The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
2012年、明けましておめでとうございます
明けまして おめでとうございます。
正月は無精者にとってはわずらわしい限りである。年末は結局のところ何もしなかった。ただ体面をはばかるもの、というか他人に対する外聞を維持するための最小限のこと 年賀状を出すことだけは何とかやった。それもパソンコンで印刷して1日で仕上げてしまった。いつもは肉筆で添え書きするのだが、それすら省略したしまった。そのような無礼を働いてよいものとは思わぬのだが、今年は特に何もする気がしなかった。12月に入って気がつくと瞬く間に年末に至ってしまったのだ。
そして、正月によって普段のことが一時中断されてしまう。それがまた復帰する時に、無精者にはわずらわしい。復旧させずに忘れてしまい、エライ目に遭うかも知れないことを考えるとウンザリもする。
歳あたらまるタイミングで、ケジメを付けること、それが日本の文化であり美徳であることは理解はしているつもりだが、それが現代生活には 煩わしいことばかりのような気がするのだ。今年は私には 何故かその気分が強い。
さて、昨年は、個人的には株に本格参入しようとして、いろいろお勉強を始めてみた。このお勉強で分かったことは次のことだ。
第一に分かったのは、バフェットという巨人が居て、この御仁が唱えるバリュー投資が一番賢明な投資参加方法であること。そして、いわば人類の無限の発展を信じて世界の株を買うこと。つまり、世界のマーケットを代表する指標があるのなら、その指標へ投資するインデックス投資(だが、このようなファンドは日本には未だない。)が最も安全で確実な方法であり、このことは理論的、学問的にも実証されている。それが、無味乾燥なことであり、自分こそは賢く立ち回れると思って 如何に もがいてやりくりしても、たとえ一瞬そのような有利な状況がたち現れたとしても、それを継続維持することは不可能であることは経験的に十分に知られている。まぁ 有り体に言えば 株投資は 何の面白味もなく、ETF(できれば世界の)を買って寝ていれば良いことになる、というのが真実なのだ。
だが、今は 経済情勢が悪く、たとえそのETFを買ってもその指標(基準価格)は低下する一方の環境下にある。
実は、日本の株式市場は今年の初めには爆発的上昇を開始する寸前だったのだ。90年代に言われた、日本企業の3つの過剰(設備、雇用、借金)は、すっかり解消され、その企業体質は全く優良化して実は空前の利益を上げ始めようとしていたのが実態だった。国というか国民の経済感覚とは関係なく、企業が国際化した結果だったのだ。これを称して、国民経済と企業経済の乖離、別の言葉では空洞化の進展というべき状況にある。この経済状況の乖離は今後 もっと大きくなる可能性をはらんでいる。
ところが、3月の震災では、日本の先行き不安により市場は暴落した。事実、東北にある優良工場の壊滅により、サプライチェーンは寸断された。しかし、それも日本の優秀な現場力によって回復し始めると、今度は夏場の米国債の格付け低下の危機が訪れ、その後は 秋以降の欧州危機である。この欧州危機は相当に根深く、長引きそうなのが現状だ。
かつての日本市場ならば、このような海外の危機的経済状況は、一瞬の躊躇を与えるのみで、我関せずと一気に上昇相場へと突入し世界を牽引したもののはずだったが、90年代に徹底的に叩かれた経験からか日本の投資家(特に金融機関を中心にした機関投資家)は、自信を喪失し外人動向ばかり気にして一向に買い出動しない。勢いが全くなく、日本の国債ばかり買っている。特に銀行は株を持つことを禁じられてまではいないのだろうが、BIS規制からか、あるいは持ち合い規制からか積極的な株の買い出動はしていない。そして、投資先や貸出し先がないと言って嘆いているのが実態なのだ。この結果、萎縮した日本の株市場は異様な様相を呈している。この状況を バフェット氏は見逃してはいないようで、こっそりと言うのが適切なのかどうかは知らないが、どうやら日本の優良株を買い込んでいる様子なのだ。
一方、超マクロの経済状況を見て、“資本主義は死んだ”と指摘する人も居る。現在の経済の仕組は、技術革新の結果(主にIT技術の進展)古くなっていると見るべきだというのだ。つまり、経済のフロンティアについて現状では明確になっておらず、ために投資に対して大きな利潤が得られず、その結果 金利は低下する一方だというのだ。この状態を打開する鍵は、新興国にあるというのが大方の見方ではある。
だが、もはや地球は無限ではなく有限である。資源は有限なのだ。その有限の資源が支える人口は限界を超えて来ているが、昨年は地球人口70億人を突破してしまった。人口の増大は経済発展を支える大きな要因ではあるが、その人口を支えるべき地球資源が、すでに限界を超えてしまっているのだ。このことをどう見るのか、それがこれからの大きな課題である。現代文明の根源的問題なのだ。
一方、自然は人智を超えているというのも真実である。昨年の災害はそれを思い知らされたものだ。宇宙の摂理にそった知恵が重要である。“温暖化阻止”など飛んでもない人間の思い上がりなのだ。この思い上がりが、何らかのしっぺ返しとして人間に降りかかってこないとも言い切れない。このことも常に心に抱きながら対処するべきなのだろう。
こういった問題を、直近の課題、中期的将来の課題、長期的課題と仕分けしてどのように関連付けて一つずつ解消して行くのか、取り分け日本の財政をどうするのか、今年 正念場を迎えることになるのだろう。こうした状況を ポピュリズムでしか打開しようとしない多くの政治家は 無用の存在でしかない。信なき政治家は立つべきではなく、排除されるべきと言えるのだが、日本の政治状況は一向に改善されない。衆愚が日本を、いや世界をも覆っている。
・・・てな 大風呂敷はいくらでも広げられるのだが、私個人として振り返って見る時、自分自身は一体どうしたものか。どうすれば、自分が活かされるのか、未だに一向に見えてこないのが ここ数年の変わりない実情なのだ。そうした、状況の中で 相変わらず煩わしい日常にぬかるんだ生活を送っている。このままぱっとしない人生を終えるのだろうか。ぱっとしないどころか、激動の世の疾風怒濤に落ちて行く可能性も一方にはあるような気がする。無事に人生を終えきれるのだろうか。
これで“おめでとう”と言える状況だろうか。生きていること、それ自体を寿ぐのなら 分からぬでもないのだが・・・。
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