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私の“東北ツァー”

3・11以後、いずれ誰かから東北方面へのツァーのお誘いがあるものと思っていたが一向にお声かからず、3年以上経ってようやく思っていたような企画に参加できるようになった。
先週に引き続き、第1部の東京散策も含めての“東日本ツァー”であり、今回はいよいよ東北編の第2部と3部となる。第2部は、岩手県宮古市の南にある山田町の造船所と その界隈、さらに宮古から北上して北山崎の断崖観光だ。これはISO審査員資格保持者の研修会(フォーラム)の一環で、一昨年秋訪問した広島のツネイシクラフト&ファシリティーズ㈱が、東北に開設した漁船用の造船所の立ち上げを見学するのが本来の主旨である。第3部は、いわき市の湯本温泉をベースにして福島第一原発の20km圏内に接近視察から南下して、その周辺を見て歩く計画であった。

東京・板橋のビジネス・ホテルからJR埼京線快速で大宮に向かい、そこから東北新幹線で盛岡へ。11時前に到着して、在来の山田線に乗り換え。その途中、盛岡駅新幹線コンコース内で駅弁のウニ弁当を購入。
山田線のホームで、別途 東京方面から来たフォーラム参加者と合流。意外にも乗客が多く、座席が空いていない。週末だったので、我々のように訪れる観光客が多いようだ。一行の事務局担当者と最後尾の車掌ブースの前で手摺につかまりながら、立ちながら話し込んで行く。列車は初秋の紅葉が始まる山野を抜けて走る。時々見える渓谷も、都会の風景ばかり見ている目にはすがすがしい。



列車は、ほぼ満員のまま、予定通り午後1時過ぎ到着。車中、立ったままだったので、盛岡駅で買った駅弁を食べることができないままだったことに降りる時に気付く。とにかく改札を出て、出迎えの㈱ティエフシーの方々と御挨拶。㈱ティエフシーは、広島のツネイシクラフト&ファシリティーズ㈱が岩手県山田町に設立した会社。そこで、移動のために用意いただいた車に乗り込む。一旦、その場で自分の車で参加するフォーラム会員との合流待合せ休憩。その車の中で、こそこそと駅弁を掻き込む。折角のウニ弁当だったが、残念にも味わう余裕なく飲み込んでしまった。

いよいよ車で出発。本来は宮古からJRで山田町まで行けるのだが、津波被害後の復旧が進んでいないとのこと。JRは軌道の復旧まではやるが、その後の運営は地元で考えて欲しいとの意向の中、どうするか未だ定まっていないとのこと。
宮古市街を車で一巡。まだまだ家屋の土台だけの箇所も多い。閉伊川を湾口から遡って来る黒い津波が漁船を堤防に押し上げて陸上に落とし込む、あの市役所からの映像があったが、その下の道路を通過する。市役所の脇を通って、国道45号の閉伊川を跨ぐ宮古大橋を渡り、一路山田町に向かって南下する。



やがて道路は、左手に津軽石川、右手に列車の走っていない赤錆の浮いたレールの軌道に沿って走っている。この川は鮭が遡上する川で、以前は遡上する鮭を取っていたとのこと。だが、このように川があると下流よりも、上流の方が被害が大きい場合が多いとのこと。途中に堰があったが、今回はあまり効果が無かったようだ。
いよいよ山中に入る。これを抜けて海に出ると、そこが山田町だ。そして直ぐにティエフシーの造船工場建屋が見えて来る。工場建屋の横に車を停めて、見学開始。

設立会社㈱ティエフシー(T東北,F復興,Cカンパニー)は、従業員数15名。但し、現在9名は広島に応援出向中。資本金68百万円。主事業はアルミ(軽合金)製船舶建造・修理。設立は、震災後の2011年7月19日、工場立地表明は同年9月26日。工場建屋の大きさは、長さ42m、幅15M、高さ15.4m、建築面積約660㎡。この建屋高さは、船体建造の時、溶接を容易にするために船底を上にして船体フレームにアルミ板を接合して行くが、この後船底をひっくり返すが、この時天井クレーンを使うのでその揚程確保に高さが必要だった、とのこと。
この付近には漁船製造会社は3社あり、いずれもFRP船の会社。そこで得意のアルミ船を作るために進出した由。FRPは廃船時に環境問題を生じるがアルミは再利用可能でそのような問題はないし、一般的に使用する6mm厚のアルミ板はFRPより10~15%強度があるという利点がある。



船台には既に1隻の漁船が載っている。これは、フォーラム事務局が手配して事前に見ていたDVD、つまりNHK広島が2013年11月5日放映した番組に出ていた初号の漁船であろうか。放送では、地元の人を集めて造船工場を建てたが、受注がないので、注文ないままに売れそうな漁船をとにかく作り、売り先を探している、で終わっていた。そこで聞いてみると、これがその船で未だ売り先を探していると言う。そういう状態なので、本格的な艤装は未だ施していないとのこと。少々深刻な事態のようだが、会社幹部や現場で働く方々の表情は明るく、それに何とか救われるような気分だ。
政府もこういった民間の心意気に感じて、何らかの援助をするべきではないかと思うが、そういう動きはないようだ。例えば、地元にリースするような仕組みを考え、それを資金的に支援するようなことは考えられないのだろうか。自民党の御歴々も折に触れ視察にお見えとのことで、ティエフシーの方々も“ありがたいことだ。”とは仰ってはいたが、この窮状を何とかして欲しいものだとまでは言われなかった。自助努力で切り抜けようとされていて、今は広島の本社の仕事を下請け的にやっていると言っておられた。9名の出向もそのためであろう。
その後、事務所で地元従業員の方々と懇談。業務訓練で広島に行っていた間は辛かったが、地元に帰って来られて今は楽しくやれているとのこと。そういう方々のためにも、仕事が早く増えることが望まれる。
その対策としては、アルミ浮揚型津波シェルターTTS80の製造だという。既に原型承認も取得しており、年産最大24基とし1基13百万円程度で販売を計画している由。付近に高台のない太平洋岸自治体への重点営業が期待される。

どうやら、瀬戸内の漁業者と東北の漁業者の船に対する要求仕様には微妙にズレがあるらしいことも、地元からの強い需要がない一因であるように感じられた。それが本質的なものか否か、私には知る由もないが、少々残念。
また批判がましく思われると困るのだが、経営層の“山田町-東北を支援している”という意識が若干“上から目線”に感じられるのが気になる。それは、事業が軌道に乗れば早急に撤退したい、との強い意向が上層部にあるらしいことだ。地元に強い需要があるのなら、それで構わないと思うが、現状はそれでは問題があると思われる。
ティエフシーとしては、多分引くに引けない状態になっているのではないか。このような状態では、もはや山田工場の稼働率をいかにして上げるかが最大の課題であろう。場合によっては広島の仕事を奪ってでも、稼働率を上げる程の覚悟が、求められるような気がする。

その後、山田町役場に向かい、そばにある復興事業案内所の関係者から語り部として、町の津波被害状況と復旧状況を縷々伺う。山田町は狭い湾口に広々とした円形の懐の深い湾形だが、それでも津波被害はあり街を飲み込んだという。さらに被害を大きくし壊滅したのは、津波後の水が出ない状況で夜間に火災が発生したためだと言う。この津波は、湾口の対面にある織笠川河口付近に最もダメージを与え、そこは湾内最高の10m高だったとのこと。
地元“スーパーびはん”の基幹店プラザに隣接する丘陵が津波来襲時の手近な避難地となり、駆け昇った階段の1,2段手前まで津波は押し寄せた由。現在は“鎮魂と希望の鐘”が設置されていて、JR陸中山田駅舎の上に掲げられていて残った時計も当時のまま展示されている。
元々ここは、海の幸、山の幸が豊富なところで、既に湾内のホタテやカキの養殖いかだがかなり復旧していた。また山田湾を構成する船越半島の突端の霞露ヶ岳はキノコの宝庫で、近くの海に出漁しているとキノコの香りが漂っている、という。復興のため、居住域は丘陵部に移転し、その時出た土砂を元の中心市街地であった沿岸部の2~3m嵩上げに使用する、というものだった。“スーパーびはん”の復興への意気込みも感じられ、今後の再生に向けた動きが期待できるように感じられた。





日没、予約している地元のビジネス・ホテルに投宿。夕食は、御世話いただいているティエフシーの方と宴会・歓談。
カメラの電源に充電するための器具を忘れたが、どうにかなるだろうと思っていたが、ここに来てホテル側にも同行者にも、それに合う器具の持ち合わせがなく、翌日分のカメラ撮影で電源がなくなることとなった。

翌日は土曜日にもかかわらず、前日同様ティエフシーの方に車で宮古から北方へ案内して頂く。途中、長大な堤防建設にもかかわらず、津波に甚大な被害を受けた田老地区へ立ち寄る。田老町漁協の傍の堤防に上って被害の様子を実感する。総延長2433m、基底部の最大幅25m、地上高7.7m、海面高さ10m とされ、X字型に配置されたが、外側の堤防は破壊されたとのこと。向こうには津波被害の遺構として残すと言う“たろう観光ホテル”があった。さらに、その向こうの山では壮大な切り崩し、整地作業が行われ、新しい街の建設が急がれていた。



さらに北上して、一旦三陸鉄道の田野畑駅で休憩。そこからしばらく行ってホテル羅賀荘で本格的にコーヒー・ブレイク。ホテルは湾岸に迫っている山との僅かな空間に建っている。よく津波に耐えたものだと思うが、ここの3階まで襲われたとのこと。
そう言えば、東北へ行くに当たっては、吉村昭の“三陸海岸大津波”を読んで行けと、知人に言われていたので、買った文庫本を持って、車中で読みながら来た。ここ羅賀は、その本にも明治29年の時には、“押し寄せた津波は、湾の奥に進むにつれてせり上がり、高みへと一気に駆けのぼっていったのだろうが、50メートルの高さにまで達したという事実は驚異だった。”とある壮絶な津波襲来場所だ。
ところで、この本には明治と昭和の津波では、いずれも沖合の発光現象や、大砲の試射とまがうような異様な轟音が聞かれたと書かれているが、今回はどうだったかと、宮古出身のティエフシーの案内の方に聞くと、そういう実体験はなかったし、話にも聞いたことはない、とのこと。この点について、一体何がこれまでの地震とは違っているのか、誰か調査研究しているのだろうか。温故知新は、こういう地震の予報研究の初歩ではないのだろうか。



このホテル羅賀荘をベースにして、車で10分程南の北山崎断崖の観光クルーズの島越漁港に向かう。この遊覧船はティエフシーの売上になった船とのこと。乗船してようやく出港したところで、カメラの電池が切れ、これ以降撮影不可となる。クルーズ先は、羅賀から北の沿岸である。港で売っていた“カモメパン”をちぎって海に投げると、カモメが海面に落下するまでに空中でキャッチする。これはいずれのクルーズでも行われる慣行のようで、そのためにカモメは漁港で待機していたのだと、気付く。絶景は左手に見えるが、右舷側に乗ってしまって失敗だった。しかし、カメラは電池切れのため、カモメが餌に食らいつくのを見て楽しんでいた。ドーヴァーは白い断崖とのことだが、確かにここの赤い断崖は絶景だ。約50分のクルーズを終える。



港に戻って、さらに車でホテル羅賀荘へ戻り、昼食を摂って宮古にとって返す。JR宮古駅で案内していただいた、ティエフシーの方々に御礼を述べてお別れ。車で来たフォーラム会員ともお別れとなる。
ここからは、元来たルートを逆行。私は、ツァー第3部向けてのスタートとなる。盛岡から新幹線で郡山へ。20時前に郡山着。駅構内の蕎麦屋で天蕎麦を夕食とする。駅の近くのビジネス・ホテルに投宿。このあたりから、台風18号の動きが気になる。

翌日は、郡山市内を観光するつもりだったが、先ずはカメラ電池の充電器具を探すことにした。ホテルで聞いた家電量販店に飛び込むが、カメラを通じて充電する器具も、直接電池を充電する器具も在庫なしとのこと。他に量販店はないかと聞くと、そこから約2㎞先にあるとのこと。どのような交通機関があるか不明なので徒歩で向かう。郡山警察署の近くに来て、ようやく目当ての量販店入り尋ねてみたが、ここでも在庫なし。台風18号の影響で、パラパラ降り始めた雨が本格化。最早長距離を徒歩では戻れないところに、郡山駅前行きのバスがやって来た。幸いにも焦った私の様子を運転手が悟ってくれて、バス停でないところでドアを開けてくれて、有難く飛び乗った。不幸中の唯一の幸いだ。
“三陸海岸大津波”は前日読み切ったので、駅に連なるショッピング街の書店で吉村昭の“空白の戦記”を購入。昼食のために駅構内にあるはずの牛めし弁当の福豆屋を探すが見つからず、駅構内の“喜多方の味”の看板に誘われてラーメンとする。残念ながら塩辛さが強く、ラーメンはやはり苦手だ。

いよいよ本格化する雨の中、磐越東線で“いわき”へ。車中では先程買った文庫本を読むが、日本の艦隊が訓練中台風に遭難する話があり妙な気分になる。“いわき”からは、常磐線で湯本へ。台風が来るが、温泉も久しぶりなので予定通り旅程をこなすことにした。途中で携帯にメールで福島第一原発20km圏内接近ツァーが中止になったという連絡が入る。どうせ、カメラ撮影も不可なので温泉を楽しむだけだ。
泊まった旅館は江戸時代からの老舗“古滝屋”。雨の日曜では、夕食の外食も困難と見て館内のレストランとし、やけくそ豪華版とした。露天風呂では屋根があるので雨はあまり感じない。風は未だ弱く台風の感触はない。
台風の進路予測から、翌日の午前がいわきではピークとなると見て、昼まで旅館内に留まることとし、10時にチェック・アウトして正午付近まで1階のロビーで過ごす予定とした。
朝風呂は前日とは違う場所で窓がなく、何だか息苦しい感じ。宿の軽食で朝食とし、後は予定通りとしてロビーで読書。すると中止したツァー主催者が現われて、“もし良かったら、台風起因の事故は免責と了解いただいた上で、私独断でツァーを行いますが参加しますか?”と問いかけて来た。カメラは機能しないし、もし事故ったらややこしいし、さらに交通機関の復旧も時間がかかって関西への帰投に余計な問題を生じそうで、不確実性が高まることは断ることとした。ここは不運を甘受し撤退が正解であろう。ということで、我が東日本ツァー第3部はさんざんな目に遭い、閉幕とした。

正午前に宿を出て、駅近くの大衆食堂で昼食にソースカツ重を食べる。ソース味が勝ちすぎているのが残念。湯本駅から乗った特急“スーパーひたち”は再開第一号だったようだが、湯本到着に既に5分遅れ。そこからも豪雨だ、強風だと言っては停車し、やたら徐行して上野到着に2時間延着、車中で本も読了、特急券は払い戻しとなる。思惑通り東京では台風の影響は微塵もなく晴天。お蔭で雨具不要。大丸でハンバーグ弁当を買い、駅構内の三省堂書店で城山三郎の“無所属の時間で生きる”を買う。以降は何ら問題なく東海道新幹線に乗り、無事神戸に帰還した。

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