The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“忖度”は美徳か
このところ引き続いた森友学園スキャンダルは、そろそろ政権の思惑通り沈静化しつつある。多数与党の数の論理でなんとなく予算案が通過してしまえば、役人の怪しい行為は何が問題だったのか、あるいは問題でなかったのかすら、明らかにならないままフェード・アウトしつつある。
誰かがこうした問題を予算委員会で議論することの可笑しさを指摘していたが、だからこそ予算案が国会を通過してしまえば議論する場がなくなってしまうことになったのだ。つまりウヤムヤのまま終息する気配濃厚ということだ。折角労力を割いて議論を起こしたが、何ら教訓を得ずして、問題を明らかにせず、解決せずして放置、あるいは先送りしていて、良いのだろうか。折角生じた問題に対し議論を深めないまま放置することが、将来により大きな問題を生む結果につながることはないのだろうか。
歴史的な大失敗は事前に生じた何らかの小さな問題を先送りした結果として生じていることが多い。福島原発の事故も、実際は“分かっちゃいるケド止められない。対策にはコストがかかる。”という議論で 押し切られた多くの問題の結果ではないか。この“分かっちゃいるケド止められない。”の議論は戦前にもあって、やがて疑問を抱く者には“非国民”という罵声を浴びせて冷静な議論を封じた結果だったではないか。今の状況は、このように冷静な議論を押し切ろうとする雰囲気が蔓延する一歩手前の段階にあるような気がする。
レッテルを貼って冷静な議論を封じようとする姿勢は現首相の口癖の“レッテルは貼るべきではない”とわざわざいう台詞に、むしろ御本人が“レッテル貼り”が深層心理ではお好きであることを示しているのではないだろうか。冷静な議論を押し切る罵声は、この“レッテル貼り”に通じるものがある。
さて、こうしたスキャンダルの議論の過程で話題になった一つに“忖度”という言葉がある。これに相当する適切な英単語は、無いと言われている。つまり日本独特の集団心理にかかわる言葉である。日本独特の言葉となると、右派からはあたかも“忖度”が美徳であるかのような議論を起こしているが、私はこれには一概に美徳とは思えないものがあると考えている。
例えば、国家公務員がその究極のトップである首相の意向を忖度することは当然であるかのような議論は間違っている、とも考えるからだ。何故ならば首相個人は、彼らの一時的なトップでしかなく、国家公務員は本来、国民の総意を忖度するのが正論だと考える。だから具体的な安部首相の顔色を伺うのは、国民に対して全く不遜な心理であることを指摘したいが、それが当然であるかのような議論がまかり通っている現状に危うさを感じてしまう。
特に、役人が行政のトップ個人の意向を忖度するのは当然であり、“忖度”には“良いもの”と“悪いもの”があると大阪府知事が指摘しているのは、一見正しそうな議論に見えるが間違っている。いわんや“合法的であれば『忖度』には問題がない”と断言するのは、いかにも志が低い政治家の発言である。府知事は大阪府職員が御自分に忖度してくれている様子に満足し、相好を崩しているが、先ほども言ったように大阪府の役人は大阪府民の意向を忖度するのが本来だ。だが、実際には役人が国民や府民、市民などの抽象的な相手の気持ちを忖度するのは困難だから、どうしても行政トップの特定個人を目標に忖度する構造になってしまうのは、仕方がない側面はある。
ISO9001やドラッカー風に言えば、顧客の声に耳を傾けよ、真の顧客は誰かを考えよ、となれば官僚は自分のサービスを提供する相手の住民の声を把握していなければならないが、行政に公平に国民や住民の声を拾い上げる組織がないのも事実だ。せいぜいで声の大きい苦情に左右されるのが落ちだ。具体的に声を定常的に組織的に公平・公正に拾い上げて政策に反映させる仕組は現状ではないのではないか。
選挙で声を反映させる、という議論は当然あるが、それは原則論でしかない。選挙では原則的には特定の政策を持つ政党や個人を議員や首長に選ぶのだが、ある局面ではそれでは不満だという微調整が必要なことはあり得る。その声の反映が現代の行政には大切だと言いたいのだ。正しく森友学園スキャンダルは いずれの前回選挙でも議論の対象になってはいなかったではないか。
“忖度”について行政では上記のような問題があるが、民間でも時間外労働つまりサービス残業のような“慣例”の背景に“忖度”の心理があることを指摘したい。ビジネス上の日本独特の悪弊“サービス残業”の温床になっているのは事実だ。これは組織として社員に仕事のさせ方に問題があるために生じている事態だが、その根本のところが組織文化になってしまっているため、中堅幹部以上に具体的に何をどうしなければならないか理解できない面があるのではないか。組織としての“責任と権限(意訳すればassignment)”を下位の社員に“忖度”を強く要求することによって曖昧にしている側面があるからだ。要は、係長は課長の課長は部長の部長は役員の目で、自分の仕事を見つめよ、つまり自らの役割を組織の中でのpositioningの中で理解し、その上で求められた報告をする必要がある、と言われてきた。この姿勢そのものは、客観的に見て組織の活性度にとって極めて必要なものだ。だが、それが上位の個人的・属人的な要求にまで忖度することによって、“出世”しようとしたり、特定の派閥の中で地位を上げようとする時に、いかがわしさが出てくるのではないか。いわば組織の要求と属人的要求を峻別して“責任と権限(意訳でassignment)”を理解していないために、変な残業が増加していることはないだろうか。
*電通の過労自殺事件は特異な企業文化の中で生じた個別の上司によるいじめであると思われ、何か精神的病理のようなものを感じる。特異な企業文化がコンプレックスを持った上司によるハラスメントを助長したとも見える。そのような条件下で“忖度”がどのように働いたかは、個別具体的な内面の話なので直ちには判断できないのではないか。いずれにしても日本人の持つ社会心理のなせる業であることは間違いないのではないか。
日本特有の過剰包装も、顧客の心理を間違って“忖度”した結果ではないか。過剰サービスが“おもてなし”であると誤解しないようにするべきであるのは、明白だ。だが日本のサービス業ではターゲットとする顧客の好悪を敏感に反映する傾向が強いため、過剰サービスはコストとの見合いで是正されていることが多く、問題は少ないように思われる。
このように“忖度”は一部の右派が言うように“美徳”とは一概に言えないことを明確に指摘しておきたい。“忖度”の結果、生じる行為は普遍的・客観的価値観で評価されなければならない。それが一部のものを利するものとなってはならない。一部のものを利するように“忖度”することは、たとえ合法であっても公共的倫理観で照らせば犯罪である。
誰かがこうした問題を予算委員会で議論することの可笑しさを指摘していたが、だからこそ予算案が国会を通過してしまえば議論する場がなくなってしまうことになったのだ。つまりウヤムヤのまま終息する気配濃厚ということだ。折角労力を割いて議論を起こしたが、何ら教訓を得ずして、問題を明らかにせず、解決せずして放置、あるいは先送りしていて、良いのだろうか。折角生じた問題に対し議論を深めないまま放置することが、将来により大きな問題を生む結果につながることはないのだろうか。
歴史的な大失敗は事前に生じた何らかの小さな問題を先送りした結果として生じていることが多い。福島原発の事故も、実際は“分かっちゃいるケド止められない。対策にはコストがかかる。”という議論で 押し切られた多くの問題の結果ではないか。この“分かっちゃいるケド止められない。”の議論は戦前にもあって、やがて疑問を抱く者には“非国民”という罵声を浴びせて冷静な議論を封じた結果だったではないか。今の状況は、このように冷静な議論を押し切ろうとする雰囲気が蔓延する一歩手前の段階にあるような気がする。
レッテルを貼って冷静な議論を封じようとする姿勢は現首相の口癖の“レッテルは貼るべきではない”とわざわざいう台詞に、むしろ御本人が“レッテル貼り”が深層心理ではお好きであることを示しているのではないだろうか。冷静な議論を押し切る罵声は、この“レッテル貼り”に通じるものがある。
さて、こうしたスキャンダルの議論の過程で話題になった一つに“忖度”という言葉がある。これに相当する適切な英単語は、無いと言われている。つまり日本独特の集団心理にかかわる言葉である。日本独特の言葉となると、右派からはあたかも“忖度”が美徳であるかのような議論を起こしているが、私はこれには一概に美徳とは思えないものがあると考えている。
例えば、国家公務員がその究極のトップである首相の意向を忖度することは当然であるかのような議論は間違っている、とも考えるからだ。何故ならば首相個人は、彼らの一時的なトップでしかなく、国家公務員は本来、国民の総意を忖度するのが正論だと考える。だから具体的な安部首相の顔色を伺うのは、国民に対して全く不遜な心理であることを指摘したいが、それが当然であるかのような議論がまかり通っている現状に危うさを感じてしまう。
特に、役人が行政のトップ個人の意向を忖度するのは当然であり、“忖度”には“良いもの”と“悪いもの”があると大阪府知事が指摘しているのは、一見正しそうな議論に見えるが間違っている。いわんや“合法的であれば『忖度』には問題がない”と断言するのは、いかにも志が低い政治家の発言である。府知事は大阪府職員が御自分に忖度してくれている様子に満足し、相好を崩しているが、先ほども言ったように大阪府の役人は大阪府民の意向を忖度するのが本来だ。だが、実際には役人が国民や府民、市民などの抽象的な相手の気持ちを忖度するのは困難だから、どうしても行政トップの特定個人を目標に忖度する構造になってしまうのは、仕方がない側面はある。
ISO9001やドラッカー風に言えば、顧客の声に耳を傾けよ、真の顧客は誰かを考えよ、となれば官僚は自分のサービスを提供する相手の住民の声を把握していなければならないが、行政に公平に国民や住民の声を拾い上げる組織がないのも事実だ。せいぜいで声の大きい苦情に左右されるのが落ちだ。具体的に声を定常的に組織的に公平・公正に拾い上げて政策に反映させる仕組は現状ではないのではないか。
選挙で声を反映させる、という議論は当然あるが、それは原則論でしかない。選挙では原則的には特定の政策を持つ政党や個人を議員や首長に選ぶのだが、ある局面ではそれでは不満だという微調整が必要なことはあり得る。その声の反映が現代の行政には大切だと言いたいのだ。正しく森友学園スキャンダルは いずれの前回選挙でも議論の対象になってはいなかったではないか。
“忖度”について行政では上記のような問題があるが、民間でも時間外労働つまりサービス残業のような“慣例”の背景に“忖度”の心理があることを指摘したい。ビジネス上の日本独特の悪弊“サービス残業”の温床になっているのは事実だ。これは組織として社員に仕事のさせ方に問題があるために生じている事態だが、その根本のところが組織文化になってしまっているため、中堅幹部以上に具体的に何をどうしなければならないか理解できない面があるのではないか。組織としての“責任と権限(意訳すればassignment)”を下位の社員に“忖度”を強く要求することによって曖昧にしている側面があるからだ。要は、係長は課長の課長は部長の部長は役員の目で、自分の仕事を見つめよ、つまり自らの役割を組織の中でのpositioningの中で理解し、その上で求められた報告をする必要がある、と言われてきた。この姿勢そのものは、客観的に見て組織の活性度にとって極めて必要なものだ。だが、それが上位の個人的・属人的な要求にまで忖度することによって、“出世”しようとしたり、特定の派閥の中で地位を上げようとする時に、いかがわしさが出てくるのではないか。いわば組織の要求と属人的要求を峻別して“責任と権限(意訳でassignment)”を理解していないために、変な残業が増加していることはないだろうか。
*電通の過労自殺事件は特異な企業文化の中で生じた個別の上司によるいじめであると思われ、何か精神的病理のようなものを感じる。特異な企業文化がコンプレックスを持った上司によるハラスメントを助長したとも見える。そのような条件下で“忖度”がどのように働いたかは、個別具体的な内面の話なので直ちには判断できないのではないか。いずれにしても日本人の持つ社会心理のなせる業であることは間違いないのではないか。
日本特有の過剰包装も、顧客の心理を間違って“忖度”した結果ではないか。過剰サービスが“おもてなし”であると誤解しないようにするべきであるのは、明白だ。だが日本のサービス業ではターゲットとする顧客の好悪を敏感に反映する傾向が強いため、過剰サービスはコストとの見合いで是正されていることが多く、問題は少ないように思われる。
このように“忖度”は一部の右派が言うように“美徳”とは一概に言えないことを明確に指摘しておきたい。“忖度”の結果、生じる行為は普遍的・客観的価値観で評価されなければならない。それが一部のものを利するものとなってはならない。一部のものを利するように“忖度”することは、たとえ合法であっても公共的倫理観で照らせば犯罪である。
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