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“NHK 100分 de 名著 カール・マルクス『資本論』”番組を見て、テキストを読んで

中日米、この両極端の2大国に挟まれた日本。果たして、両者のクッションになれるのか、板挟みで終わるのか。そこに日本の選択肢はない。何故ならば、中国側に譲る姿勢はなく強硬だからだ。しかし、人権を無視する国家に正義はない。中国は彼らの“民主主義がある”というが、何をどんな民主主義と言っているのかその説明がないので不明だ。具体的に説明して欲しいものだ。それともナチスつまり国家社会主義を民主主義と言っているのだろうか。だが、それには今や正義はないのだ。

米国は既に東京を越えて、北京五輪開催に言及し始めた。かの国は“五輪を政治利用するな”とわめいているが、その問題は単なる“政治的”レベルを超えて、近代民主主義の基本的条件の問題なのだ。

日本企業もこの強硬な国家社会主義国に拘泥する場合ではない。既に昨年あたりから、撤退の局面に入ったと見るべきである。ESGやSDGsを尊重すると声高に宣言するのならばなおさらである。市場規模ばかりに目を奪われていると、やがて想定を超えるカントリー・リスクが被害として及ぶこともある。個人を尊重し公正を目指すESGやSDGsと、個人の人権を無視して国家を重視する体制つまり国家社会主義とは矛盾するからである。既に、旗幟鮮明にする時期に来ている。政治的に目覚める段階なのだ。

航空自衛隊主力戦闘機F15の改修に費用が掛かりすぎるという。尖閣諸島などの海洋防備に必要な改修が費用の高額化で実現できないとのことで、日本の国防に危うさが見える。
この背後には強欲な米企業があるのではないか。F15は米の元マクドネル・ダグラス社が開発した制空戦闘機で、現在はボーイング社とのライセンス契約によって生産している。だから改修にも米社が口を差し挟み、高額を要求しているのだろう。
このボーイング社は悪魔の企業と言って良い。ESGやSDGsとは真逆の企業だ。70年以上前に日本全土を焦土と化す大量殺戮の道具であったB29を大量生産して大儲けした企業だ。或いは、JAL123便ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故の原因を作り、或いはリチウム電池発火事故を自らの回路設計不良でありながら日本の電池メーカーのせいにしようとし、737MAX型機の制御設計ミスを否認しようとした非常に質の悪い企業である。
日本の国防がこんな悪質の強欲企業に握られているのが実態なのだ。イージス・アショア設置の高額要求等日米間に存在する闇が垣間見える。このどうしようもない実態をどう打開するのか。利権に弱い日本の政治家に解決は無理な話だろう。

東北新社に引き続き、フジHDの外資規制不遵守をチェックできなかった総務省。いやともかく法規制違反を見過ごし、これを既成事実として容認したのだ。
法規制へのチェック能力のない総務省が放送免許権を持つことに意義があるのだろうか?これをズバリ、指摘する日本のマスコミは皆無だ!
これを見ても、総務省は“報道の自由”を規制するためのチェック機関でしかないのは明白だ。つまり、反政権的世論形成をけん制するための機関であり、民間に“忖度を強いる”存在でしかないのだ。“言論の自由”の観点から言えば、不要な役所の一つでしかない。こうした不公正はESGやSDGsとは真逆の世界への道なのだ!
ここで一息考えて欲しい。民間に“忖度を強いる”一方、外資規制を軽視するというのは、日本の報道は二重に歪められていることになるのではないか。外国と時の政権の両者によって歪められている可能性は高い。確かに日本の報道の自由は“180カ国・地域のうち、日本は66位” となるはずだ。日本は政治的自由の国ではなく“自粛の強要”と“忖度”の国なのだ!

現政権はデジタル庁だとかDXだとか目新しさをアッピールしようとしてはいるが、政府統計が発表までに世界の先進国に比べ通常1カ月以内なのが1.5カ月と時間がかかるという。GDP速報値、家計調査、毎月勤労統計、労働力調査、鉱工業生産指数等のデータ発表に遅れがあるといい、どうやら世界のエコノミストの顰蹙を買う存在になり始めているらしい。
COCOAのカイゼンなし放置のままを見ても分かるように、足下の改良・改善・進化を放置しておいて、一足飛びには世界に追いつくことはできない。目新しさをアッピールの前に、そういう自覚が要るのだ。そんな意識では、やっぱり周回遅れのままとなるのだ。それは明治期の“オサルの文明開化”と同じなのだ。

新型ウィルス感染拡大に伴う、日本の大臣や知事と言うそれなりの地位にいる政治家の過去1年間の発言を聴いていると、不要不急の外出をはじめとする一般人への自粛“要請”であり、飲食店の営業時短の“お願い”、マスクの付け方外し方や食事の仕方の指導であったりしている。それは幼稚園児に注意するような内容ではないか。しかも過去1年間、その発言に変化・進化がなく、そんな台詞しか持ち合わせていない。
検査体制の充実見直しやワクチン開発とその接種普及、医療改革等々、政治家が重要な役割を果たす場面は多数ある。それにもかかわらず、幼児に言うようなことばかりしか言えない、そんなレベルなのが日本の政治家だと思うと情けない限りではないか。日本はそんな情けない“指導者”しか持てない貧しい国なのだろうか。何故こうなってしまったのか。
チマチマした利権に必死な連中に天下国家を論じる資格を与えたままで良いのか!否、天下国家を論ずることすらしていないのが、日本の政治家なのではないか。

国公立の医療機関や医系大学付属病院の医療従事者が新型ウィルス対応で疲弊している一方、ヒマなのか開業医の一部に無利子のコロナ支援融資金で財テクして儲けている者が居るという。FXに10%以上の利金が稼げるファンドが有利だと広まっているというのだ。
一部の開業医と言えばネトウヨが連想される。高額の学費の私大医学部で贅沢な学生生活を送った挙句に、親の家業を継ぎ私利私欲ヤリタイ放題の生活が目に見えるかのようだ。この上、彼らが藪医者でないことを祈りたい気分だ。この医療危機に瀕して、それに協力すらしない。何だか不届きで嫌な話だ。

嫌な話ばかりで、ゲンナリするだけの今日この頃。いつの間にか国の上から下まで利権や私利私欲の追及のため“忖度”し、正義を軽視する社会となってしまった。
スカッとする良い話が欲しい。だが、この閉塞感が本当は危険なのだ。


さて、ヘーゲルに引き続き今回マルクスに軽く触れてみた。ようやくと言うか、いよいよと言うか、日本人の若い国際的一流マルクス研究者が出て来たという。斎藤幸平氏(34歳)だ。今回は、この斎藤氏を講師として、“NHK 100分 de 名著 カール・マルクス『資本論』”がテレビ放映されたのを紹介したい。実際の放送は今年の1月だったが、私はこの度、録画しておいたのを視聴したのだ。勿論、テキストを読んで“予習”した上で、録画を視聴した。
この斎藤氏について、テキスト・番組で“2018年、マルクス研究界最高峰の賞ドイッチャー記念賞を受賞。当時31歳で歴代最年少、日本人初受賞となる。”の紹介がある。現、大阪市立大学大学院経済学研究科・経済学部准教授。博士(哲学)。

今、国際的にマルクスの著作を発掘・再整理して、政治的な思惑なしでマルクス思想を再構成しようという試みがあるという。
“MEGA(メガ)と呼ばれる新しい「マルクス・エンゲルス全集」(Marx-Engels-Gesamtausgabe)の刊行が進行している。世界各国の研究者が参加し、最終的には100巻を超える国際的研究プロジェクトだ。筆者の斎藤氏は2012年より農芸化学、植物学などのテーマの編集を担当している。”
このような紹介文が、実際のMEGA第4部門第18巻と第26巻の本の写真と共にテキストに掲載されている。

NHK・HPに掲載されている番組プロデューサーの番組紹介によると、次のようである。
“最初の企画書案は、第一回「希少性」、第二回「物質代謝の亀裂」、第三回「アソシエーション」、第四回「脱成長」でした。これはこれでとても魅力的な案だったのですが、実はその当時ご執筆中だった新刊「人新世の資本論」と論点が少しかぶってしまうので、もう少し原典の「資本論」に寄せる形にできませんか、”とプロデューサーが無茶ぶりして、実際の放送構成になった由。従い、おのずと“人新世の資本論”もいずれ読んでみたい、と思わせるものである。

その番組構成は、次の通り。
第1回 「商品」に振り回される私たち
第2回 なぜ過労死はなくならないのか
第3回 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を産む!?
第4回 〈コモン〉の再生―晩年マルクスのエコロジーとコミュニズム

この講座の肝はやはり、“〈コモン〉の再生”にある。
コモンとは何か。“水、食料、エネルギー、土地、住居、知識など、人類にとっての共有財産”のこと。つまり、村落共同体での村の共有財産、山や川の共同使用権のようなもののことだ。ところが、近代の“暴走し続ける資本主義は、(コモンすら)ことごとく「商品化」してしまった。”
“この流れを逆にして、市民の手に取り戻し、「コモン」の領域を再び拡大していくこと”が“〈コモン〉の再生”の意味するところであり、マルクスの思い描いた“将来社会は、コモンの再生”が軸になっている。“いわば、コモン(common)に基づいていた社会、つまり、コミュニズム(communism共産主義)”である。“わかりやすくいえば、社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済社会を晩年のマルクスは構想していた”という。

このコモンの理解を深めるためマルクスは自然科学研究も進めていたという。先ほどのテキストに掲載されたMEGA本の写真の上に、マルクス自筆のノート写真(農学者フルベックからの抜粋と地質学研究のノート)を掲載し、次の紹介文を添えている。
“マルクスは経済学を研究するかたわら、地質学や農芸化学、植物学などの自然研究を熱心に行った。現在注目されているのは、マルクスとエコロジーとの関係だ。これまで環境思想とは無関係とされてきたマルクスの思想に、新たな光を当てるのが、『資本論』執筆のための研究ノートである。”
だからこそ、講師の斎藤氏はマルクスは現代に通じるエコロジー(生態環境)の重要性に気付いていたのだと、主張しているのだ。
以下に番組要約を示す。

第1回 「商品」に振り回される私たち
もともと人々にとって水や土地、エネルギーといった公共財コモンの使用は無償であり潤沢に存在していた。この公共財コモンが“社会の富”であった。
ところが資本主義黎明期に、これら公共財は“商品”として農民から強制的に引きはがされ、独占的に私有化される。この象徴例がイギリスにあった共有地の“囲い込みenclosure”である。地方のジェントリーは地主となり、羊を飼い羊毛を生産し富裕化するが、土地を失った農民たちは賃労働をせざるを得ない状態へと追い込まれ、“商品”に頼らないで生きていくことはもはや不可能になる。“商品”を購入するには“貨幣”が必要となり、この“貨幣”を求めて人々は都市に流入し、必死に賃労働しなければならなくなり、いわゆる産業革命が進展したという歴史的プロセスを明らかにしながら資本主義の本質を示す。
こうして“貨幣”が至上の価値となることで、使用価値(有用性)≠(市場における)価値、という図式が生まれ、“物象化”という“モノに振り回される人間”が登場する。
現代でも“新自由主義”という思想の下、公営公共財の“民営化”によって資本による“囲い込み”が進展しているという指摘は目が洗われる思いがする。その端的な例として、図書館員の非常勤化を紹介している。

第2回 なぜ過労死はなくならないのか
マルクスは“資本は「運動」である”とヘーゲル的発想で規定した。G-W-G´という式で“絶えず価値を増やしながら自己増殖していく運動”であると示した。“「使用価値」のために生産される社会では、靴屋は靴を作って販売し、そこで得たお金で、パンを買い、それを食べれば、後には何も残らない。”しかし、“(市場における)価値”重視の資本主義社会では、“剰余価値”という“儲け”が上乗せされ、“Geltお金”を果てしなく増殖させていく。一方、市場競争にさらされる資本家は、この圧力に抗しきれず“もうどうにも止まらない”状態になる。
生産物の“(市場における)価値”は生産のために費やされた労働価値(時間)を上回って設定され、“剰余価値”が生まれる。賃労働者は生産したモノの“価値”を下回る労働価値(賃金)しか受け取れないため貧困化が進展する。こうして“儲け”を重視する資本主義社会では経済的格差を生じる。しかも資本家たちは、少しでも多くの剰余価値を得るために、賃労働者の労働時間を常に延ばそうとする。
賃労働者も自らこの論理を内面化し、労働者間での競争による低賃金化に追い込まれ、価値増殖運動の歯車になってしまう。労働者は奴隷や身分制のような不自由から解放されたが、同時に生産手段からもフリー自由になってしまった。つまり“生きて行くために必要なものを生産する手段を持てなくなった”のであり、マルクスはこれを“二重の意味で「自由」だ”と指摘した。賃労働者は“自給自足不能”であり、唯一の売り物の労働力すら“仕事を失ったら生活できなくなる”と自由に思うように“価値(お金)化”できなくなったのだ。こうして、マルクスは150年も前に、働き過ぎのメカニズム、つまり無限の価値増殖運動がやがて労働者を過労死にまで追いやってしまう矛盾を明らかにした。
これに抗して、マルクスは労働日の短縮を重視したという。“日々の豊かな暮らしという「富」を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限していかなければいけない”という結論に至る。

第3回 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を産む!?
“『資本論』の刊行後およそ60年を経て、イギリスの経済学者JMケインズは、生産力が上がれば、やがて労働時間は短くなる”と次のように予言したという。“労働時間は2030年には週15時間になるかもしれず、そうなれば、人々は時間を持て余すようになる。21世紀最大の課題は、労働時間や労働環境ではなく、増えすぎた余暇をどうやりすごすかだ”。
しかし、現実はそうならなかった。“それどころか、「ロボットの脅威」に怯えながら、私たちはますます労働に駆り立てられて”いる。そして仕事(労働)が楽しくない、これを“疎外”とマルクスは呼んだ。
その原因は効率化のための分業の進展にあった。特に本来、職人が仕事の中で一体でしていた“構想”と“実行”の分離が行われ、創造的な“構想”を資本家が奪い、分業で単純化した“実行(労働)”を労働者に押し付けるといった状況を生じさせた。その極致が科学的管理法の“テーラー主義”であり、“生産に関する知というコモン(共有財産)を囲い込む行為”にほかならない。
現代はAIをはじめとする“イノベーション”で、さまざまなことが進化し、つらい労働は機械に任せて、人間は快適で充実した人生を送れるようになるはずだった。しかし、現実は広告業やコンサルタント業などの“クソどうでもいい仕事、つまりブルシット・ジョブBullshit Jobs”と呼ばれる労働が増え続け、逆に社会的に必須のエッセンシャル・ワーカーは抑圧されるばかり。その原因は行き過ぎた分業の進展、“構想”と“実行”の分離が決定的であるという。

第4回 〈コモン〉の再生
“晩年のマルクスは『資本論』全体の構想に再検討を迫るような理論的転換を遂げようとしていた。これまで刊行されてこなかった手紙や研究ノートを読んでいくと,晩期マルクスが環境問題と前資本主義段階の共同体への関心を深めていったことがうかがえる。”マルクスは“資本論”で次のように繰り返し警告したという。
“資本は、人間だけでなく、自然からも豊かさを一方的に吸い尽くし、その結果、人間と自然の物質代謝に取り返しのつかない亀裂を生み出す”、と。
ここで“物質代謝Stoffwechsel”とは“人間は、絶えず自然に働きかけ、家屋、衣服、食物等様々な物を生み出しながら、自然を変容させ、自らの欲求を満たしてきた。こうした自然と人間の循環的な過程のこと”である。
人間と自然の物質代謝に生まれる亀裂は、“資本主義は価値の増殖を「無限」に求めるが、地球は「有限」だ”から当然なのだ。このように、“私的所有と利潤追求のシステムでは、地球環境を持続可能な形で管理することが著しく困難になっている。それゆえに、・・・革命的変化を起こして、別の社会システムに移行しなければいけない”ことになる。
マルクスは、“資本論第三巻の草稿”で次のように言っているという。“資本主義に代わる新たな社会において大切なのは、「アソシエート」した労働者が、人間と自然の物質代謝を合理的に、持続可能な形で制御することだ。アソシエートするとは、共通の目的にために自発的に結びつき、協同するという意味”である。
マルクスの描く将来社会は、“資本によって「否定」され、生産手段と自然を掠奪された労働者が、将来社会では資本の独占を「否定」し、解体して、生産手段と地球を「コモンとして」取り戻す”社会である。いわば“コモンの再生”が核であり、“社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして、自治管理していく、平等で持続可能な定常型経済社会”を構想していた、とされている。
そして、キリストの言った“各人はその能力に応じて(人々に与え)、各人にはその必要に応じて(人々から受け取る)!”という理想が実現するのだ。このように“コミュニズムは贈与の世界だ”と言う。“対価を求めない「贈与」、つまり、分かち合いや助け合いの相互扶助によって、富の持つ豊かさをシェアしていこう”というのだ。

本講座で斎藤氏は、今、世界の先端では“アソシエーションの動き”が見えて来ている、と言って結んでいる。それはスペインのバルセロナの呼びかけで始まった“ミュニシパリズム*”の国際ネットワークであり、アムステルダムの“ドーナッツ経済”だという。やはり、都市自治体がこうした人間解放の中核であり、中心機関となるべきものなのだと改めて了解した。大阪市は危うく解体されそうになったが、執念深い“維新の会”は未だに府市一体化(グジャグジャ化)を目論んでいるようだ。

*ここでは“地域自治主義”と翻訳しているが、私は“都市自治”と訳すのが適正であると考える。

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