The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“企業倫理” に 思う
企業倫理とは一体何なのだろう。
営利企業というものは景気が 良い時は CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)だ何だと エエ格好する。そして 最近は一般向けに報告書まで出す。これまで“環境報告書”と言っていたものを わざわざ名称変更して 分厚いCSR報告書やサステナビリティ報告書をせっせと作っている。
だが、一旦 不景気になると なりふり構わずリストラをする。それが 本当のCSRなのだろうか。
一昔前のバブルの時代には メセナとか言って社会貢献を説いていた。不況になったら いつの間にか黙り込んでしまっている。そしてその後、リストラをやった。
さらに、その後 持たざる経営に転身し、労働コストを急速に変動費化して 今日に至った。そして、今回の不況には スピード経営で迅速に 変動費化した労働コスト・カットに専念している。
この時期、経団連はCSRをどう考えているのだろうか。不行状企業の後始末に 自治体が 尻拭いしているが、応分の負担は 考えない身勝手でもCSRだと言えるのか。
全ては “企業存続のため” が 大前提なのだ。たとえ内部留保があったとしても、株主の目を恐れているのだ。
ある関西家電メーカーの“超正直”の掛け声も、徹底した“リコール”も 所詮は“エエ格好のためのツール”であって、損得勘定でしかないのではないか。
経団連会長の母体企業の“サステナビリティ報告書”には“世界の繁栄と人類の幸福のために”などと書かれている。何と皮肉な表現なのか。そういう観点で見ると、掲載されている第三者意見も噴飯モノだ。
曰く、“本報告書は、「共生」の企業理念やグループのビジョンと戦略を紹介するとともに、広範なCSR課題を網羅し、総合的なものとなっています。前年までの報告書と同様、とくに環境マネジメント、技術革新、知的財産保護活動など、キャノンが得意とする主要分野に関してきわめて詳細に記されています。”
と 書き出している。「共生」の企業理念とは 誰との「共生」なのか。言葉が虚しく踊っている。要は “何を実際にしたか”、ではなくて、報告書に“何を書いたか”が重点に評価されている、といった印象だ。これなら、どんな不良会社でも立派なCSR報告書は書ける。そのような“勇気”を 報告書の書き手に与えてくれる。
こういった 枠組みが またまたISO化されるのだろうか。ますますISOのいい加減さが 見えてくるような気がする。
まさに、“巧言令色少なし仁” 論語の実践さながらなのだ。
こんな状況で 各企業は来年、どんなCSR報告書を書くのだろうか。やっぱり“環境報告書”に戻すのだろうか。それとも破廉恥にもCSRと言いつづけるのだろうか。大規模なリストラが 果たして社会貢献なのだろうか。
株主だけに焦点を当てた“グローバル・スタンダード”の経営で CSRが本当に実現できるのか。
それとも 厚顔、“世界の繁栄と人類の幸福のために” “巧言令色”の意味のない書類を 累々と築き続けるのか。その度に報酬を得て無責任な“第三者意見”を、書くプロ専門家も 出てくるのか。報告書には、ヤラセの欺瞞構造 満載になるのか。
こんな報告書を読んで安心するのは オバカさんばかりだ。今の世の中 そういう人が多いから それで良いのだろうか。
小さな話だが、少々気になる問題が先週あった。ハンバーガー全国チェーンの大阪の店で新製品の販売開始にあたって、臨時に雇った人間を 購入者の列に紛れこませて、新製品に殺到する人々の様子を演出した、というのだ。
これは、明らかにヤラセそのものだ。にも関わらず、このいかがわしい行為を当然の如くあつかう“報道解説”があって唖然としたのだ。この様子を 伝えた翌日の朝の ワイドショウで 著名な司会者が、“こんなのは 今まで誰でもやって来たことだ。”などと言って、どうしてこのようなことを問題にするのか、とコメントしていた。これには、思わず“素人”は怯んでしまうが、よく考えると 実に 呆れる発言である。このような “常識” を疑うようなニュース解説が 当然のことと扱われるのも問題のように思う。(ワイドショウを“報道”と見るか、オチャラケと見るかの問題はあるが、むしろ、ある時は報道として、ある時は オチャラケとして見せる曖昧な姿勢は無責任の極みではないかとも思うのだ。)
このように問題の多い“企業倫理”について、言葉として簡単に 扱う傾向が 今の風潮にあるが、実は 非常に重いものを孕んでいるのだと 改めて思ってしまう。
このような複雑で重い事柄を 安易にISO化可能なのだろうかと考え込んでしまうのだ。外形標準、外観からのパフォーマンス評価だけで、その企業や組織の“倫理性”を評価できるのだろうか。それに“倫理性”の基準そのものを “様々な価値観の多様性を是認するべき”という立場から どのように確定し得るものなのだろうか。
デファクト・スタンダードと言われ、グローバル・スタンダードと言われたもの そのものが 今回の不況の中で 揺らいでいる状態で 一体どのように考えるべきか、曖昧なまま 突き進むことに大いなる疑問を禁じえない。
基準そのものは PDCAの試行錯誤で 良いものにして行けば それで良いのだという姿勢も 安易に過ぎないか。その割には、結構 バブルを作っては 酷い目に遭っているという悲劇の歴史を 繰り返していないのか。経済学をはじめとして科学は どうしてその安易さを阻止し得ないのか。
しかし、そのようなことは、ISO9001にも言える問題なのではないか、と 頭を抱え込んでしまう部分があるのも事実なのだ。その上、この基準には、PDCAの試行錯誤で 良いものにして行くという姿勢そのものも 機能していないように見える。その改訂も 内容を見れば、莫大な金を使って 無駄な活動をISO関係者は 嬉々として、せっせとやっている印象だ。
年の終わりに 話が収束せず、拡散してしまって 大変恐縮。
そもそも したり顔で“倫理”を語る者ほど 信用ならないモノはないのが 世の常と 心得ております。
営利企業というものは景気が 良い時は CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)だ何だと エエ格好する。そして 最近は一般向けに報告書まで出す。これまで“環境報告書”と言っていたものを わざわざ名称変更して 分厚いCSR報告書やサステナビリティ報告書をせっせと作っている。
だが、一旦 不景気になると なりふり構わずリストラをする。それが 本当のCSRなのだろうか。
一昔前のバブルの時代には メセナとか言って社会貢献を説いていた。不況になったら いつの間にか黙り込んでしまっている。そしてその後、リストラをやった。
さらに、その後 持たざる経営に転身し、労働コストを急速に変動費化して 今日に至った。そして、今回の不況には スピード経営で迅速に 変動費化した労働コスト・カットに専念している。
この時期、経団連はCSRをどう考えているのだろうか。不行状企業の後始末に 自治体が 尻拭いしているが、応分の負担は 考えない身勝手でもCSRだと言えるのか。
全ては “企業存続のため” が 大前提なのだ。たとえ内部留保があったとしても、株主の目を恐れているのだ。
ある関西家電メーカーの“超正直”の掛け声も、徹底した“リコール”も 所詮は“エエ格好のためのツール”であって、損得勘定でしかないのではないか。
経団連会長の母体企業の“サステナビリティ報告書”には“世界の繁栄と人類の幸福のために”などと書かれている。何と皮肉な表現なのか。そういう観点で見ると、掲載されている第三者意見も噴飯モノだ。
曰く、“本報告書は、「共生」の企業理念やグループのビジョンと戦略を紹介するとともに、広範なCSR課題を網羅し、総合的なものとなっています。前年までの報告書と同様、とくに環境マネジメント、技術革新、知的財産保護活動など、キャノンが得意とする主要分野に関してきわめて詳細に記されています。”
と 書き出している。「共生」の企業理念とは 誰との「共生」なのか。言葉が虚しく踊っている。要は “何を実際にしたか”、ではなくて、報告書に“何を書いたか”が重点に評価されている、といった印象だ。これなら、どんな不良会社でも立派なCSR報告書は書ける。そのような“勇気”を 報告書の書き手に与えてくれる。
こういった 枠組みが またまたISO化されるのだろうか。ますますISOのいい加減さが 見えてくるような気がする。
まさに、“巧言令色少なし仁” 論語の実践さながらなのだ。
こんな状況で 各企業は来年、どんなCSR報告書を書くのだろうか。やっぱり“環境報告書”に戻すのだろうか。それとも破廉恥にもCSRと言いつづけるのだろうか。大規模なリストラが 果たして社会貢献なのだろうか。
株主だけに焦点を当てた“グローバル・スタンダード”の経営で CSRが本当に実現できるのか。
それとも 厚顔、“世界の繁栄と人類の幸福のために” “巧言令色”の意味のない書類を 累々と築き続けるのか。その度に報酬を得て無責任な“第三者意見”を、書くプロ専門家も 出てくるのか。報告書には、ヤラセの欺瞞構造 満載になるのか。
こんな報告書を読んで安心するのは オバカさんばかりだ。今の世の中 そういう人が多いから それで良いのだろうか。
小さな話だが、少々気になる問題が先週あった。ハンバーガー全国チェーンの大阪の店で新製品の販売開始にあたって、臨時に雇った人間を 購入者の列に紛れこませて、新製品に殺到する人々の様子を演出した、というのだ。
これは、明らかにヤラセそのものだ。にも関わらず、このいかがわしい行為を当然の如くあつかう“報道解説”があって唖然としたのだ。この様子を 伝えた翌日の朝の ワイドショウで 著名な司会者が、“こんなのは 今まで誰でもやって来たことだ。”などと言って、どうしてこのようなことを問題にするのか、とコメントしていた。これには、思わず“素人”は怯んでしまうが、よく考えると 実に 呆れる発言である。このような “常識” を疑うようなニュース解説が 当然のことと扱われるのも問題のように思う。(ワイドショウを“報道”と見るか、オチャラケと見るかの問題はあるが、むしろ、ある時は報道として、ある時は オチャラケとして見せる曖昧な姿勢は無責任の極みではないかとも思うのだ。)
このように問題の多い“企業倫理”について、言葉として簡単に 扱う傾向が 今の風潮にあるが、実は 非常に重いものを孕んでいるのだと 改めて思ってしまう。
このような複雑で重い事柄を 安易にISO化可能なのだろうかと考え込んでしまうのだ。外形標準、外観からのパフォーマンス評価だけで、その企業や組織の“倫理性”を評価できるのだろうか。それに“倫理性”の基準そのものを “様々な価値観の多様性を是認するべき”という立場から どのように確定し得るものなのだろうか。
デファクト・スタンダードと言われ、グローバル・スタンダードと言われたもの そのものが 今回の不況の中で 揺らいでいる状態で 一体どのように考えるべきか、曖昧なまま 突き進むことに大いなる疑問を禁じえない。
基準そのものは PDCAの試行錯誤で 良いものにして行けば それで良いのだという姿勢も 安易に過ぎないか。その割には、結構 バブルを作っては 酷い目に遭っているという悲劇の歴史を 繰り返していないのか。経済学をはじめとして科学は どうしてその安易さを阻止し得ないのか。
しかし、そのようなことは、ISO9001にも言える問題なのではないか、と 頭を抱え込んでしまう部分があるのも事実なのだ。その上、この基準には、PDCAの試行錯誤で 良いものにして行くという姿勢そのものも 機能していないように見える。その改訂も 内容を見れば、莫大な金を使って 無駄な活動をISO関係者は 嬉々として、せっせとやっている印象だ。
年の終わりに 話が収束せず、拡散してしまって 大変恐縮。
そもそも したり顔で“倫理”を語る者ほど 信用ならないモノはないのが 世の常と 心得ております。
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