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サンデル教授の白熱教室

何時の間にか、お正月は過ぎ去った。時間と言うものは、何をしていようと、何もしていまいと関わらず過ぎ去って行く。子供の頃は もっと お正月を楽しんだような気がするが、歳のせいでこうなるものなのだろうか。齢を重ねるにつれて感動も乏しくなり、したがい、無為に時間は過ぎ去って行くのかもしれない。

さて、この感動のない お正月であっても いつも一応はテレビ番組をチェックしておくものだった。と言うのも いつもNHKは正月に “見もの特集”をやるからだ。なので、今回も年末には注意深くチェックしたつもりだった。そしてめぼしいもの見当たらず失望していたものだった。
ところが、ところがなのである。元旦の夜に NHK教育テレビで どこかで見たような白人の先生が大講堂で講義している模様を放映していたのだ。どこかで見た顔、というのは書店で平積み本の表紙で見た顔。写真で見る限り、キリリとした表情で 鋭いが どこかやさしさのある目つきに何となく魅かれてしまいそうな気になる様子。これぞ サンデル教授の講義の模様だったのだ。お蔭で エラク泡を食ってしまったのだ。
その後は、ただ呆然と 見るでも聞くでもなく、何となく スーッと入って来る論理の筋道に、見入ってしまった。その講義は実に見事と言う外はない。学生たちも もちろん同様の様子であるが、時々 先生から質問が飛ぶので ボーっとばかりはしていられないようだが、テレビのこちら側は安全圏だ。もちろん、本来は英語の講義を 声優が見事に日本語にして喋ってくれている。
てな 気のゆるみで、結局は 私の頭にはほとんど何も 残っていない。録画する余裕も無かったのだ。再放送は無いのかと 焦ったが 後の祭りで、昨年中に既に大人気の番組となっていて、NHKとしては何度も再放送して、DVDも発売した挙句の 一挙再放送ということのようだ。だから、何ら事前のPRはせず、今後の再放送も見込み薄のようなのだ。ビデオ・オン・デマンドという手もあるようだが、慣れぬことで面倒。何より有料なのがしゃらくさい。
どうやら、この番組は“白熱教室シリーズ”として 今後 国内の大学の名物教授陣の講義を放映して行く予定のようだ。
そして、このサンデル教授の講義は、すでに東大での講義も含めて書店で売り出されている本に掲載されているようなのだ。だから、頭に残らなかった分、それは本を買って読むよりない。とにかく、何度も放送されていたという、時代の雰囲気を捕まえ切れていない自分に忸怩たる思いが募った次第である。

米国大学の講義形式にモノ珍しさが有って、この番組が人気を博したとの見解もあるようだ。つまるところ、学生は講義前に課題図書を読みこなして、いわば予習をして講義に臨む。その予習を前提として、サンデル教授は大講義室の演壇に颯爽と立ち、演壇を縦横に動き回り演説し、質問を連発して論理の筋道を正して行く。教授は質問に答えた学生の名前を必ず確認していたが、講義への寄与ということで、加点されているのだろうか。そういうやり方への新鮮さが受けたのだという見方だ。
だが、私は そうは思わない。やはり、内容そのものへの興味・共感の要素が大きいと思っている。

私は これまで“正義”なるものを胡散臭いものと思っていた。“正義”とは相対的なものであり、それを絶対として振り回す人が居れば、頭から胡散臭い人物と思うべし、と思ってきていた。事実、ある種の考えを“正義”として振りかざせば、必ず違う考えの人々と鋭く対立せざるを得ない。それが、実生活上の本質的問題、つまり実利上の問題でないのなら、殊更に取り上げるべきことでもない。また実利上の問題であれば、大勢の赴くところ自ずと問題は解決する。大抵の日本人はそう考えているであろうし、私もそう考えて来た。なので、“正義”を標榜するサンデル先生、如何ほどの者との思いもあった。しかし、直に先生の講義に接してみると、殊の外論理的な展開に ある種の感動があったのだ。いわば、ある種の“常識”の根底を問い返す展開なのだ。

そして、常に極限状態の設定で、選択肢が幾つか設けられ、どの選択もしづらい状況で“君ならどうする”と問いかけてくる先生に論理的にどう答えるか、緊迫した講義なのだ。私は、こういう政治哲学という分野をついぞ知らなかった。それだけに感動を覚えたのだ。

特に、“常識”の根底を問い直す作業で、ロックの思想をベースに徴兵制を考える下りがある。ここでは、国家と個人の利害の対立が議論されていたように思う。これは やはり厳しい選択に関わる議論につながっている。個人の考えと異なる国家の行為に対し、聴講学生の中には国を捨てることを選択肢として持っている姿勢も見て取れる。中にはもっと乾いた議論もある。
日本では こういった厳しい議論はしない。こういう議論をせずに、首相の国家観を云々する姿勢がある。自らが国家と対決する姿勢を持たずに、国家に無条件帰属することを前提に議論している場合が多いように見受ける。そういう意味で 感覚的でしかない日本人は未熟なのではないか。厭戦平和主義か、熱血国家主義かしか見当たらない。国家と個人のせめぎ合いの中で、論理的に思考し、理性的な結論を得て、はじめて“戦争”に関する態度が決まってくる。乾いた議論も必要だ。こういう厳しい 論理思考を経て、はじめて憲法九条の議論がなされなければならないが、日本では熱血国家主義の観点からしか“戦争”が 議論されないので、一方的な結論しか出て来ていないのではないかと思わざるを得ない。多様な議論が無く、湿っぽい感情的議論のみでは一向に結論は出ない。現に、そのような感情的“激論”のみで50年以上を無駄に経過してしまった。

このように日本では ほとんど語られることの無い哲学。この日本は、まさに“純粋理性批判”の社会なのか。だが、欧米では この論理思考を学生時代に徹底的にやり、鍛え上げると言う。そういう論理的思考ができなければ、制度設計という作業は困難だとも言われている。日本人は、大半はそういう教育・訓練を受けて来ていない。だから、制度設計が下手なのではないかという議論もある。多くの日本人の国際的弱点であるらしい。そして、制度設計は まさしくISOマネジメントを語るものにとって、不可欠の仕事でもあり、必要な能力でもある。

それよりも、私は 今後の人口過剰のこの地球上において、サンデル教授が しばしば設定したような極限の生存競争が 現実のものとなるような気がしてならない。そのような極限状態において、どのように理性的に、論理的に破滅的でない解答を見出して行くのか、それができるリーダーをきちんと育成して行けるのか、日本人に問われているように思っている。そういう意味で、私より早く、サンデル教授の白熱講義に大いに注目した大勢の理性的日本人に敬意を払いたい、と思っている。

そして私自身も、今後サンデル教授の 著作に触れて行きたいと考えている。これまでは、実利をベースにした、ビジネス・スクール的思考があまりにも 持て囃され過ぎた観があるが、やはり 人としての“正義”を見極めておくべき時代が来ているのだろうと思う。そこには 当然“共感”という要素は含まれるのであろう。
ドラッカー経営学も“人”を重要な要素と考える方ではあるが、この政治哲学は、それとは 一味違った世界であり 見落とせない大切な思考パラダイムであると痛感した次第である。
そして、繰り返すが日本に こうした哲学がないことが 非常に残念なことなのである。

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