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NHK・BSプレミアムで見たBSシネマ・3月分の感想

先週指摘した通り、新型ウィルス感染者は徐々に増加に転じている。特に、地方では“緊急事態宣言解除”どころではなくなってきていて、正に懸念した通りの状態へ移行しつつある。どうして、こうしたアホでマヌケな政策となるのか、全く理解不能である。

私にとって理解不能なのは、オリパラ開催である。何故、開催が大前提なのか。先週それを前提として聖火リレーを見切り発車させてしまった。一方では海外一般観客の受入れを断念しながらである。この矛盾する政策をどう見るのか。しかも前回予想したように、リレーが目的地の東京に到着した頃は、新型ウィルスの感染がピークに達しているはずだ。感染ピークのその時、当局者は、どう対処するのか。
それに世界でオリパラ参加選手の最終予選を問題なく実施できる国がどれだけあると見通せるのか。

こうした現実の不確実性の高い事態に対しては、どのような明確な思想・哲学に基づいてオリパラを開催するのかを、まず鮮明にし、それを説明し普及させる努力する覚悟が必要と考えられる。ところが、そうした思想・哲学や覚悟が全く見えないままに、既定方針にしたがってズルズル、現実に引きずりまわされているように見える。先日、ある報道番組では、大会組織委会長にインタビューしていたが、そうした明確な説明はなかった。ただ、ひたすら闇雲に“やるのだ”という精神論だけだったように思う。インタビュアーもそのイミフの闇雲な覚悟に感動した、というようなことを言っていた。何だか全く理解できないのだ。
私にはこの時期のオリパラ開催にたいする明確な思想・哲学・信念は全くない。パンデミックが無くても、がそもそもが今の日本にオリパラ開催の意義はないと思っていたからだ。無用に国費を浪費するだけだと考えていたのだ。だから政権や担当者のトップには、開催のための説明責任があると考えているのだ。

思想・哲学なき、突撃、そして玉砕!一体、いつになったら、こうした精神的貧困から日本人は脱することができるのだろうか。
かつて江戸幕府は“開国か攘夷か”に迫られ、国家戦略が描けなくなった時、広く異見を求めた。そういう知恵すら、今の政府は持ち合わせていないのだろうか。知恵無き政権担当者は、即座に去るべきである。そんなに自らの利権を固守したいのか。
この国の人々は、性懲りもなく何故 同じ失敗を何度も何度も繰り返すのか。それに何度、同じ幕末の大河ドラマを見れば、歴史を知るのであろうか。何度も何度も同じ失敗を繰り返すのはバカの極みだ。歴史を知らず、小さな自分の経験にも学ばないのでは、何の進歩もあり得ないではないか。この国はオバカの国なのだろうか。

北朝鮮がミサイル実験をした。この時期、毎年のことである。そして日本のマスコミは毎年“何故、今なのか”と問いかけるように報道する。そして専門家もその都度、もっともらしい顔をしてその時考えられる理由を述べる。この茶番の年中行事を、どう思えばいいのだろうか。オバカの国の報道なのだろうか。
オバカの国の報道ではあるが、その間北のミサイル技術は確実に着々と向上してきている。その間、日本のミサイル防衛は進歩したのだろうか。そもそも対北政策をどうするのか、こうした説明責任も当局者は国民に果たしたことはない。こうした無責任な政権に営々とそして黙々と税金を支払っているのは何故なのだろう。
このままいずれ、拉致被害者の家族の声もなくなっていくだろう。政府当局者はそれをじっと待っているかのようだ。自らのライフワークだと称した政治家すら、先送りした。こうしてこの国の政府・政治家は問題をズルズル先送りして“解決して”行くのだ。そして利権だけは握って放さない。

通信アプリが他国の閲覧できる状態にあった、という。政府がそれを許容し、国内に普及することに寄与すらした。この事態にデジタル庁担当の御大臣様はどのような見解なのだろう。その声が全く聞こえて来ないのも不思議だ。政府が国民に使うことを奨励するアプリならば、その保障をする責任があるはずだが、使用するアプリを認証する仕組すらこの国にはない。それを今後どうするのかの議論すら聞こえて来ない。
通信の問題であれば旧郵政省・現総務省の所管であろう。だが、その総務省は不祥事の花盛り。利権のてんこ盛り。やっぱり、この国はオバカの国なのだろうか。


さて、今週は3月の終わりの週なので、これまで見たBSプレミアムのBSシネマの映画を紹介したい。今月は仕事等で見られないのも多数あったが、今月放映分の内、実際に見たのは次の通り。見たのは前月より少なく、9件程度にとどまった。年度末の影響で仕事が多かったことが大きな理由だ。仕事があり過ぎて、未だ確定申告が出来ていないほどだ。

①黒部の太陽・完全版(1968)日本・監督:熊井啓、出演者:三船敏郎、石原裕次郎
②ウェストワールドWestworld(1973)アメリカ・監督:マイケル・クライトン、出演:ユル・ブリンナー
③モダン・タイムズModern Times (1936)アメリカ・監督・製作・脚本・作曲:チャーリー・チャップリン、出演:C・チャップリン、ポーレット・ゴダード
④ダーティハリーⅡMagnum Force(1972)アメリカ・監督:テッド・ポスト、出演者:クリント・イーストウッド
⑤シックス・センスThe Sixth Sense (1999)アメリカ・監督:M・ナイト・シャマラン、出演者:ブルース・ウィリス、ハーレイ・ジョエル・オスメント、オリヴィア・ウィリアムズ
⑥禁断の惑星Forbidden Planet(1956)アメリカ・監督:フレッド・M・ウィルコックス、出演者:ウォルター・ピジョン、アン・フランシス、レスリー・ニールセン
⑦チャップリンの独裁者The Great Dictator (1940) アメリカ・監督・脚本・製作:チャールズ・チャップリン、出演者:チャールズ・チャップリン、ポーレット・ゴダード、ジャック・オーキー
⑧ダーティハリーⅢThe Enforcer(1976)アメリカ・監督:ジェームズ・ファーゴ、出演者:クリント・イーストウッド
⑨予期せぬ出来事The V.I.P.s(1963)イギリス・監督:アンソニー・アスキス、出演者:エリザベス・テイラー、リチャード・バートン、ルイ・ジュールダン、マーガレット・ラザフォード、マギー・スミス

①は私が見たBSシネマの中では唯一の邦画だ。Wikipediaによれば、“劇団民藝の全面協力による、三船プロダクションと石原プロモーションの共同制作。電力会社やその下請け・関連企業が大量のチケットを購入し、巨額の興収をあげた。いわゆる動員映画・前売券映画の先駆けとなった作品としても知られる”ということ。確かに、民藝の宇野重吉や樫山文枝らが出演していて、懐かしかった。
企業名は、実際に黒四発電所建設に携わった会社がそのまま使われているようだ。そうした逃げない姿勢できちんと制作されている点で、過去の邦画では珍しく、評価できるのではないか。関西電力も戦後の阪神経済を十分に責任を持って、見通していた健全さを感じる。今やその経営に、こうした健全さを感じず、昔日の溌溂さがないのは、何が原因なのであろうか。原子力発電そのものと、その立地に疚しさが微塵もないとは言えないところがあるからではないだろうか。

こうした国家的エネルギー政策にかかわる原子力は今ある程度、正解が分かっている段階では批判が容易とはなろうが、技術そのものの将来性、正当性をどのように見通すのか、非常に難しい課題であろう。技術とは将来どのように発展するのか見極めるのが困難な世界であるのは間違いないが、原子力エネルギーの問題点は将来にわたって、解決できる課題であろうと50年前に楽観に過ぎる判断をした、それが今や負債となってツケが今回って来ているのだ。
そう考えると、日本人は戦略の現実に応じた変更が苦手なのであろうか。今も、自動車産業でのガソリン・エンジンへの思い入れが強すぎて、世界の電気自動車への流れに乗り遅れそうになっている。それも自らハイブリッド車を創造して、電気自動車への道を切り開いておきながらである。私自身も電気自動車に懐疑的な部分はある。だが、今何故、電気自動車なのかの鑑識眼は必要なのかも知れない。日本人はPDCAのサイクルを常に厳しく回し、現状の戦略を客観的に評価して修正することが苦手なのかもしれない。
戦前の日本海軍も、艦船よりも航空機優位を緒戦で世界に実証しておきながら、大艦巨砲主義を抜本的に放棄できず、敗北してしまった。これに対し、米国海軍は戦術的敗北を認め航空優位を取り込み、貨物船すら空母に多数改造して戦力化し、物量的に日本を圧倒したとされる。
日本人の“一度決めたら命懸け”その頑なさが失敗の元なのかもしれない。 いたずらに頑固なのは必ずしも美徳ではないのだ。信頼を得るための一貫性integrityは大切な徳目ではあるのだが・・・・。

②の“ウェストワールド”や⑥の“禁断の惑星”はSFものだ。いずれも映像技術はその時々の最高のものと思えるが、シナリオが少々いい加減なところがあるのが残念である。特に、“禁断の惑星”の唯一の住民の娘のパーソナリティが希薄すぎる。

④の“ダーティハリーⅡ”、⑧“ダーティハリーⅢ”はクリント・イーストウッドの出世作シリーズなので、興味があった程度だ。今となってはアクションもそれほど印象には残らないが、その分野の先見的作品なのであろう。

⑤の“シックス・センス”は、日本語では第六感ではないか。ならば何故、そうしたタイトルに訳さなかったのか。そこに意図があるのだろうか。ブルース・ウィリスがアクションものでないのに出演していたのには意外だった。映画そのものは、見たのだが何故か印象があまりない。
かつて、ブルース・ウィリスがラジオCMで“ブルース・ウィリスです”と日本語で出演していたことには驚いたことがある。このCMは意味があるのだろうか。名前を使ったことで使用料を御本人には支払われてはいるのだろう。バカなことでは・・・。

⑨の“予期せぬ出来事”は、空港という公共の場所でそもそも関係のなかった人々が交錯し予期せぬ出来事が展開していく映画である。高い評価とは言い難いが、名優の共演であり、筋書き内容も結構面白い。時間をおいて再び見ることができる映画であろう。

ここで、今月の私にとってのテーマはチャップリン映画の③“モダン・タイムズ”と⑦“独裁者”だ。私は見られなかったが、これ以外にもBSプレミアムでは17日にチャップリン映画の“殺人狂時代Monsieur Verdoux”(1947)も放映している。
③はWikipediaによれば、“この作品は前作の『街の灯』(193)に続いてのサウンド版で、一部にセリフが入る以外は音楽の伴奏と効果音のみによるサイレント映画となっている。”
⑦は実は、手許に持っているが未だ見ていなかったCDをこの際に見ての紹介になる。正確にはBSを見ての話ではない。BSシネマを紹介した前回投稿でも言ったはずだが、この現在において何故か“権威主義政権”という訳の分からぬ言葉で独裁を是認するかのような風潮が日本にはあり、これを正面切って批判しない雰囲気があるが、チャップリンはこれを厳しく茶化して批判している。これもWikipediaによれば“1940年10月15日にアメリカ合衆国で初公開された。当時のアメリカはヒトラーが巻き起こした第二次世界大戦とはいまだ無縁であり、平和を享受していたが、この映画はそんなアメリカの世相からかけ離れた内容だった。”たった今現在、チャップリンのように北京政権やモスクワ政権を批判する映画人・芸術家は居ないのであろうか。
ユダヤ人の床屋チャーリーが独裁者ヒンケルと間違われたまま、ラスト・シーンでトメニア国の兵士に演説する台詞の一部を以下に紹介したい。これがチャップリンの現代文明を批判する思想である。半世紀以上前の台詞だが、今でも十分に耐える考え方であり、改めて見ると新鮮ではないか。チャップリンにはこうした思想・哲学と感性があってこそ、確固たる歴史的世界的映画人の地歩を築けたのだ。

申し訳ないが……。私は皇帝になどなりたくない。私には関わりのないことだ。支配も征服もしたくない。できることなら、皆を助けたい。ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。私たちは皆、助け合いたいのだ。人間とはそういうものなのだ。お互いの不幸ではなく、お互いの幸福に生きたい。お互い憎んだり、見下したりしたくないのだ。世界で全人類が暮らせ、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。人生は自由で美しい。
・・・・・
機械よりも、人間らしさが必要なのだ。賢さよりも、優しさ、思いやりが必要なのだ。そういう感性なしでは、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。飛行機やラジオが、私たちの距離を縮めてくれた。そんな発明の本質は、人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。
・・・・・
今こそ、闘おう。約束を実現させるために。闘おう。世界を自由にするために。国境をなくし、強欲や、憎悪と不寛容をなくすために。理性ある世界に向かって闘おう。科学と進歩が全人類の幸福へ、導いてくれる世界のために。兵士たちよ。民主主義の名のもとに、皆でひとつになろう。

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