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少彦名神社参拝と“くすりの道修町資料館”見学
前回、大阪のことについて江戸時代には日本の薬材流通に関する中心的役割を果たしていた、というような意味のことを言った。実は、そういう機能を果たしていたのは道修町というところで、偶然にも今回その道修町を通過することがあったので、少彦名神社つまり“神農はん”と呼ばれている神社に参拝に立ち寄ってみた。この“神農はん”は、大阪人なら誰でも知っている神社だが、私も実は大人になって以降、参ったことはなかった。
道修町は、地図で見ると1本の道路を挟んで東西約1km、南北90mの非常に細長い街である。東の端が南北に通る堺筋を突っ切って運河の東横堀川となり、西も同じく南北の御堂筋を突っ切って西横堀川が端になっていて、各々今やそこには高速道路が通っていて西横堀川は埋め立てられてしまっている。この街が繁栄した江戸期には、この東西の運河で入出荷されたようだ。この周囲の町には、北から伏見町、平野町、淡路町、瓦町、備後町、安土町があり、いずれも1本の道路を挟んで細長い層状の構成となっていて、道修町は伏見町と平野町の間にある。町名の由来は、Wikipediaによれば、“このあたりに「道修寺」という寺院があったからとする説や、江戸時代初期に北山道修(きたやま・どうしゅう)という薬学者がいたことにちなむとする説がある。”ということだ。
その“神農はん”は、地下鉄・北浜駅南端西側の6番出口から堺筋に出て、右側つまり南に向かい、2つ目の角をさらに右側つまり西に行って直ぐにある。しかし、ビルの谷間にひっそりとある感じで、幟や看板を見落とすと、分からず通過してしまう程で、全く知らない人には分かりづらい。もっとも、その西側のビルは“神農はん”の社務所ビルとなっている。この社務所ビルの3階に“くすりの道修町資料館”がある。
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型通り参拝を済ませて、なんとなく恐るおそる社務所ビルに入ってみる。狭い廊下に、資料館は3階にあるとの表示があり、その案内表示に従ってエレベータに乗って3階へ。着くと、そこが直ぐに資料館展示室の入口である。
入って右側の壁に“道修町資料保存会”の銘板があって、そこにはその賛同者メンバーとして日本の大手薬剤メーカーの殆どが名を連ねている。前回、“日本の薬剤メーカーの90%以上が道修町をルーツにしている”と書いたように思うが、正確には“大手薬剤メーカーの”と言うべきであった。ここに前言の大げさな表現を、訂正するとともに、お詫びしたい。(今、朝日新聞が“記事捏造”でバッシングされているので、炎上防止のため。炎上するほど読者は居ないが。)
表示に従って、入口から左側に歩を進めると、壁面に沿って展示物やパネルがあり、順に(1)くすりの町のあゆみ、(2)道修町の商い、(3)品質管理、(4)道修町劇場(50インチ・モニター)、(5)結束と繁栄、(6)現在から未来へ、(7)テーマ展示Ⅰ、Ⅱと続いて終わっている。最後のコーナーには、先程紹介した“道修町資料保存会”の銘板と、関連施設の案内パンフレットや歴史的資料をまとめた書物など販売の案内パンフレットが置いてあった。
“(1)くすりの町のあゆみ”では、豊臣秀吉が大坂城築城時に城下町を設置したあたりからの記述がある。薬種商仲間の明確な史料が残っているのは、明暦4年(1658年)の“道修町薬種屋33人の似せ薬取締りの連印状”からのようだ。偽薬を排除することによって、大坂薬種問屋の権威を高めるものとしたようだ。その後も、江戸幕府に掛け合って全国への販売ルート確保の権利を保証してもらったりしていたようだ。
こうして江戸期には、長崎に入って来た中国やオランダからの輸入薬剤原料を一手に大坂道修町に集めて、そこで原料の吟味を行って偽薬の排除に資するとともに、調剤品の品質を確保したようだ。また、この道修町から全国へ出荷した様子は、どういう資料をまとめたのか、“諸国への販売高”として大坂経由の薬剤シェアーを地図に表示している。これによるとさすがに、売薬の越中富山では1%未満のシェアーのようだ。まぁ、そうは言っても、10%を超えるシェアーを取っている所はないようだが、これは恐らくほとんどは大坂経由の薬は品質は良いが販価が高いので、庶民は地元産の安い薬で間に合わせていたのが実態だったのだろう。
また、少彦名神社は、元々は中国の薬祖神の“炎帝・神農”を個々の薬種商家内で祀られていた。“炎帝は、中国古代の三皇五帝の一人で、「百草を舐めて一薬を知る」能力があったとされる”ため、薬種商は、“薬の真偽・品質の鑑別が非常に難しいため、神農に日々祈っていた”ということだ。その内享保年間に彼らは“伊勢講”を作り、伊勢に毎年参拝するようになり、その後、日本の医薬神の少彦名神の分霊を、京都・五條天神社(現・五條天神社)から迎え、神農と合祀し、薬種仲間寄合所に祀って現在の少彦名神社となった、とのこと。
祭礼は“神農祭(神農はん)”として、11月22日、23日に行われる。この祭では、五葉笹に“張子の虎”を付ける習わしがあるが、これは文政年間にコレラが流行し、この時に“道修町衆が疫病除薬として虎頭骨を配合した丸薬を施与するとともに、張子の虎を作り神前に祈祷した”というのが、起源となっている由。
“(3)品質管理”では、確か新薬開発などのための学校開設と、その発展の経過を示していた。大阪薬科大学の前身は、“明治37年(1904年) 5月9日に創立された大阪道修薬学校を発祥とし、その後大正14年に、わが国最初の女子薬学専門学校である帝国女子薬学専門学校となり、わが国の女子薬学教育の中心的役割を果たしてきた。そして戦後の学制改革にあたり、昭和25年新制の大阪薬科大学に昇格し、今日に及んでいる。”のであり、阪大薬学部も、道修町に設立された私立の大阪薬舗学校が一つの源流となっている。いずれも、戦前の大大阪時代の民力の強さを示しているように思う。
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“(4)道修町劇場(50インチ・モニター)”では、若手落語家が江戸期の薬種問屋の旦那に扮して、当時の様子を案内して見せてくれている。“(5)結束と繁栄”では、昔の道修町の街並みを再現した模型などの展示があり、ここに現大手薬剤メーカーの名や、その元になった名が散見される。(7)テーマ展示Ⅱでは、道修町の発掘現場の写真や出土品が展示されていた。
全てを見終わって、ビルから出る時異様な気配を感じて見上げるとそこには、黄金の虎像があって、少々驚いた。狛犬ではなく、“神農はん”を虎で守護しているのか。
ここの展示を見て、かつての大阪の繁栄を見た、というか、その民力に圧倒される思いがした。なるほど、この“神農はん”の存在自体は、その有名な割には普通の人が気付かないほどの小規模ではある。しかし、それは民間でやれる範囲で皆が納得する中で無理なく、やれることをやるという姿勢であったことによるものだ。時の政権の政治力で、民を傷みつけて権威でもって無理やり大規模なものを作ったのではないためだ。決して“上から目線”でのものではなく、いわば市民の“手づくり”に近いことが重要なのだ。だが、東京にあるものは大抵は大阪のものより規模が大きい。大阪と東京の差は、そんなところにもあるのではないか。そのことが、東京人が大阪を“上から目線”で白眼視する要因ともなっているのではないか。
繰り返すが、大阪にある大学もほとんどは、ルーツを手繰れば民力の影響が大きい。実は京都大学もルーツは大阪にあった。帝大が京都に移されてしまって、大阪に帝大がないことを憂いた地元経済人が集まり、中之島に適塾を源流にした “官立”大阪大学を作った。その後も懐徳堂の遺産をはじめ私立学校を源流とする教育・研究機関を吸収して、現在の“国立大学法人”がある。
つい最近、“官より民へ”と言われていたが、それを言っている主体が官である限り、それは本物ではない。大阪人もまた、東京を見て“それが、なんぼのもんじゃい!”と言い放つ元気がなければ、日本の再生は難しいのかも知れないが、その大阪人の気迫は薄れているように感じる。
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道修町は、地図で見ると1本の道路を挟んで東西約1km、南北90mの非常に細長い街である。東の端が南北に通る堺筋を突っ切って運河の東横堀川となり、西も同じく南北の御堂筋を突っ切って西横堀川が端になっていて、各々今やそこには高速道路が通っていて西横堀川は埋め立てられてしまっている。この街が繁栄した江戸期には、この東西の運河で入出荷されたようだ。この周囲の町には、北から伏見町、平野町、淡路町、瓦町、備後町、安土町があり、いずれも1本の道路を挟んで細長い層状の構成となっていて、道修町は伏見町と平野町の間にある。町名の由来は、Wikipediaによれば、“このあたりに「道修寺」という寺院があったからとする説や、江戸時代初期に北山道修(きたやま・どうしゅう)という薬学者がいたことにちなむとする説がある。”ということだ。
その“神農はん”は、地下鉄・北浜駅南端西側の6番出口から堺筋に出て、右側つまり南に向かい、2つ目の角をさらに右側つまり西に行って直ぐにある。しかし、ビルの谷間にひっそりとある感じで、幟や看板を見落とすと、分からず通過してしまう程で、全く知らない人には分かりづらい。もっとも、その西側のビルは“神農はん”の社務所ビルとなっている。この社務所ビルの3階に“くすりの道修町資料館”がある。
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型通り参拝を済ませて、なんとなく恐るおそる社務所ビルに入ってみる。狭い廊下に、資料館は3階にあるとの表示があり、その案内表示に従ってエレベータに乗って3階へ。着くと、そこが直ぐに資料館展示室の入口である。
入って右側の壁に“道修町資料保存会”の銘板があって、そこにはその賛同者メンバーとして日本の大手薬剤メーカーの殆どが名を連ねている。前回、“日本の薬剤メーカーの90%以上が道修町をルーツにしている”と書いたように思うが、正確には“大手薬剤メーカーの”と言うべきであった。ここに前言の大げさな表現を、訂正するとともに、お詫びしたい。(今、朝日新聞が“記事捏造”でバッシングされているので、炎上防止のため。炎上するほど読者は居ないが。)
表示に従って、入口から左側に歩を進めると、壁面に沿って展示物やパネルがあり、順に(1)くすりの町のあゆみ、(2)道修町の商い、(3)品質管理、(4)道修町劇場(50インチ・モニター)、(5)結束と繁栄、(6)現在から未来へ、(7)テーマ展示Ⅰ、Ⅱと続いて終わっている。最後のコーナーには、先程紹介した“道修町資料保存会”の銘板と、関連施設の案内パンフレットや歴史的資料をまとめた書物など販売の案内パンフレットが置いてあった。
“(1)くすりの町のあゆみ”では、豊臣秀吉が大坂城築城時に城下町を設置したあたりからの記述がある。薬種商仲間の明確な史料が残っているのは、明暦4年(1658年)の“道修町薬種屋33人の似せ薬取締りの連印状”からのようだ。偽薬を排除することによって、大坂薬種問屋の権威を高めるものとしたようだ。その後も、江戸幕府に掛け合って全国への販売ルート確保の権利を保証してもらったりしていたようだ。
こうして江戸期には、長崎に入って来た中国やオランダからの輸入薬剤原料を一手に大坂道修町に集めて、そこで原料の吟味を行って偽薬の排除に資するとともに、調剤品の品質を確保したようだ。また、この道修町から全国へ出荷した様子は、どういう資料をまとめたのか、“諸国への販売高”として大坂経由の薬剤シェアーを地図に表示している。これによるとさすがに、売薬の越中富山では1%未満のシェアーのようだ。まぁ、そうは言っても、10%を超えるシェアーを取っている所はないようだが、これは恐らくほとんどは大坂経由の薬は品質は良いが販価が高いので、庶民は地元産の安い薬で間に合わせていたのが実態だったのだろう。
また、少彦名神社は、元々は中国の薬祖神の“炎帝・神農”を個々の薬種商家内で祀られていた。“炎帝は、中国古代の三皇五帝の一人で、「百草を舐めて一薬を知る」能力があったとされる”ため、薬種商は、“薬の真偽・品質の鑑別が非常に難しいため、神農に日々祈っていた”ということだ。その内享保年間に彼らは“伊勢講”を作り、伊勢に毎年参拝するようになり、その後、日本の医薬神の少彦名神の分霊を、京都・五條天神社(現・五條天神社)から迎え、神農と合祀し、薬種仲間寄合所に祀って現在の少彦名神社となった、とのこと。
祭礼は“神農祭(神農はん)”として、11月22日、23日に行われる。この祭では、五葉笹に“張子の虎”を付ける習わしがあるが、これは文政年間にコレラが流行し、この時に“道修町衆が疫病除薬として虎頭骨を配合した丸薬を施与するとともに、張子の虎を作り神前に祈祷した”というのが、起源となっている由。
“(3)品質管理”では、確か新薬開発などのための学校開設と、その発展の経過を示していた。大阪薬科大学の前身は、“明治37年(1904年) 5月9日に創立された大阪道修薬学校を発祥とし、その後大正14年に、わが国最初の女子薬学専門学校である帝国女子薬学専門学校となり、わが国の女子薬学教育の中心的役割を果たしてきた。そして戦後の学制改革にあたり、昭和25年新制の大阪薬科大学に昇格し、今日に及んでいる。”のであり、阪大薬学部も、道修町に設立された私立の大阪薬舗学校が一つの源流となっている。いずれも、戦前の大大阪時代の民力の強さを示しているように思う。
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“(4)道修町劇場(50インチ・モニター)”では、若手落語家が江戸期の薬種問屋の旦那に扮して、当時の様子を案内して見せてくれている。“(5)結束と繁栄”では、昔の道修町の街並みを再現した模型などの展示があり、ここに現大手薬剤メーカーの名や、その元になった名が散見される。(7)テーマ展示Ⅱでは、道修町の発掘現場の写真や出土品が展示されていた。
全てを見終わって、ビルから出る時異様な気配を感じて見上げるとそこには、黄金の虎像があって、少々驚いた。狛犬ではなく、“神農はん”を虎で守護しているのか。
ここの展示を見て、かつての大阪の繁栄を見た、というか、その民力に圧倒される思いがした。なるほど、この“神農はん”の存在自体は、その有名な割には普通の人が気付かないほどの小規模ではある。しかし、それは民間でやれる範囲で皆が納得する中で無理なく、やれることをやるという姿勢であったことによるものだ。時の政権の政治力で、民を傷みつけて権威でもって無理やり大規模なものを作ったのではないためだ。決して“上から目線”でのものではなく、いわば市民の“手づくり”に近いことが重要なのだ。だが、東京にあるものは大抵は大阪のものより規模が大きい。大阪と東京の差は、そんなところにもあるのではないか。そのことが、東京人が大阪を“上から目線”で白眼視する要因ともなっているのではないか。
繰り返すが、大阪にある大学もほとんどは、ルーツを手繰れば民力の影響が大きい。実は京都大学もルーツは大阪にあった。帝大が京都に移されてしまって、大阪に帝大がないことを憂いた地元経済人が集まり、中之島に適塾を源流にした “官立”大阪大学を作った。その後も懐徳堂の遺産をはじめ私立学校を源流とする教育・研究機関を吸収して、現在の“国立大学法人”がある。
つい最近、“官より民へ”と言われていたが、それを言っている主体が官である限り、それは本物ではない。大阪人もまた、東京を見て“それが、なんぼのもんじゃい!”と言い放つ元気がなければ、日本の再生は難しいのかも知れないが、その大阪人の気迫は薄れているように感じる。
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