The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
福島原発の事故調―反省できない?日本社会
先週、元首相が国会の事故調に参考人招致され、事故当時について“証言”した。
5月29日の朝日新聞第1面に“国に責任 菅氏謝罪、介入批判には反論、「現場の情報なかった」”との見出しが躍っていた。その裏、第2面には“陳謝のち「菅劇場」、自らの事故対応 正当化”とある。さらに“軍に例え原子力ムラ批判”、“主張対立 東電に怒り”とあった。この見出し、なかなか巧みで これだけで本文を読まなくてもおおよその内容はつかめる。
その中で気になる記述があった。“保安院の対応については「初期の段階で原子力の中身を説明できる人はいなかった」と指摘。”とある。どうやら、首相官邸に常駐していた東電のフェローも適切な助言ができなかったようである。しかも、このフェローどうやら昨年3月12日の海水注入をめぐる混乱では、“独断で吉田氏に注水停止を指示したと証言”とある。日本の最高権力者の首相の周囲には、国家の一大事に際して適切な助言ができる人々や機関・組織が存在しなかったと言っている。しかも、首相の決定を途中で妨害する人物まで存在したとようだ。この妨害は 明らかに“犯罪”である。幸いにして 適切な危機感を持っていた現場の所長が、その“妨害”を無視してそれ以上の大事には至らなかったようだ。
こういった状況を、明確に問題視するマスコミや評論家の言葉を聞いたことがない。首相官邸に適切な危機をマネジメントする仕組や それを全うするチームやスタッフも存在していなかったことになるが、多くのマスコミや多くの評論家も、こうしたことをあまり問題視していないかのように見える。問題視していないということは、それを改善しようという意志も働かないことだし、実際に改善したという話も聞かないので、現在も発災時と同じ状態であることを意味しているのではないだろうか。
国際情勢が不安定な現状にあって、領海侵犯のトラブルが発生した時も、同様な問題が生じるのであろうか。それとも、この場合は米軍が主導権を握って、彼らの都合で処理されるに任されるのであろうか。そういう首相官邸の実態が あの尖閣事件の処理となって顕在化したのでないか。現在只今も、こうした状態が継続していると考えるべきだろう。
福島原発事故に関する主な調査委員会は4つも存在している。中には 民間調査委のように最終報告を終えた委員会もある。この民間事故調は ある種権力を持って調査する力はなかったので、その報告には限界があった。ところが国会事故調は、強力な権限も与えられており、招致された人の証言も事実に反すれば場合によっては罰せられることがあるという強い権限が与えられているようだ。さらに、東電や政府の事故調は 関係者による調査となるが、国会は事故には直接関係がないので最も期待するところがあった。
ところが、朝日新聞は この国会事故調について“真相 迫れぬまま”との見出しを付け、さらに編集委員の署名記事を起こして、“東電に頼りすぎ 及び腰”と題して“事故調査が山を越えたというが、現実は幕を引けるようなレベルにはない。”と批判的に書いている。“「何が原因か」「だれの責任か」「被害拡大は抑えられなかったのか」。国民が知りたい真相に迫れておらず、世界の目に堪えうる完全版の調査報告書になるとは到底思えない。”とまで言い切っている。“民間事故調は、事故を「日本の国家としての生存そのものを脅かす広がりと複雑さを持つ危機」と表した”が、そういう危機感と覚悟が 国会事故調には見られないようだ。
どうしてこうなったのか。私は、この事故調のメンバー構成を見て驚いた。たった10名で構成されていて、具体的には学者・研究者と思われる人が4名、元国連大使、元高検検事長、ノーベル賞受賞者、大熊町商工会長、科学ジャーナリスト、社会システムデザイナー各1名である。
注目するべきは原子力関係の専門家が1人しかいないように思われること。科学ジャーナリストが元原子力プラント設計者だという。私は どちらかと言うと科学ジャーナリストという人物をあまり信じない方だが 設計経験があるということらしいのでその点では妥当かも知れぬ、とは思うが長年設計に携わっておられた訳でもないようだ。つまりごく最近まで原子力プラント設計の第一線で最新情報に触れていたことではないのではないか。原子力ムラの人物を忌避するためなら、しかたないかも知れない。ただ、工学的発想ができる人物について、設計者のみでこと足れりとするのには異論がある。プラントの操業、管理運営の経験者を加えるべきであり、今回の事故はそういうオペレーション上での問題が主題であるはずだ。プラントの運転経験者が1人も居なくて、こうした問題に確かな結論が得られるだろうか。
その上 元放射線医学研究官を含めて元官僚が3名ももぐりこんでいる。これを一部報道では全て“民間人”と紹介していた。今時の官僚アレルギーに配慮してのことだろうが、民間への天下り官僚は実に便利な存在だ。
大阪市職員の思想調査を企画した“怪しい”学者も混じっている。さらに、ノーベル賞受賞者も加わっているが、この場に必要でふさわしい人物なのだろうか。そして、社会システムデザイナーという人には この場合どういう役割を期待するのであろうか。
こういう人物達を国会のどういった機関が誰の責任で、どういった基準で選択したのであろうか。
しかも、こういった歴史的国家的一大事故の調査をたった10人で行い分析し、歴史に堪える結論を出すというのは不可能ではないか。その10人の下に、少なくとも5~10名で構成された分野毎の複数の分科会が構成されるべきで、そうなると少なくとも総勢100名弱の事故調関係者となるものと思うし、メンバーが増えれば調査時間もそれなりに必要だが、どうやらそうではなさそうだ。もっとも これまで時間がかかり過ぎている印象は否めないのだが。
特に 私は、ノーベル賞受賞者の田中耕一氏をリスペクトこそすれ、何ら個人的反感は抱いてはいないが、菅元首相に“15日の東電本店での(菅氏の)発言について、・・・今振り返って、上に立つべきものとしてどうあるべきか。”という質問を発している。この質問が 事故の本質にどう関わるものか 私には一向に理解でいない。首相に適切な提言ができない首相スタッフ、それは当然の仕事をしていないことになるが、緊急事態に際して指揮官がそういうスタッフ達を“怒鳴る”ことは 本質的に悪いことなのだろうか。“怒鳴る”こと自体を 良くないこととする甘チャンな風潮に、日本社会が ひ弱になったのを見るような気がする。そして、貴重な時間を割いて、このような質問でお茶を濁していることのも、問題だ。
要するに 国会事故調は、その構成者を指名した国会も、指名された委員たちも適当に幕引きしようとしているかのように見えるのだ。本気ではないのではないか。これは、国際的に見ても、いや時代を超えて歴史的に見ても 非常に恥ずかしいことと思うが いかがであろうか。こんなことで、東北の被害者は 癒されるのであろうか。
“絆”も ガレキ処理の引き受け拒否に見られるように早くも死語になってしまった。唾棄すべき無知蒙昧の健忘症的自己中の国民的発露である。
かつての 戦争についても徹底した原因追及をせず、その結果反省もしなかった日本。その影響は 今も尾を引いているが、こうしたことを明確にしようとしない、或いは そうしたことができないのが、日本人の本性なのだろうか。その点において、明らかにドイツの姿勢とは異なるとされる。それに対し、ドイツとは政治構造が異なっていた、という言い訳はするが、ならば何故そうなったのか、という結論を出そうとはしない。あまつさえ“空気”が原因であったと煙に巻いたりする。こうした日本人の性向は どうした精神構造に起因しているのであろうか。特に右寄りの人々は、卑怯にも“戦争を知らない”世代が増えるに従い、今や集団的健忘症を装って、居丈高になっている。確かに“空気”は証拠としては残らない。それを良い事にして、今時になって沖縄反戦レポートを訴訟したりもした。しかし 彼らは米国の意向には何故か従順である。何かについてだけは“記憶がある”のだろうか。こうした不思議な右側の人々、どうして日本国内でのみ居丈高なのだろうか。
これは、いつまでも いつまでも永遠に引き継がれる、日本人の絶望的悪癖なのだろうか。何度失敗しても一向に懲りない日本。このような健忘症的社会には 停滞こそあれ、進歩はないだろう。それは何ら学習をしようとしない社会が受けるべき当然の報いであろう。
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5月29日の朝日新聞第1面に“国に責任 菅氏謝罪、介入批判には反論、「現場の情報なかった」”との見出しが躍っていた。その裏、第2面には“陳謝のち「菅劇場」、自らの事故対応 正当化”とある。さらに“軍に例え原子力ムラ批判”、“主張対立 東電に怒り”とあった。この見出し、なかなか巧みで これだけで本文を読まなくてもおおよその内容はつかめる。
その中で気になる記述があった。“保安院の対応については「初期の段階で原子力の中身を説明できる人はいなかった」と指摘。”とある。どうやら、首相官邸に常駐していた東電のフェローも適切な助言ができなかったようである。しかも、このフェローどうやら昨年3月12日の海水注入をめぐる混乱では、“独断で吉田氏に注水停止を指示したと証言”とある。日本の最高権力者の首相の周囲には、国家の一大事に際して適切な助言ができる人々や機関・組織が存在しなかったと言っている。しかも、首相の決定を途中で妨害する人物まで存在したとようだ。この妨害は 明らかに“犯罪”である。幸いにして 適切な危機感を持っていた現場の所長が、その“妨害”を無視してそれ以上の大事には至らなかったようだ。
こういった状況を、明確に問題視するマスコミや評論家の言葉を聞いたことがない。首相官邸に適切な危機をマネジメントする仕組や それを全うするチームやスタッフも存在していなかったことになるが、多くのマスコミや多くの評論家も、こうしたことをあまり問題視していないかのように見える。問題視していないということは、それを改善しようという意志も働かないことだし、実際に改善したという話も聞かないので、現在も発災時と同じ状態であることを意味しているのではないだろうか。
国際情勢が不安定な現状にあって、領海侵犯のトラブルが発生した時も、同様な問題が生じるのであろうか。それとも、この場合は米軍が主導権を握って、彼らの都合で処理されるに任されるのであろうか。そういう首相官邸の実態が あの尖閣事件の処理となって顕在化したのでないか。現在只今も、こうした状態が継続していると考えるべきだろう。
福島原発事故に関する主な調査委員会は4つも存在している。中には 民間調査委のように最終報告を終えた委員会もある。この民間事故調は ある種権力を持って調査する力はなかったので、その報告には限界があった。ところが国会事故調は、強力な権限も与えられており、招致された人の証言も事実に反すれば場合によっては罰せられることがあるという強い権限が与えられているようだ。さらに、東電や政府の事故調は 関係者による調査となるが、国会は事故には直接関係がないので最も期待するところがあった。
ところが、朝日新聞は この国会事故調について“真相 迫れぬまま”との見出しを付け、さらに編集委員の署名記事を起こして、“東電に頼りすぎ 及び腰”と題して“事故調査が山を越えたというが、現実は幕を引けるようなレベルにはない。”と批判的に書いている。“「何が原因か」「だれの責任か」「被害拡大は抑えられなかったのか」。国民が知りたい真相に迫れておらず、世界の目に堪えうる完全版の調査報告書になるとは到底思えない。”とまで言い切っている。“民間事故調は、事故を「日本の国家としての生存そのものを脅かす広がりと複雑さを持つ危機」と表した”が、そういう危機感と覚悟が 国会事故調には見られないようだ。
どうしてこうなったのか。私は、この事故調のメンバー構成を見て驚いた。たった10名で構成されていて、具体的には学者・研究者と思われる人が4名、元国連大使、元高検検事長、ノーベル賞受賞者、大熊町商工会長、科学ジャーナリスト、社会システムデザイナー各1名である。
注目するべきは原子力関係の専門家が1人しかいないように思われること。科学ジャーナリストが元原子力プラント設計者だという。私は どちらかと言うと科学ジャーナリストという人物をあまり信じない方だが 設計経験があるということらしいのでその点では妥当かも知れぬ、とは思うが長年設計に携わっておられた訳でもないようだ。つまりごく最近まで原子力プラント設計の第一線で最新情報に触れていたことではないのではないか。原子力ムラの人物を忌避するためなら、しかたないかも知れない。ただ、工学的発想ができる人物について、設計者のみでこと足れりとするのには異論がある。プラントの操業、管理運営の経験者を加えるべきであり、今回の事故はそういうオペレーション上での問題が主題であるはずだ。プラントの運転経験者が1人も居なくて、こうした問題に確かな結論が得られるだろうか。
その上 元放射線医学研究官を含めて元官僚が3名ももぐりこんでいる。これを一部報道では全て“民間人”と紹介していた。今時の官僚アレルギーに配慮してのことだろうが、民間への天下り官僚は実に便利な存在だ。
大阪市職員の思想調査を企画した“怪しい”学者も混じっている。さらに、ノーベル賞受賞者も加わっているが、この場に必要でふさわしい人物なのだろうか。そして、社会システムデザイナーという人には この場合どういう役割を期待するのであろうか。
こういう人物達を国会のどういった機関が誰の責任で、どういった基準で選択したのであろうか。
しかも、こういった歴史的国家的一大事故の調査をたった10人で行い分析し、歴史に堪える結論を出すというのは不可能ではないか。その10人の下に、少なくとも5~10名で構成された分野毎の複数の分科会が構成されるべきで、そうなると少なくとも総勢100名弱の事故調関係者となるものと思うし、メンバーが増えれば調査時間もそれなりに必要だが、どうやらそうではなさそうだ。もっとも これまで時間がかかり過ぎている印象は否めないのだが。
特に 私は、ノーベル賞受賞者の田中耕一氏をリスペクトこそすれ、何ら個人的反感は抱いてはいないが、菅元首相に“15日の東電本店での(菅氏の)発言について、・・・今振り返って、上に立つべきものとしてどうあるべきか。”という質問を発している。この質問が 事故の本質にどう関わるものか 私には一向に理解でいない。首相に適切な提言ができない首相スタッフ、それは当然の仕事をしていないことになるが、緊急事態に際して指揮官がそういうスタッフ達を“怒鳴る”ことは 本質的に悪いことなのだろうか。“怒鳴る”こと自体を 良くないこととする甘チャンな風潮に、日本社会が ひ弱になったのを見るような気がする。そして、貴重な時間を割いて、このような質問でお茶を濁していることのも、問題だ。
要するに 国会事故調は、その構成者を指名した国会も、指名された委員たちも適当に幕引きしようとしているかのように見えるのだ。本気ではないのではないか。これは、国際的に見ても、いや時代を超えて歴史的に見ても 非常に恥ずかしいことと思うが いかがであろうか。こんなことで、東北の被害者は 癒されるのであろうか。
“絆”も ガレキ処理の引き受け拒否に見られるように早くも死語になってしまった。唾棄すべき無知蒙昧の健忘症的自己中の国民的発露である。
かつての 戦争についても徹底した原因追及をせず、その結果反省もしなかった日本。その影響は 今も尾を引いているが、こうしたことを明確にしようとしない、或いは そうしたことができないのが、日本人の本性なのだろうか。その点において、明らかにドイツの姿勢とは異なるとされる。それに対し、ドイツとは政治構造が異なっていた、という言い訳はするが、ならば何故そうなったのか、という結論を出そうとはしない。あまつさえ“空気”が原因であったと煙に巻いたりする。こうした日本人の性向は どうした精神構造に起因しているのであろうか。特に右寄りの人々は、卑怯にも“戦争を知らない”世代が増えるに従い、今や集団的健忘症を装って、居丈高になっている。確かに“空気”は証拠としては残らない。それを良い事にして、今時になって沖縄反戦レポートを訴訟したりもした。しかし 彼らは米国の意向には何故か従順である。何かについてだけは“記憶がある”のだろうか。こうした不思議な右側の人々、どうして日本国内でのみ居丈高なのだろうか。
これは、いつまでも いつまでも永遠に引き継がれる、日本人の絶望的悪癖なのだろうか。何度失敗しても一向に懲りない日本。このような健忘症的社会には 停滞こそあれ、進歩はないだろう。それは何ら学習をしようとしない社会が受けるべき当然の報いであろう。
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