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映画“陸軍中野学校”、“陸軍”、“アフターマス”の鑑賞

先週は、北朝鮮問題は一休みの観。それに関連して、開催間近の平昌五輪のための韓国文在寅政権の対応状況についての報道が多かった。開幕式に朝鮮半島を描いた統一旗を掲げて合同 入場するほか、女子アイスホッケーは勝敗を度外視したムリヤリな南北合同チームの急遽の結成。平和の祭典との掛け声は良いが、果たしてほんの一時的な政治利用になっていないか。終われば元の木阿弥では意義は少なく、わずかではあっても資金の北への流出となるだけではないのか。
そもそも平昌はスキー・ジャンプをやるには風が強く不適切な場所であり、軍事境界線にも近く安全とは言えない場所のようだ。地元には適切な宿泊施設は少なく、新たなホテルの進出も期待されたが殆ど実現せず、改築されたモーテル等への宿泊が一般的とのこと。そもそもスキーも盛んではない国柄で、殆どの会場の切符も完売に至っていないようだ。
或いは、フィギュア・スケートは午前、スキーは深夜、パシュートはゴールデン・タイムでの開催と言う。何故ならば、フィギュアは米国で人気があり、スキーはヨーロッパ、パシュートは地元の韓国で人気のため、それぞれの地域の生中継の見やすい時間帯で開催するのだという。資金提供するメディアの都合のようだ。どこかでアスリート・ファーストと言っていたはずだが、これで良いのか。単なる商業主義の横溢になっていないか。
こうした一連の問題はオリンピック開催そのものの問題かも知れない。

一方、日本の国会では相変わらず政治家の資金の問題、首相のスキャンダルで明け暮れている印象。こういった問題は確かに国政に重要な課題ではあるが、いい加減そのような問題は通年議論するような機構・仕組を作って、そこで議論するべきで、国会ではもっと日本全体の国家戦略に関わる課題について議論してほしいものだ。
それにしても“丁寧に説明する”と言って、あのように言行不一致の人物を首相に据えたのは、国家百年の大計には百害あって一利なしだ。もう据え変えるべきではないのか。にもかかわらず選挙をしても自民が一強となってしまった。

話が少し小さくなって恐縮だが、相撲協会の理事選挙があった。結果、改革派と思しき貴乃花親方の落選が伝えられた。これで協会の改革は進展するとは思えなくなった。何だか、日本の社会全体を映し出す鏡のようである。この如何ともし難い閉塞感をどうするのか。このまま人口減少の中で没落する日本、改革なきまま長期低落傾向に歯止めを打てることなく、ズルズルと沈没してしまうのだろうか。
一部識者はこの選挙の方式が従来の無記名で支持者の名前に丸を入れる方式から以前の記名式に変えたと言っているが、一般の報道ではそのような指摘はない。実際はどうだったのか、これは重要な問題だ。もし以前の方式で投票を実施していたのならば協会執行部には、少しでも事態を改善しようという潔さは微塵もないことを示しているのではないか。
それにしても貴乃花親方も、自らのパフォーマンスについて説明責任を十分に果たそうとしない姿勢は協会側と同じ隠蔽体質と言わざるを得ない。一般人にも一体どのような“改革”を目指しているのかさっぱり分からないので、世論の広がりや支持も得られない状態になっている。評論家やジャーナリストが憶測で様々なコメントをするばかりで、何を問題にし、どうしたいのか一向に不明のままだ。場合によっては変なことを志向しているかもしれない。何事もオープンにして、透明性を確保することが改革の第一歩ではないだろうか。
インタビューに応える一般人に協会の現執行部が存続することが変だと言う人がいたが、変な安倍政権も存続していることをどうコメントするのか。これこそが衆愚の極みではないのか。

最後に、工学系出身者として一言ある。先週、次のような報道があった。“JR西日本は1日、平成17年の福知山線脱線事故を教訓にし、30年度から5カ年の新たな安全指針「鉄道安全考動計画2022」を発表した。昨年12月に新幹線のぞみの台車に破断寸前の亀裂が見つかった問題を受けて設置された有識者会議の提言を反映。列車を停止させる場面を想定した社員訓練や、台車の異常を検知する装置の導入などを盛り込んだ。”
JR西日本は既に数年前から“考動”をスローガンとしてきた。社員自らが考え動くということだ。だが、それが今回の事故で社内に定着しておらず、単なるスローガンに堕していたこと、経営者の自己満足に終わっていたことが露呈したのではないか。明治期以降営々として築き上げて来た、鉄道会社として“安全”をどのように考え、企業文化としてきたかの覚悟を問われていた話ではないか。にもかかわらず、端的に言って“危ないと思ったら列車の運行を止めることを徹底させる”と今更言われても、信用できない。それは鉄道会社としては最初の第一歩だからだ。何故、そのような鉄道会社なら当然のことが、企業文化として醸成できていなかったのかの反省がなければならない。
具体的には事前の保全点検で、こういった重大事故のタネを発見できなかったのは何が原因だったのかについて全く言及していないことだ。“安全”という観点での企業文化を背景にした“予防保全”の徹底とそれの“継続的改善”による進化が一向に語られないのは何故だろうか。
立派な言葉の羅列だけで“有識者の提言を集約して深く反省して行きます”と言われても、信用できない。また再発するような気がしてならない。現に、“考動”をスローガンとしても重大事故が発生したではないか。社員自らが考え動くということは、マニュアル化とは対極の考え方だ。その対極にあることをマニュアル化するというのは、どういうことなのか。経営層の熟慮の結果だろうか。
新幹線で列車は遅延し、顧客は実害を被った。列車の遅延常態化は日本の鉄道会社としては進化ではなく、退行現象であり恥辱ではないか。“恥じ”の感覚がなくなったのなら最早何をかいわんやである。


さて、話はさらに小さくなって、我が家では先週 家族が東京に遊びに行った。私一人、我が家に残された。御蔭で久々の独身を謳歌、と言えば聞こえは良いが、メシはどうする、家事はとなって一人でこなさなければならなくなった。せめて夕食を誰かと飲みながらと思ったが、慌てて知人に声をかけたが突然だったので、いずれも不可だった。
てな訳で、一人でだらけられる部分ではだらけて生活することにした。この際、自堕落になれるものなら、なってみたい!

そうした事情の一環でDVDレンタルに走った。で、選んだのが“陸軍中野学校”、“陸軍”、“アフターマス”だった。
“陸軍中野学校”、“陸軍”は、前回紹介した“昭和史講義”の影響を受けて、何だか戦前の“空気”を感じてみたいと思うようになったからだ。“アフターマス”は主演・シュワルツ・ネッガーの最新作ということで内容は見ずに、ある点でアクションでスカッとしたいという気持ちもあってのことだったように思う。

“陸軍中野学校”は実は戦後1966年の映画。主演:市川雷蔵、監督:増村保造、製作:大映。上映時間96分、モノクロ。恐らく、戦前の雰囲気を出すためにモノクロ(白黒)にしたものと思われる。中野学校とは、旧陸軍が創設したスパイ養成のための実在した教育機関のことだが、映画の内容は実話ではないようだ。
70年代に一度テレビで放映されたものを見たように思うが、ストーリーは全く覚えていない。だが、市川雷蔵の暗い印象のナレーションは異様だったので覚えていた。それと、中野学校を創始した草薙中佐が主人公・三好次郎(学校では椎名次郎と名乗る)を入学させるシーンが強烈な印象に残っている。それは中佐が次郎に地図を示して、“××はどこにある”と問いかけるが、詳しく見た次郎は“この地図には××は載っていません。”と答える。しかし、中佐は続けて“そうか。それでは、この地図を広げる前、机の上に何があったか。”と問いかけた。次郎は遺漏なくスラスラと答える。中佐は続けて“それではその灰皿の中には何があった。”次郎はそれにも明快に答える。“さすがだ!”・・・スパイにはそんな素質が必要なんだ、との衝撃だったのだ。
ということで、どういうストーリーだったのか、今一度確認したかったのと、そこで戦前の空気感を感じたかったこともあった。映画製作時期は戦後20年以上経過した当時なので、その点は怪しいが、当時の演者の多くや監督はそれを体験している。乏しい食糧の中での宴会シーンや過ちを犯した仲間に“中野学校の名誉”にかけて責任を取れ、自決せよと迫る場面などは、そういう気分を反映しているのだろう。或いは、参謀本部の暗号解読担当将校の脇の甘さや傍若無人な態度も、根拠なく思い上がった軍人の性癖を示しているのだろう。
ストーリー自体は面白いが、ややドラマティック性に欠けるところがあるように見受ける。ハード・ボイルド路線だったのだろうか。だがこの映画は、シリーズものなので、いずれシリーズ中の他の映画も見てみたい。

“陸軍”は、1944年(昭和19年)公開の映画。これぞ、戦前の映画で当然白黒。木下惠介監督。主演:笠智衆、田中絹代。
ネットによれば、“戦時下に、陸軍省の依頼で製作されたもの。作品の冒頭に「陸軍省後援 情報局國民映画」という表記がある。太平洋戦争の開戦日からほぼ3周年にあたる日に公開された。”とある。昭和19年と言えば、無条件降伏の1年前。戦況思わしくなく、恐らく一般の国民生活も苦しくなり始めた頃ではなかろうか。
さらにネットによれば“『朝日新聞』に連載された火野葦平の同題名の小説を原作に、幕末から日清・日露の両戦争を経て満州事変・上海事変に至る60年あまりを、ある家族の3代にわたる姿を通して描いた作品である。小説は対米英戦争におけるフィリピン攻略戦までを描いているが、映画では上海事変までを扱っている。”とある。しかし、実際の映画では家族とその生活を扱っているので、軍隊が勇戦奮闘するシーンは一切ない。それに、日野葦平の原作とは知らず、登場人物の単純な性格に物語の薄っぺらい印象があった。
しかし、そのラスト・シーンは圧巻である。“男の子ですから、天子様からの預かりもの。いずれお返ししなければなりません。”と言っていた母親がその息子が出征する時、見送るつもりのなかった市中パレード、その先駆けのラッパの音色が高まる中、走りだし倒けつ転びつ追いかける。最後に息子と顔を合わせて直後群衆の中で倒れ込んでしまうのだ。この母親を有名な女優・田中絹代が演じている。このラスト・シーンが当局に問題にされたようで、ネットによれば“結果として、木下は(陸軍)情報局から「にらまれ(当人談)」終戦時まで仕事が出来なくなったと言われている。”
この映画でふと思ったのは、日中戦争が対象になっているが、その戦争の原因が何なのかについては明確には語られていないのだ。米英に操られた中国人の反抗が原因であるかのようにぼんやりと示されているだけだった。
映画の半ばあたりのシーンで初めて購入した複葉機で試験飛行する陸軍の計画を危ぶむ人生の恩人に、若い主人公の笠智衆が、“陸軍のすることに批判することは許されない。そのことは何か深いお考えのあってのことだ。”という意味のとこを言って激高してしまう。これによって、その人とは絶交し援助が受けられなくなってしまう。この主人公思慮深く見えるのだが、晩年にも同じような行動に出るという単純な性癖がある。しかし、そういう御上任せの傾向が一般的であり、戦争の真因だったのかも知れない。

“アフターマスAftermath”は、2017年にアメリカ合衆国で公開。2002年7月に起きたユーバーリンゲン空中衝突事故後に発生した殺人事件の実話を題材にした作品。監督はエリオット・レスター、主演はアーノルド・シュワルツェネッガー。
“aftermath”とは“①〔災害や不運などの〕余波、後遺症、影響②〔戦争や災害などの〕直後(の時期)③〔牧草の〕二番刈り”とある。ここでは①だろうか。余計なことだが、“math”は“mathematics”の略で“数学、計算”の意なのに、どうしてそんな意味になるのだろう。
残念だが期待した、アクションものではなかった。航空機事故で妻子を失った主人公が、事故の原因を作った管制官を斬殺した事件を扱っている。奇しくも今流行っている“ハドソン川の奇跡”とは対極の映画だろう。年老いた役をシュワルツェネッガーが好演している。
殺された管制官の息子は成人して、主人公が刑期を終えて出所したところを、つけ狙ってピストルで頭を撃ちぬこうとするが、寸前で止めてしまう。簡単には言えないことだが、殺された恨みを、殺しで返すのは矢張り間違っているのではないか。これ以上の台詞はない。

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