味の日常ドイツ語としては多用されるものの「捨てつつもちあげる」と言う意味では”ほとんど用いられないと言う指摘をしているのが面白い。

弁証法は“(ヘーゲルが)自然界にある例としてよく引かれるのが有機体の生命過程である。”例えば“種が芽を出す、というところを、ヘーゲルはあえて「種が否定されて芽となる」とか「種の否定が芽である」”という。“否定の働きをぜひとも強調したいのだ”。つまり“Aが否定されてBが出てくる。そのようにAとBとの間に対立があり、その対立が変化や運動の原動力となると考えるのが弁証法の基本”である。
また“種から出発した生命過程が、何回かの否定を経て、ふたたび種にもどる―そういう形でまとまりの生じることが重要な弁証法の原則”であるとも言っている。“ゆくえの定まらぬ運動が続く、というのは弁証法とはいえない。”というのだ。“それが弁証法の総体性ないし完結性ということ”。
ここで、社会の動きを弁証法でみた場合、ヘーゲルのいう弁証法と日本人の社会観が全く異なることに注目する。“わたしたちは、弁証法の二要素としてとりあげた「否定」と「総体性」のうち、「総体性」のほうに過度の思い入れをする。社会が全体としてまとまりをもつことに社会の本質を見ようとする。・・・正―反―合の三段階に即していえば、社会の動きの全体が最終的に「合」に帰着することに安堵を覚える。”
だがヘーゲルの社会観では“むしろ、総体性の成立があやうくなるほどに否定の方が強調されねばならない”という。“個と共同体が徹底して対立し、矛盾するのがヘーゲルの弁証法的な社会像である”から、日本人の感覚とは溝があることを考慮するべきだと注意喚起している。
個はあくまでも“自分を失わないことが大切”なことであり“外からくる力にたいしては、つねに警戒と抵抗のかまえをくずさず、内面の確信にもとづくものでないかぎり、これを受け入れようとはしない。”“個が容易に統合へとむかわないのは当然だった”。“ヘーゲルのイメージする社会の弁証法も、そういう個人を単位とし、そういう個人を立脚点として構想”されているというのだ。
だが、本来、ギリシア社会にはこうした対立はなく、“個々人はその思考においても行動においても、共同体のしきたりや規範や通念をごく自然に受けいれてふるまい、共同体もそうした個人をゆったり包みこんで存在”していたとヘーゲルは見て、ギリシア社会に憧れがあった。ところが、ヘーゲルの生きているドイツ社会―神聖ローマ帝国末期の社会―には“さまざまな宗教組織や政治組織や職能団体も、社会の全体を視野に入れることなく、ひたすらそれぞれの利害にもとづく自己主張のみをくりかえす現状に対する、強い反発がある。現実は、至るところに腐敗と堕落が見てとれ”たというのだ。日本の現状と同じではないか。
腐敗・堕落の共同体から個人が離脱し、共同体と対立する近代社会は、“人間的な腐敗や堕落ではなく、個人の自由と自立という新しい歴史の原理にほかならないことを納得し得たとき、ヘーゲルは古代ギリシアから古代ローマ、中世、近世、近代へと続く歴史を、一つの発展過程としてとらえることができたのだった。”

だが著者は言う。こうしたヘーゲルの生きた西洋社会と日本社会の違いについて、“わたしは、自分がこのちがいを乗りこえた地点に立ったつもりで、そういっているのではない。ヘーゲルの論理の放射する違和感に頭を悩まし、違和感の淵源をたずねて、その一つがまちがいなく近代化のちがいに根ざすことに思いあたった経験をもとに、自省の意味をこめてそういうのである。”と。だからヘーゲルが日本人にとって難しいのであろう。これが第一章である。深い!

“『精神現象学』は中身のぎっしりつまった書物である。”政治、芸術、宗教、学問について論じている、というのだ。“古代からヘーゲルの時代に至る、さまざまな思想の動向にも、適宜、筆が及ぶ。”という。“この本には手際のいい要約も祖述ふうの解説もともに拒否するような、あえていえば若さゆえの粗暴さがある。・・・それは、『精神現象学』が哲学ならざる哲学書、文学的な、あまりに文学的な哲学書だということである。”
『精神現象学』に近いものとして、ゲーテのビルドゥングス・ロマン教養小説の代表作『ヴィルヘルム・マイスター』をあげたい、という。“「意識」という名の主人公が、さまざまな境遇に投げ込まれて経験を重ね、精神的に成長していく過程をたどるものだからである。”
そして、“『精神現象学』が語るのは、学問に至る意識の悪戦苦闘である。そして、旅の最後に「絶対知」が来る。絶対知とは知が自己と世界の間を自在に、のびやかに、行きかう境地をいうことばである。自分の感情や感覚にとらわれず、生活上の利害や他人の思惑や時代の嗜好や世の常識に引きずられず、さまざまな権威や権力の圧迫にもくっすることなく、冷静に、客観的に、現実の総体をとらえ、知ること。・・・純粋無雑な知と思考の働きをヘーゲルはBegreifen(概念作用ないし概念的思考)という用語でよくあらわす・・・Begreifenが自由自在にその運動を展開する境地をいう。”
“学問は、人類の数千年にわたる精神活動のすえにようやくその明確なすがたを私たちの前にあらわしてきた。とすれば、その学問を個々人の意識が知的明晰さをもってとらえるには、意識そのものが知的な成熟をめざしてみずからをきたえなければならない。”
自由で自立した個人を単位とする近代における知の絶対性とは、個としての存在と社会的存在との間にあるぬきさしならない矛盾をあえて引きうけることにほかならない。そして、道徳や宗教とちがって、知には現実に対し妥協することはなく優位にある。“近代社会にあって、道徳や宗教的信仰よりも、ものを知り、ものを考える働きこそが個の自由と自立を支える根本の力である”。“『ヴィルヘルム・マイスター』が教養小説とよばれるのにならって、『精神現象学』は教養哲学”である。
このためには、“わたしがみずからの存在を確信できなければならない。”そこに「われ思う、ゆえにわれあり」が来る。“魂の遍歴の出発点に位置する裸の「わたし」は、近代哲学のデカルト”に“まっすぐつらなる”のである。
“知的確信は、道徳的確信や宗教的確信とはちがって、内面的ないし観念的に自己完結はせず、・・・外界と内面の変化にともなって確信も変化していくし、視野が広がり、知と思考の力が強まれば、確信の質も高まっていく。”
そうした知と思考の広がりによって得られた“おのれが全存在をつらぬいている、という意識の確信である”理性は、“自他のうちにある非理性や反理性とのたたかいのなかで、はじめて強靭な光を”放つことになる。“挫折や敗北を通してこそ、知と思考に厚みと広がりが備わる”のだ。

『精神現象学』は学問の体系への導入として書かれた。“体系を欠いた哲学はおよそ学問的なものではありえない。”体系的とは“全体が一つの中心から発しつつ、つねにその中心へと還っていくこと”つまり、“部分が部分としての魅力をもちつつ、全体の構図の中にきちんと位置づけられていること・・・全体と部分との有機的統一を十分に考慮”していることである。
だが、ヘーゲルは“世界の全体が体系的であると考える”。だから、“理性的思考が現実を理解する根本の働きとなっていることを、ヘーゲルは「現実が理性的だ」”と言う。理性が“現実の奥の奥まで認識できる、といいきるところにヘーゲルの独自性がある。”
カントは『純粋理性批判』で、経験を重んじて思考に歯止めをかけようとした。しかし、人間の思考や精神は枠や限界を常に乗り越えようとするものであるとしたヘーゲルは弁証法をもってして、あくまでも思考を重んじて経験の枠を外そうとしたのだ、と著者は言う。しかし、実際はヘーゲルの「論理の学」の中では、論理の必然性が分かり難い場面が多く、“あちらこちらで空まわりしている”と著者は指摘する。

“自然は精神より劣る”とするのが、“ヘーゲルの終生かわらぬ価値意識であった。”という。ヘーゲルは近代人のように、自然界と人間界を別個に切り離して見ることを避けた。“切り離しては世界の統一的な全体像がこわれてしまう。論理の必然性をいう以上・・・統一するような論理を編み出さねばならなかった。”
“人間が自然を「手段として利用する」のは、自然そのものが手段として利用されるようなものだからだ、とヘーゲルは考える。”“ヘーゲルにとって(自然への)この学問的活動は、自然がみずからの手であきらかにできぬその理念性を、人間の知の力によってあきらかにしていく営みにほかならなかった。”「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という境地なのだ。
“網羅的であることは、弁証法の原理が全体をつらぬくこととならぶ、ヘーゲルの体系のもう一つの大きな特徴である。”“網羅的であればあるほど、理性の現実性と現実の合理性が、それだけ具体的に、綿密に提示できる道理であった。”“「自然哲学で」あっても、「精神哲学」であっても、ヘーゲルは正面切って堂々とその道理にしたが”った。だが、その後の学問の発達に伴い、“学問の全領域にわたって網羅的であろうとすること”は不可能となっている。

ヘーゲルは“なぜ学問と並んで芸術と宗教を人間活動の最高位に置いたのか。”
“芸術の美しさは、そこに美しさがあればいいというものではなく、作品をうみだしたその時代の共同精神を体現しつつ美しくなければならない・・・芸術作品は、芸術家個人によって作られるものでありながら、そこに同時に時代の共同精神がこめられることによってこそ、真に芸術的な美しさを獲得できる。・・・芸術が人間活動の最高位の一角を占めうるのも、それが共同体精神を表現していればこそ”であった。そして、その典型を古代ギリシアの彫刻と建築に、自由な共同体精神を見ている。
しかし、その古代ギリシアの共同体精神は、それ自身の内発的な発展によって崩壊し、それにつれて政治的基礎である都市国家や社会も崩壊して、“古典芸術の理想形も桎梏と感じるに至った。”
ヘーゲルによれば“芸術上の理想美を解体してまでも内面的な深化を遂げなければならないのが、精神の発展の基本的動向”なのである。こうして古典芸術を超えるロマン芸術が登場する。
イエス・キリストの受難の図がある。それは普通の意味で美しい場景ではなく、むしろ醜いものであった。“が、同時にまた、そうした醜さを表出することが、すなわち、精神の内面的な深まりのあかしであるとヘーゲルは考えた。”
シェークスピアの文学作品であっても、そこには古典芸術に見られたような緊密な統一は見られなくなった。“緊密な統一が消えて、あらゆる日常性や偶然の要素、悪や醜や下品が容赦なく入り込んでくることを、芸術における多様性の獲得として歓迎することができたならば、ロマン芸術にたいしてヘーゲルはもっとゆったりと気楽にむきあうことができただろうが、それはかなわぬことだった。”
“芸術は、もはや、内面的精神がそこに十全にすがたをあらわす器とはなりえないのだ。”ヘーゲルにとってそれに代わるものは“啓示宗教としてのキリスト教にほかならなかった。”
“感覚的な物として存在する芸術作品にあきたらなくなった精神は、自分の内面に還っていって、そこで神(真理)をイメージとしてとらえよう”とし、“神(真理)と自分とのつながりを確信しようとする。それがヘーゲルのいう「内面の祈り」である。・・・(それは)自分一個の利害や心の安定が祈りの実質をなすのではなく、神と人間との関係をどうイメージするかがその実質をなすのだ。内面のイメージの内に、神の実相と人間の実相、自己の実相がともにあらわれることが、祈りの不可欠な条件なのだ。”
“そのとき、イメージを作りだす精神の内面は、絶対に自由でなければならなかった。・・・主体の内面に外から押しつけられるイメージが、主体の精神を高めることなどありえない。”
“悩める魂の救済といった現代ふうの宗教像から、ヘーゲルが遠い所にいるのはあきらかだ。・・・自由を求める強く大きな人間精神のうみだしたものが、近代世界にふさわしいキリスト教だとヘーゲルは考える。・・・自由で自立した精神の備えるべきものこそ、・・・「法と正義、共同体精神と良心、責任能力と義務」にほかならない。”
“そこには、宗教を市民社会や国民国家のうちに明確に位置づけようとする意図があらわである。・・・そこでうみだされる宗教のイメージは、現実に背を向けることなどまったくなく、現実そのものをその本質において表現するものでなければならない。・・・宗教のイメージもまた、徹底して理性的でなければならない”。
こうして“宗教と学問(哲学)が至近の距離にある精神の活動だといわれても、なんの不思議もない。・・・ヘーゲルにおける宗教の思想的世俗化は、宗教が哲学に包摂されるという形で最終的な完成を見る”.

“第5章近代とはどういう時代か―西洋と日本”で日本の近代化精神史である。
“幕末・維新にはじまる日本の近代化は、お手本のある近代化であった。”しかし、“西洋の近代精神は、お手本としてこれを消化・吸収しようとする接近のしかたをきびしくしりぞけるような、そういう精神なのだ。”
“お手本のある日本の近代化において、「内面性の純粋な活動」たる思考へと還っていく動き・・・自我が純粋な内面へと帰っていき、その位置で感覚的対象や精神的対象にじかにむきあう、という事態は生じにくかった。お手本のあることが、そういう動きや事態の招来をさまたげたのである。”
“洋楽や洋風が輝きでてきたために漢学や神仏が輝きを失ったというべく、お手本のとりかえはよどみなくおこなわれた。”
だが、日中戦争から敗戦を迎えるまで、欧米列強を相手にたたかいを挑む時代にあってみれば、“西洋崇拝は一転して西洋憎悪へと変わらざるをえなかった。・・・西洋文明にかわって、天皇や国体が崇拝の対象となる時代に、個の内面に価値をみいだすのはむずかしく、むしろ、個や私を殺すことこそ正しい生きかただとするのが時代の空気であった。”

宗教改革者ルターの精神では、“権威なきところには裸の人間が立っている。・・・権威に服従するのでも、権威をたよりにするのでもなく、自分の信仰にもとづいて神と対話し、神との対話のなかで自分を見つめる。・・・たった一人で神とむきあう人間”が居るのだ。つめり“主体性の原理こそが神の前で義とされる。”
だが、“聖書や神が外なる権威として君臨するという構図は許容できるものではなかった。・・・ルターのキリスト教は・・・まさしく近代思想の内面性に即応する精神の営みではあるが、近代の内面的主体性の原理は、そのキリスト教にも十分な満足を見出しえず、さらにその先へとあゆもうとするのである。・・・キリスト者の自由をさらに一般化して、市民の自由ないし人間の自由へ至ろうとするのが、西洋近代のあゆみなのだ。”
“啓蒙思想はもはや聖書も神も必要とはしない。・・・それが啓蒙思想を無神論と唯物論の方へ大きく傾斜させる。・・・啓蒙思想がルターの宗教的限界を超える近代性をもつことは、認めるにやぶさかではなかった。”

“おのれ一個の内面的主体性を堅持しつつ、自分の生きる集団や社会にたいして開かれた目をもつこと―それは、ヘーゲルが近代人の共同体精神Sittlichkeitということばにこめた、その社会的意識の基本的な内実をなすものであった。”
“対立と矛盾、混乱と無秩序のもたらす活力を減殺することなく、しかもそのむこうに統一と秩序を遠望できるような社会は、どのようにして作りだせるのか。その問いにたいする答えとしてヘーゲルが提示したのが、近代的な共同体精神であり、個が個でありつつ共同体精神を獲得していく、ドイツ語でいえばBildungの過程―日本語に訳せば、「教養」「教育」「自己形成」などと訳すことのできる過程―であった。自分の内面へと還っていった個人は、日々の生活のなかで自分みずからをきたえあげることによって、はじめて近代的な社会性を獲得できるとヘーゲルは考えたのである。”

フランス革命は哲学が支配した、という証を示している。第1にアベ・シエースの政治的パンフレット“第三身分とはなにか”がバスティーユ襲撃の半年前に争って読まれたこと。第2に“ジャーナリズムが革命勃発とともに奔流のごとくあふれたこと。”第3に“人権宣言と共和国憲法が情勢の変化に応じてなんども作成され改訂されたこと。”第4に“革命の指導者や参加者の中に数多くの「イデオローグ」がふくまれていたこと。”

第三身分:封建社会の西欧(アンシャン・レジーム)において、第一身分の聖職者、第二身分の貴族に次いだ身分としての平民を意味する。しかし,身分制議会である三部会が招集された 14世紀初期には,都市の大商人,大ギルドの代表,法学者などが第三身分と呼ばれ,都市の下層民や農民は除外され,聖職者や貴族の特権身分を除く全国民をさしていたのではなかった。

青年ヘーゲルはフランス革命に強く影響を受けたが、革命の“「哲学の支配」は1793年のジャコバン派独裁を経て、やがて「恐怖の支配」へとむかう。『精神現象学』でジャコバン派のテロリズムを痛烈に批判したヘーゲルだったが、だからといって、革命そのものを否定することはなかった。哲学的な理性を知的社会に広くいきわたらせたのが啓蒙思想だったとすれば、フランス革命はその理性を社会の現実そのもののうちに広く行きわたらせる、画期的な政治運動だったのである。”

“第6章 ヘーゲル以後”の思想潮流について。
“理性の世界支配への違和感をばねとするキルケゴール流のヘーゲル批判と、近代市民社会への批判というかたちをとるマルクス流のヘーゲル批判は、ヘーゲルをどう批判するかという次元を超えて、ヘーゲル以後の思想の世界で重要な一潮流を形成している。ヘーゲル哲学を近代思想のもっとも典型的で包括的な表現とみなしうるとすれば、その潮流は大きく脱近代ないし反近代の思想の名のもとにくくることができるだろう”。
ヘーゲルのような“近代精神ないし近代思想がナチズムへの抵抗の思想としてなにゆえ有効な力を発揮できなかったかが問われなければならない。”とも指摘する。“ソ連のスターリニズムや日本の天皇制ファシズムなら、アジア的迷蒙や前近代的な思想と心情ゆえに生じた全体主義と説明もできるかもしれない。が、ドイツのナチズムでは、それがゆるされない。迷蒙と前近代で説明できるとなれば、ドイツの近代は虚妄だったことになる。”この問題提起は厳しい。

これを読んで日本版“精神現象学”が必要だと思った。そうでなければ日本の“哲学の貧困”は続くのではないか。だが、さすがに著者は“日本精神史”を既に著しているようだ。しかし、残念ながらどうやら江戸期までのようだ。残念ながら、明治維新後の近代日本の精神史が現在の日本には特に必要であり重要であるのだ。その始めの部分はこの本の“第5章近代とはどういう時代か―西洋と日本”に示されてはいる。しかし、それは日中戦争から敗戦までで、西洋のヘーゲルが切り開いた近代精神との対比での説明で終わっている。戦後から現在までの日本人の精神史について、もっと深く分析して欲しかった。その点で、未だ不足なのだ。

この本でのキィ・ワードと言える“近代精神”を思えば、日本人のほとんどの思想は“ヘーゲル未然”だと言える状況ではなかろうか。“ルソーの半分”にも至っていない印象がある。日本の近代は未だし、の観は情けない限りである。哲学教育が一般的でない状態がそうさせているのではあるまいか。
“自己の内面”を“外部の権威に依存”せずに、自己の精神を鍛える能力を持っているか。その方法論を具体的に熟知しているか。それを知らなければ、ヘーゲルの言う“近代人”ではないのだ。19世紀レベルの啓蒙思想の真実も知らない、迷蒙思想に毒されたままなのだ。
これで“法と自由”を“中国”に説くべき民主主義国家の資格があると言えるのだろうか。政治の堕落を目の当たりにして、ファシズムへの回帰が何の反省もなく繰り返されるようでは“誇りが持てる日本”ではあるまい。

最後に、“あとがき”で、
“ヘーゲルからの引用は、自分が訳を手がけたものについてはそれを利用したが、それ以外の部分については従来の邦訳は利用せず、直接に原書から訳出した。・・・わたしがヘーゲルの翻訳に手を染めたのも、従来の翻訳に強い不満をいだいたからで、この本でも、不満な邦訳をそのまま引用する気にはとてもなれなかった。”
と言っている。やはり自信に満ちた“ヘーゲル学”の泰斗の言である。

繰り返すことになるが、ヘーゲルはドイツ観念論哲学の最高峰。西洋思想の全てがここへ流れ込み、ここからキケルゴールやニーチェ或いはマルクスへと流れて行く結節点でもある。さらに、“お勉強”して行くつもりだ。

“自分の内面へと還っていき、そこに確固たる拠点を築くものでないかぎり、宗教思想であれ、芸術思想であれ、あるいは政治思想、社会思想、哲学思想であれ、近代の思想とはいえない、とヘーゲルは考えたのである。”

まぁ兎に角、疲れました!がしかし、やはりここで一旦原典に当たるべきか。感想としてはほとんどが理解できたつもりである。それほど分かり易い本であった。著者の長谷川宏氏について、改めて他の著作も読むに値するであろう。
だが、哲学学習の次のステージに進むには・・・それとも西研・竹田青嗣・共著の“超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』”という入門書をもう一つ読めば“ヘーゲル・大人のなり方”に沿った、新たな深い説明も理解できるのか・・・。それに、弁証法についても新書の参考文献は見当たらず、今や市販されているのは1冊しかないようで学習困難な状態である。或いは原典には当たらずにそのまま次に進むか、いろいろ悩んだまま・・・。或いは、悩むヒマでドンドン読めば?・・・或いは小休止!?・・・・

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