The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“ゴッホ展 巡りゆく日本の夢”鑑賞in京都
いよいよ政治色の強かったピョンチャン冬季五輪が終わる。
日本のメダル獲得は史上最高数だとマスコミは単純にはしゃぐが、それで良いのだろうか。
例えば、開催国韓国のメダル獲得数は、金4、銀5、銅4、計13、に対し、日本は金3、銀5、銅3、計11、(2月24日現在)となっている。韓国の人口は日本の半分未満。にもかかわらず、数的に日本に遜色があるのはどういうことか。ウィンター・スポーツは韓国の方が盛んだ、ということで済ませて良いのだろうか。ならば、冬季でない五輪のメダル数はどうだろうか。前回のリオデジャネイロ五輪では金12、銀8、銅21、計41、韓国は金9、銀3、銅9、計21、となりこれでは人口比にすれば両者互角と見てよいのだろうか。日本の五輪参加回数は夏季22、冬季20、計42回、韓国は夏季17、冬季17、計34、と日本の方が参加経験は深い。にもかかわらず、メダル獲得数で韓国が日本に比肩しうる数字になっているというのはどういう事だろうか。否、夏季五輪になると日本より人口の少ないヨーロッパ各国にはるかに水をあけられている現実をどう見るべきなのだろうか。
日本のマスコミは五輪が始まると単純にはしゃいで五輪一色になるが、それで良いのだろうか。“五輪は参加することに意義がある”と長年うそぶいてスポーツ行政を軽く見ていた結果ではないだろうか。スポーツ行政を軽く見るということは、国民の体位向上つまり“国民の健康で文化的生活”にあまり関心がないことを意味するのではないだろうか。
それが証拠にスポーツ庁の設置も結構最近のことだ。一般国民の消費者としての権利を守る行政機関の消費者庁の設置も遅かったし、今十分に機能しているとは思えない。“女性活躍”などは、担当大臣はいるようだが、独立した行政機関はない。要するに国民の弱い立場の人々を守る行政がいつも弱いまま放置されているのが、日本の行政なのだ。
今、国家財政は年々増加する高齢者に対する医療費負担の増大が主因で赤字幅が拡大している。これに対するのに、国は高齢者本人負担を増加させることで切り抜けようとしている。ここにも正に弱い立場の人々を守る目的意識の希薄さが具体的に見えるのだ。そういった単純な対策ばかりではなく、私は“国民皆スポーツ”を一つの政策目標として、高齢者も含めて“国民の健康で文化的生活”を充実させることで、寝た切り高齢者を減らすことが考えられるのではないか。つまり国民のスポーツ・レベルの底上げと層の厚みを増すことで、結果として五輪のメダル獲得数を増やせるのではないかと考えているが、一向にその方向に動かないのはどうしたことだろうか。
現に、オーストラリアはそうした政策で成功し始めているという。どうやら五輪でのメダル数は増加していると聞く。
メダル獲得は過去の自分と比べて史上最高数だと単純にはしゃぐのではなく、他国と比較してどうなのか、という客観的視点を持たなければいけない。過去に比べてメダル獲得が増加するのは、五輪種目はどんどん増加する状態では当然のことなのだ。単純にはしゃぐのは、知性のない人間のすることだ。日本のマスコミには高度な知性は殆ど感じられない。
そして、スポーツもあらゆる独創の結晶なのだ。そのマネジメントにもシステマティックな独創が無ければ世界のトップには立てない。日本のスポーツ界の大半に精彩を感じないのは、その独創がないからではないか。外国人コーチが居て独創のあったパシュートでは、とても勝てそうになかったスピード・スケート世界一のオランダを下した。純日本人のチームで独創は生まれているだろうか。何やら精神論だけで済まそうとする指導者の下では思考停止となり、いかなる進歩も発展もない。
考えない独創のない日本の経済界・産業界に精彩がないのは、当然のことなのかも知れない。裁量労働制は、考えない経営者をさらに増長させるだけの政策ではないのではないか。優秀な人材を特攻のように消耗させるだけでは、工夫もなく幸福感も生まれず、素晴らしい世の中になるとは思えない。
それにしても平昌オリンピック・パラリンピックが終われば、米軍は北に対しどう動くのだろうか。トランプ大統領は、北朝鮮の船が禁輸品を洋上の船舶間で移し替える行為を厳しく取り締まる等、制裁強化に乗り出すことを発表し、“(そうした制裁が効果を上げなければ)第2段階に進まなければならない”とも述べたとの報道もある。少しずつ戦端をひらく下地作りをしているように見える。その動向に目を離すことはできない。
最近、日高義樹氏の著書を書店店頭で抜き読みしたが、先秋の北の火星15号発射の際、韓国軍が邀撃(迎撃)にTHAARDを使ったが失敗したという内容が記載されていたのだ。多分ミサイルの降下速度に追い付かなかった、ということだった。だが、ネットではこの“事実”を確認できなかった。またTHARDDは在韓米軍管理下の兵器のはずなので、韓国軍がその意思だけで邀撃に使えるとは思えない。日高氏はどういう“事実”に基づいて書いたのだろうか。
もし、今最も高性能とされるTHAARDで邀撃に失敗したのなら、日本のイージス艦搭載のSM3は当てにならないことになる。その陸上版のイージス・アショアも同様に信頼性は低いことになる。そんなものを日本は高額で輸入するのか。それよりも、実際に北のミサイルからの防衛には現状の態勢では全く有効でないことになってしまう。
日本のミサイル防衛の確実性には、信頼できる数字を聞いたことがないように思う。今まで実験は2回実施され、1回成功した、という声もあれば80~95%という“専門家”の話を聞いたような気もする。軍事機密、そんなに確かな数字が公表されることはないのだろう。だが、それでは全く不安だ。
本題に入ろう。先週、見たいと思っていたゴッホ展に急遽思い立って出かけた。会場は京都国立近代美術館だ。阪急で烏丸へ、そこから地下鉄で東山まで。駅から白川沿いに歩いて6~8分程度。上流に向かっての川沿いは初めてだったが、結構風情はある。マンションもあるが景観を壊さないように建てられた印象だ。
今回の展覧会はゴッホと日本の関連をテーマにしている。展覧会のHPには次のように書かれている。
“ファン・ゴッホの生まれた1853年は日本では黒 船来航の年にあたります。開国した日本からは大量の美術品が外国に出て行くことになりますが、鎖国中も日本と交易のあったオランダで生まれ育ったファン・ゴッホにとって、日本美術はまったく縁遠いものでもなかったはずです。実際、ファン・ゴッホの伯父ヤンは海軍軍人としてすでに1860年代に日本に滞在しており、ヤン伯父の家に下宿していたこともあるファン・ゴッホが日本の美術品を見たり日本について話を聞いたりしていた可能性はあります。しかし、オランダ時代のファン・ゴッホの手紙には日本についての記述はまったくといっていいほど見あたりません。彼が日本と日本美術に強い関心を持つようになったのは、1886年にパリに出てきてからのことでした。”
ということのためか、日本の浮世絵展示が全体の半分を占めている。例によって大勢の高齢者であふれている。自分もその一部なのだが、こんなに大勢の高齢者ファンが居るのかとは驚きだ。
中には入口の女性に、“誰がこんな企画をしたの。見たかった有名な絵がないじゃないの。ダメだワ。”と意味もなく声高に毒づいている高齢女性がいた。何だか聞いている方が気分が悪くなる。最近、こういった場所で声高に喋る高齢女性が多いような気がするが、困ったものだ。
こういった展示会ではある時から、必ず音声ガイドを借りることにしている。その方が理解が進むし、時間節約になるからだ。変なところでケチっても意味がない。私は混雑が嫌であったし、時間節約のためにも半分近くを占める浮世絵よりも、ゴッホ本人の絵ばかりを見て回ることにした。音声ガイドもゴッホの絵の解説ばかりだったように思う。
ゴッホの自身の絵は“自画像”、“花魁(溪斎英泉による)”、“(アルルの黄色いベッドのある)寝室”、“雪景色”、“アイリスの咲くアルル風景”、“タラスコンの乗合馬車”、“夾竹桃(きょうちくとう)と本のある静物”、“蝶とけし”、“渓谷(レ・ペイルレ)”、“オリーヴ園”、“ポプラ林の中の二人”、アルルの跳ね橋の習作も複数あった、等々であった。
ゴッホの絵は、構図構成のバランスがいびつ(“タラスコンの乗合馬車”では道路の比率が異様に大きい)だったり、遠近法がゆがんで(本来は“夜のカフェテラス”で感じられるが、今回の展示では“寝室”)いたり、線の曲がり具合にリズムがあり過ぎ(“オリーヴ園”)ていたり、普通には思いつかないタッチのものが多い。それが、逆に魅力のように最近思えるように ようやくなってきた。多分やっぱり、そういうことで天才なのだろうが、本人が生きていた時には、人々に理解されなかった、という。そういったことを、あまり有名でない絵の展示もあって、返って理解が進んだように思った。
ついでにと言っては大変失礼だろうが、“日本人のゴッホ巡礼”の部で日本人の絵もあった。例えば、佐伯祐三の“オーヴェールの教会”や前田寛治の“ゴッホの墓”もあったが、それだけでは、教養のない私には“何じゃコリャ”としか思えなかったのだが、特に“オーヴェールの教会”は、ゴッホ本人のオマージュだったということ。後で、そのゴッホの教会の絵の写真を見てそうだったのか、とようやく合点したものだった。それこそあのゆがんだ曲線で描いた教会を佐伯祐三も描いたのだった。確か実際の教会の写真が横に添えられていたが、それよりもゴッホの教会の絵の写真をそばに置いてくれれば、教養のない者には良かった。
とにかく、一通り見終わって満足し、軽い疲労感もあって、会場1階にある紹介映像の前で座り込んで休憩。
来た方向から逆に東山駅を目指して歩く。途中で来る時に目を着けていた、“京とみ”といういかにも京都の小料理屋と言う風情の店に入って、一番安い“あなご天丼”を食べた。その日の昼食一番客だった。日頃、下町の安くて美味い物を求めてばかりいたので、持って来られた折角の“あなご天丼”を思わずガツガツ食べてしまった。もう少し味わって食べればよかったと、今にして反省している。とにかく野菜も含めて、あっさりしていて美味かった。
味噌汁は赤みそで、いつも思うのだが、もう少し濃い風味があってもいいように思うのだが、ここでもあっさりし過ぎている。京都風はそんなものなのだろうか。私はいつまで経っても田舎者?
日本のメダル獲得は史上最高数だとマスコミは単純にはしゃぐが、それで良いのだろうか。
例えば、開催国韓国のメダル獲得数は、金4、銀5、銅4、計13、に対し、日本は金3、銀5、銅3、計11、(2月24日現在)となっている。韓国の人口は日本の半分未満。にもかかわらず、数的に日本に遜色があるのはどういうことか。ウィンター・スポーツは韓国の方が盛んだ、ということで済ませて良いのだろうか。ならば、冬季でない五輪のメダル数はどうだろうか。前回のリオデジャネイロ五輪では金12、銀8、銅21、計41、韓国は金9、銀3、銅9、計21、となりこれでは人口比にすれば両者互角と見てよいのだろうか。日本の五輪参加回数は夏季22、冬季20、計42回、韓国は夏季17、冬季17、計34、と日本の方が参加経験は深い。にもかかわらず、メダル獲得数で韓国が日本に比肩しうる数字になっているというのはどういう事だろうか。否、夏季五輪になると日本より人口の少ないヨーロッパ各国にはるかに水をあけられている現実をどう見るべきなのだろうか。
日本のマスコミは五輪が始まると単純にはしゃいで五輪一色になるが、それで良いのだろうか。“五輪は参加することに意義がある”と長年うそぶいてスポーツ行政を軽く見ていた結果ではないだろうか。スポーツ行政を軽く見るということは、国民の体位向上つまり“国民の健康で文化的生活”にあまり関心がないことを意味するのではないだろうか。
それが証拠にスポーツ庁の設置も結構最近のことだ。一般国民の消費者としての権利を守る行政機関の消費者庁の設置も遅かったし、今十分に機能しているとは思えない。“女性活躍”などは、担当大臣はいるようだが、独立した行政機関はない。要するに国民の弱い立場の人々を守る行政がいつも弱いまま放置されているのが、日本の行政なのだ。
今、国家財政は年々増加する高齢者に対する医療費負担の増大が主因で赤字幅が拡大している。これに対するのに、国は高齢者本人負担を増加させることで切り抜けようとしている。ここにも正に弱い立場の人々を守る目的意識の希薄さが具体的に見えるのだ。そういった単純な対策ばかりではなく、私は“国民皆スポーツ”を一つの政策目標として、高齢者も含めて“国民の健康で文化的生活”を充実させることで、寝た切り高齢者を減らすことが考えられるのではないか。つまり国民のスポーツ・レベルの底上げと層の厚みを増すことで、結果として五輪のメダル獲得数を増やせるのではないかと考えているが、一向にその方向に動かないのはどうしたことだろうか。
現に、オーストラリアはそうした政策で成功し始めているという。どうやら五輪でのメダル数は増加していると聞く。
メダル獲得は過去の自分と比べて史上最高数だと単純にはしゃぐのではなく、他国と比較してどうなのか、という客観的視点を持たなければいけない。過去に比べてメダル獲得が増加するのは、五輪種目はどんどん増加する状態では当然のことなのだ。単純にはしゃぐのは、知性のない人間のすることだ。日本のマスコミには高度な知性は殆ど感じられない。
そして、スポーツもあらゆる独創の結晶なのだ。そのマネジメントにもシステマティックな独創が無ければ世界のトップには立てない。日本のスポーツ界の大半に精彩を感じないのは、その独創がないからではないか。外国人コーチが居て独創のあったパシュートでは、とても勝てそうになかったスピード・スケート世界一のオランダを下した。純日本人のチームで独創は生まれているだろうか。何やら精神論だけで済まそうとする指導者の下では思考停止となり、いかなる進歩も発展もない。
考えない独創のない日本の経済界・産業界に精彩がないのは、当然のことなのかも知れない。裁量労働制は、考えない経営者をさらに増長させるだけの政策ではないのではないか。優秀な人材を特攻のように消耗させるだけでは、工夫もなく幸福感も生まれず、素晴らしい世の中になるとは思えない。
それにしても平昌オリンピック・パラリンピックが終われば、米軍は北に対しどう動くのだろうか。トランプ大統領は、北朝鮮の船が禁輸品を洋上の船舶間で移し替える行為を厳しく取り締まる等、制裁強化に乗り出すことを発表し、“(そうした制裁が効果を上げなければ)第2段階に進まなければならない”とも述べたとの報道もある。少しずつ戦端をひらく下地作りをしているように見える。その動向に目を離すことはできない。
最近、日高義樹氏の著書を書店店頭で抜き読みしたが、先秋の北の火星15号発射の際、韓国軍が邀撃(迎撃)にTHAARDを使ったが失敗したという内容が記載されていたのだ。多分ミサイルの降下速度に追い付かなかった、ということだった。だが、ネットではこの“事実”を確認できなかった。またTHARDDは在韓米軍管理下の兵器のはずなので、韓国軍がその意思だけで邀撃に使えるとは思えない。日高氏はどういう“事実”に基づいて書いたのだろうか。
もし、今最も高性能とされるTHAARDで邀撃に失敗したのなら、日本のイージス艦搭載のSM3は当てにならないことになる。その陸上版のイージス・アショアも同様に信頼性は低いことになる。そんなものを日本は高額で輸入するのか。それよりも、実際に北のミサイルからの防衛には現状の態勢では全く有効でないことになってしまう。
日本のミサイル防衛の確実性には、信頼できる数字を聞いたことがないように思う。今まで実験は2回実施され、1回成功した、という声もあれば80~95%という“専門家”の話を聞いたような気もする。軍事機密、そんなに確かな数字が公表されることはないのだろう。だが、それでは全く不安だ。
本題に入ろう。先週、見たいと思っていたゴッホ展に急遽思い立って出かけた。会場は京都国立近代美術館だ。阪急で烏丸へ、そこから地下鉄で東山まで。駅から白川沿いに歩いて6~8分程度。上流に向かっての川沿いは初めてだったが、結構風情はある。マンションもあるが景観を壊さないように建てられた印象だ。
今回の展覧会はゴッホと日本の関連をテーマにしている。展覧会のHPには次のように書かれている。
“ファン・ゴッホの生まれた1853年は日本では黒 船来航の年にあたります。開国した日本からは大量の美術品が外国に出て行くことになりますが、鎖国中も日本と交易のあったオランダで生まれ育ったファン・ゴッホにとって、日本美術はまったく縁遠いものでもなかったはずです。実際、ファン・ゴッホの伯父ヤンは海軍軍人としてすでに1860年代に日本に滞在しており、ヤン伯父の家に下宿していたこともあるファン・ゴッホが日本の美術品を見たり日本について話を聞いたりしていた可能性はあります。しかし、オランダ時代のファン・ゴッホの手紙には日本についての記述はまったくといっていいほど見あたりません。彼が日本と日本美術に強い関心を持つようになったのは、1886年にパリに出てきてからのことでした。”
ということのためか、日本の浮世絵展示が全体の半分を占めている。例によって大勢の高齢者であふれている。自分もその一部なのだが、こんなに大勢の高齢者ファンが居るのかとは驚きだ。
中には入口の女性に、“誰がこんな企画をしたの。見たかった有名な絵がないじゃないの。ダメだワ。”と意味もなく声高に毒づいている高齢女性がいた。何だか聞いている方が気分が悪くなる。最近、こういった場所で声高に喋る高齢女性が多いような気がするが、困ったものだ。
こういった展示会ではある時から、必ず音声ガイドを借りることにしている。その方が理解が進むし、時間節約になるからだ。変なところでケチっても意味がない。私は混雑が嫌であったし、時間節約のためにも半分近くを占める浮世絵よりも、ゴッホ本人の絵ばかりを見て回ることにした。音声ガイドもゴッホの絵の解説ばかりだったように思う。
ゴッホの自身の絵は“自画像”、“花魁(溪斎英泉による)”、“(アルルの黄色いベッドのある)寝室”、“雪景色”、“アイリスの咲くアルル風景”、“タラスコンの乗合馬車”、“夾竹桃(きょうちくとう)と本のある静物”、“蝶とけし”、“渓谷(レ・ペイルレ)”、“オリーヴ園”、“ポプラ林の中の二人”、アルルの跳ね橋の習作も複数あった、等々であった。
ゴッホの絵は、構図構成のバランスがいびつ(“タラスコンの乗合馬車”では道路の比率が異様に大きい)だったり、遠近法がゆがんで(本来は“夜のカフェテラス”で感じられるが、今回の展示では“寝室”)いたり、線の曲がり具合にリズムがあり過ぎ(“オリーヴ園”)ていたり、普通には思いつかないタッチのものが多い。それが、逆に魅力のように最近思えるように ようやくなってきた。多分やっぱり、そういうことで天才なのだろうが、本人が生きていた時には、人々に理解されなかった、という。そういったことを、あまり有名でない絵の展示もあって、返って理解が進んだように思った。
ついでにと言っては大変失礼だろうが、“日本人のゴッホ巡礼”の部で日本人の絵もあった。例えば、佐伯祐三の“オーヴェールの教会”や前田寛治の“ゴッホの墓”もあったが、それだけでは、教養のない私には“何じゃコリャ”としか思えなかったのだが、特に“オーヴェールの教会”は、ゴッホ本人のオマージュだったということ。後で、そのゴッホの教会の絵の写真を見てそうだったのか、とようやく合点したものだった。それこそあのゆがんだ曲線で描いた教会を佐伯祐三も描いたのだった。確か実際の教会の写真が横に添えられていたが、それよりもゴッホの教会の絵の写真をそばに置いてくれれば、教養のない者には良かった。
とにかく、一通り見終わって満足し、軽い疲労感もあって、会場1階にある紹介映像の前で座り込んで休憩。
来た方向から逆に東山駅を目指して歩く。途中で来る時に目を着けていた、“京とみ”といういかにも京都の小料理屋と言う風情の店に入って、一番安い“あなご天丼”を食べた。その日の昼食一番客だった。日頃、下町の安くて美味い物を求めてばかりいたので、持って来られた折角の“あなご天丼”を思わずガツガツ食べてしまった。もう少し味わって食べればよかったと、今にして反省している。とにかく野菜も含めて、あっさりしていて美味かった。
味噌汁は赤みそで、いつも思うのだが、もう少し濃い風味があってもいいように思うのだが、ここでもあっさりし過ぎている。京都風はそんなものなのだろうか。私はいつまで経っても田舎者?
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