The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
吉村昭の“空白の戦記”を読んで
私の東日本ツァーで列車内で読んだ本1冊を折角なので紹介したい。津波被害のあった東北へ行くなら、その前に吉村昭の“三陸海岸大津波”を読んで行け、と言われていたので、旅の準備ではずぼらして、旅立ちにあたってこれを携行して行く途中で読むことにした。御蔭で明治、昭和初めの津波被災を三陸での背景史として理解できたように思う。この“三陸海岸大津波”については、既に前回若干触れたので、今回はツァー後半に台風に遭遇しながら読んだ同じ吉村昭氏の“空白の戦記”を紹介したい。
吉村昭氏は膨大な史実を拾い集めながら、要領を得たまとめ方や表現で作品に仕上げていて、文章を書くにあたって参考になるような気がする。とは言っても、そんな気がするだけで、吉村氏が具体的にどのような作業を通じて、このようにまとめあげているのかは、私は知らないので実際にどうしたものかは、全く見当もつかない。
瑣事の多い旅先―それが旅の醍醐味でもあるのだが―で、読んだ満足感を容易につかみやすい短編、それも吉村氏の作品が読みたくなって、旅半ばの郡山の書店でこれを選んだ。私は、一旦読み始めると同じ作者のものを読みたくなる傾向にあることも原因の一つではある。
この文庫本は、次の短編小説から成り立っている。
艦首切断
転覆
敵前逃亡
最後の特攻機
太陽を見たい
軍艦と少年
“敵前逃亡”は、吉村自身がこの文庫本に書いた“あとがき”によれば、吉村の沖縄戦での断片的事実を拾い上げて総合した創作だという。純粋にフィクションと呼べるのは、この中ではこれだけだろう。“軍艦と少年”も読んだ上では創作と思えるかも知れないが、中には調査の過程が生々しく“レポート”されているので、全くのフィクションではないと素直に思うべきであろう。他は、事実に基づいた記述だと思われる。だが、客観性が強いだけ返って“戦争”がここに登場する人物たちの人生に及ぼした非情さや影響の大きさをじわりと痛感させられる。
この本では“艦首切断”の次が“転覆”という順序になっているが、いずれも昭和初期の海軍の演習での海難事故を扱っており、それぞれ第四艦隊事件、友鶴事件と呼ばれていて、実際には第四艦隊事件が1935年(昭和10年)9月、友鶴事件が1934年(昭和9年)3月に発生している。従って、本来は“転覆”を先にして、“艦首切断”を後にするべきだったはずだが、どうしてこういう順序にしたのかは不明だ。
さて、ここでは時系列順に従い、“友鶴事件”の概要から説明する。1934年(昭和9年)3月12日午前1時、友鶴は僚艦と共に佐世保港を出港、寺島水道から大立島南方海面に出動、折からの荒天を冒して旗艦龍田に対して襲撃訓練を行ったが、ますます風浪が大きくなり、ついに訓練終結とし、龍田に続き、佐世保へ帰航中だった。その後艦の動揺がさらに激しく、友鶴の無線機は卓上より転落し受信不能となり、互いに発光信号で連絡しつつ航海していたが、その後友鶴の灯火が消滅して午前4時消息が絶えた。その後、佐世保鎮守府各部隊の艦船、航空機等手を尽くして付近海域を捜索、12日午後1時に転覆漂流中の友鶴を発見。これを龍田は何とか曳航し、13日午前7時に佐世保へ入港させた。そこで艦内に生存者があることが分かり、檣(マスト)などの突出物は水中切断し、13日午後8時、水船を両舷に固縛して浮力を与えつつ工廠の船渠に入れ、排水して、計16名の生存者は救出されたた。しかし、艇長 岩瀬奥市大尉以下100名の殉職者を出した、という事故である。
その後の“第4艦隊事件”は、1935年(昭和10年)9月に起きた。海軍演習のため臨時に編成された第四艦隊は、岩手県東250海里(約460㎞)沖合いでの演習に向かうため函館を出港した。その時、すでに台風の接近は知られていて、艦隊と台風が遭遇することが明らかになった。そのため、反転回避する案も出されたが、悪化した気象条件下では多数艦の一斉回頭による衝突が懸念され、一方、台風中の訓練も有意義であるとの見解もあり、航行続行した。ところが、艦隊主力は台風中心部に入ってしまい、波高20mの三角波中に突入となった。その結果、転覆・沈没艦は無かったものの、参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を受けた。特に当時、最新鋭の駆逐艦2隻(初雪,夕霧)は波浪により艦橋付近から前の艦首部分が切断されるという衝撃的な被害を受けた。また、駆逐艦 睦月,菊月,三日月,朝風の艦橋圧壊または大破という、駆逐艦の損害が集中した事故だった。初雪の切断された艦首は、驚くほどに長時間浮遊していたが、サルベージ技術がなく機密保護のため、浮体を砲撃して撃沈させ殉難者54名となった。
以上が2作品のあらすじ、というより事故・事件のあらましだ。“艦首切断”は表題からして、“あり得るのか!?”というもの。したがい、食いつきはいいだろうが、読みだすと序破急が巧みで、迫力ある記述に引き込まれる。印象としては、どちらかというと“艦首切断”は動的であり、“転覆”は静的に感じられる。私は読みながら、車窓の雨粒を見て迫りくる台風に身につまされ、何となく気味悪さを感じていた。
小説には細かく言及されていないが、これら2つの事故の背景には、軍縮条約の制限下に補助艦艇補充計画が立案され、軍令部は新艦に具備すべき要求事項を過大なものとして提示したことがあったという。条約制限外の水雷艇を実質的には二等駆逐艦に匹敵させようとしたのが千鳥型で、近海の決戦場において駆逐艦の代用として使用できる艦を目指した。本型シリーズのうち3番艦が“友鶴”であった。
本型シリーズの各艦は軍令部の兵装強化要求に対し、溶接と軽合金を採用し、機関や兵装重量も軽減したが、全体は重くなった。方位盤射撃装置を設け、凌波性、居住性を向上させ、さらに艦政本部各部は複雑精巧な機構を要求したので、重心を高くする傾向になった、という。両事故での被害艦の仕様を比較したのが下表であるが、“友鶴”の兵装仕様がその小さい排水量(艦体)にもかかわらず、明らかに、駆逐艦“睦月”や“夕霧”と遜色のないことが分かる。ここで、水雷艇の優速であるべき速力が、駆逐艦に比し劣位になっていることも分かる。これで一体水雷艇本来の機能が果たせると、軍令部や艦政本部は考えたのであろうか。それとも水雷艇とは名ばかりで、やはり軽量駆逐艦としての運用を考えたのであろうか。
また第四艦隊事件の原因については、小説では軽く触れられており、同じように過大な兵装要求があったことが原因だとしている。現に、当時米国の当局者は、日本側に日本の駆逐艦は米国のそれに対し6倍の能力があると密かに漏らしたとの逸話もあるようだ。また、失敗学・畑村洋太郎グループの指摘では、“特型駆逐艦*についてはこの事件後に、その就役以来の状況を詳細に調査してみると、就役後2、3年経ってから強度上の欠陥に基づく損傷が次々と発生していたことがわかった。しかるに、いずれも深く留意されるに至らず、政治的に片付けられ、技術的調査を行うことなくついに第四艦隊事件を引き起こすに至ったのであった。当時の新造艦は溶接を広く使用しており、…溶接を主要構造物に広く使用した艦は強度上の不備があることが明らかとなった。”とある。これから見ると、造船技術における溶接の問題は、戦後にようやく米貨物の溶接船で多数が問題になったように思うが、日本では既に昭和10年頃には技術的課題と認識されていたことが分かる。
*特型駆逐艦:主力艦の保有比率対米6割に抑え込まれたワシントン条約(1922年)後では、補助艦艇による米主力艦への魚雷攻撃により、勢力を漸減させ、ほぼ同勢力となったところで、主力艦による決戦を挑むという対米戦略が企図された。そこで優勢な補助艦艇の建造が計画され、軽巡洋艦に匹敵する兵装駆逐艦が計画された。それが特型と呼ばれる駆逐艦シリーズであり、1番艦は“吹雪”で、“夕霧”は、その後の特2型(綾波)シリーズの4番艦。なお、“睦月”は、ワシントン条約で断念された八八艦隊計画下の駆逐艦シリーズの1番艦であり、このシリーズ以降、駆逐艦に過大な兵装を要求する先駆になった。いずれにせよ、劣勢な経済力の国家が個々の兵器に過大な戦力を期待した無理の果てと見るべきであろう。
“敵前逃亡”と“太陽を見たい”は、時代が変わって太平洋戦争終末期の沖縄を舞台にした悲劇の話だ。
“敵前逃亡”は、心ならずも米軍の捕虜となった少年が、渡嘉敷島に絶望的に立てこもる日本陣地に行って、投降勧告するよう米軍から依頼されたが、本心はそのまま日本軍に参加して戦うつもりであった。ところが、生真面目に戻ってみると“敵前逃亡”とみなされ、穴を掘らされ、そこへ埋められるように首を斬られてしまう。この非情な一瞬をこう描いている。“頭上で、風が鳴った。と同時に首筋が燃えた。熱かった。眼前に、炎がグヮッと頭の頂きに向かって突き上げた。…頭部が穴の中をゆっくりと落下し、湿り気をおびた冷たい土にふれるのが感じられた。と同時に、周囲に白い水泡のようなものが勢いよく湧くのを見た。乳白色の明るい水泡だった。かれのからだは、その内部に急速に埋もれていった。”吉村氏の迫真の想像力と表現力に圧倒される。
同じく沖縄・伊江島での激しい戦闘の一場面を描いた“太陽を見たい”は、戦闘参加した女性斬込隊の話。
“最後の特攻機”は、昭和20年8月15日夕。正午に無条件降伏の玉音放送が流れたにもかかわらず、海軍の宇垣纏中将は、自身搭乗の彗星を含めて11機で鹿児島県・鹿屋航空基地から沖縄方面へと特攻に飛び立った。吉村氏は、わざわざ多くの若者を引き連れて特攻に赴いた宇垣中将を責めるでもなく淡々と事実を語っている。その評価は、読者に任せているのだろう。松本零士氏がある漫画で語っていたように思うが、彗星はスマートで美しい機体だ。私も写真で見てそう感じる。そんな機体での特攻はある種の美学だろうか。それにしても、定員2名の彗星の座席に、3人目の中将はどうやって割込んだのだろう。残念ながら、ここではこれに関して具体的説明はない。
“軍艦と少年”は、吉村氏が文庫本“あとがき”に“「戦艦武蔵」という小説を書いた時の後日譚ともいえるものである。”と書いている。私も“戦艦武蔵”は読んだつもりだが、遥か昔のことで主砲の照準合わせの名手の話しか記憶になく、多数のエピソードまでは覚えていない。三菱の長崎造船所で図面喪失に関わった少年が、戦後をどう過ごしたかを作者らがさぐる後日譚である。少年の消息をなかなかつかめなかったが、どうやら薄幸ながらも成長して、戦後直ぐに“結婚、子の誕生、(直後の“少年”本人の)死、そして未亡人の再婚がわずか4年の間にあわただしく重なっていることが、私には痛ましく思えてならなかった。”と書いている。その“少年”にさらに具体的に何があったかまではさぐらずに、この小説は終わっている。
文庫本の解説では、森常治氏が吉村氏の次の感慨を紹介している。“無意識ながら戦争の陰の部分に生きた人間を描いていることにあらためて気づいた。私の関心が、自然とその部分に注がれているからだろう”。
続けて、森氏は次のように指摘する。“『空白の戦記』はまずなにであるよりも先に「人と物」についての物語であるとはいえまいか、そしてこの「人と物」の物語という規定はなにも(軍艦その他の)「物」に囲まれた中で苦しむ「人」についての物語といった意味のほかに、もっと奥深い、形而上学的意味といえるような意味、われわれの知性を刺激するような意味でなされているのである。”
考えてみれば、吉村昭氏の“戦記モノ”ほとんどは、こういうトーンのような気がする。私には森氏の言葉以上の何かを語る言葉は見出せないように思える。そして悲しみに満ちた人生は、そこらじゅうに転がっているのだと、改めて思い知らされた気がする。
吉村昭氏は膨大な史実を拾い集めながら、要領を得たまとめ方や表現で作品に仕上げていて、文章を書くにあたって参考になるような気がする。とは言っても、そんな気がするだけで、吉村氏が具体的にどのような作業を通じて、このようにまとめあげているのかは、私は知らないので実際にどうしたものかは、全く見当もつかない。
瑣事の多い旅先―それが旅の醍醐味でもあるのだが―で、読んだ満足感を容易につかみやすい短編、それも吉村氏の作品が読みたくなって、旅半ばの郡山の書店でこれを選んだ。私は、一旦読み始めると同じ作者のものを読みたくなる傾向にあることも原因の一つではある。
この文庫本は、次の短編小説から成り立っている。
艦首切断
転覆
敵前逃亡
最後の特攻機
太陽を見たい
軍艦と少年
“敵前逃亡”は、吉村自身がこの文庫本に書いた“あとがき”によれば、吉村の沖縄戦での断片的事実を拾い上げて総合した創作だという。純粋にフィクションと呼べるのは、この中ではこれだけだろう。“軍艦と少年”も読んだ上では創作と思えるかも知れないが、中には調査の過程が生々しく“レポート”されているので、全くのフィクションではないと素直に思うべきであろう。他は、事実に基づいた記述だと思われる。だが、客観性が強いだけ返って“戦争”がここに登場する人物たちの人生に及ぼした非情さや影響の大きさをじわりと痛感させられる。
この本では“艦首切断”の次が“転覆”という順序になっているが、いずれも昭和初期の海軍の演習での海難事故を扱っており、それぞれ第四艦隊事件、友鶴事件と呼ばれていて、実際には第四艦隊事件が1935年(昭和10年)9月、友鶴事件が1934年(昭和9年)3月に発生している。従って、本来は“転覆”を先にして、“艦首切断”を後にするべきだったはずだが、どうしてこういう順序にしたのかは不明だ。
さて、ここでは時系列順に従い、“友鶴事件”の概要から説明する。1934年(昭和9年)3月12日午前1時、友鶴は僚艦と共に佐世保港を出港、寺島水道から大立島南方海面に出動、折からの荒天を冒して旗艦龍田に対して襲撃訓練を行ったが、ますます風浪が大きくなり、ついに訓練終結とし、龍田に続き、佐世保へ帰航中だった。その後艦の動揺がさらに激しく、友鶴の無線機は卓上より転落し受信不能となり、互いに発光信号で連絡しつつ航海していたが、その後友鶴の灯火が消滅して午前4時消息が絶えた。その後、佐世保鎮守府各部隊の艦船、航空機等手を尽くして付近海域を捜索、12日午後1時に転覆漂流中の友鶴を発見。これを龍田は何とか曳航し、13日午前7時に佐世保へ入港させた。そこで艦内に生存者があることが分かり、檣(マスト)などの突出物は水中切断し、13日午後8時、水船を両舷に固縛して浮力を与えつつ工廠の船渠に入れ、排水して、計16名の生存者は救出されたた。しかし、艇長 岩瀬奥市大尉以下100名の殉職者を出した、という事故である。
その後の“第4艦隊事件”は、1935年(昭和10年)9月に起きた。海軍演習のため臨時に編成された第四艦隊は、岩手県東250海里(約460㎞)沖合いでの演習に向かうため函館を出港した。その時、すでに台風の接近は知られていて、艦隊と台風が遭遇することが明らかになった。そのため、反転回避する案も出されたが、悪化した気象条件下では多数艦の一斉回頭による衝突が懸念され、一方、台風中の訓練も有意義であるとの見解もあり、航行続行した。ところが、艦隊主力は台風中心部に入ってしまい、波高20mの三角波中に突入となった。その結果、転覆・沈没艦は無かったものの、参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を受けた。特に当時、最新鋭の駆逐艦2隻(初雪,夕霧)は波浪により艦橋付近から前の艦首部分が切断されるという衝撃的な被害を受けた。また、駆逐艦 睦月,菊月,三日月,朝風の艦橋圧壊または大破という、駆逐艦の損害が集中した事故だった。初雪の切断された艦首は、驚くほどに長時間浮遊していたが、サルベージ技術がなく機密保護のため、浮体を砲撃して撃沈させ殉難者54名となった。
以上が2作品のあらすじ、というより事故・事件のあらましだ。“艦首切断”は表題からして、“あり得るのか!?”というもの。したがい、食いつきはいいだろうが、読みだすと序破急が巧みで、迫力ある記述に引き込まれる。印象としては、どちらかというと“艦首切断”は動的であり、“転覆”は静的に感じられる。私は読みながら、車窓の雨粒を見て迫りくる台風に身につまされ、何となく気味悪さを感じていた。
小説には細かく言及されていないが、これら2つの事故の背景には、軍縮条約の制限下に補助艦艇補充計画が立案され、軍令部は新艦に具備すべき要求事項を過大なものとして提示したことがあったという。条約制限外の水雷艇を実質的には二等駆逐艦に匹敵させようとしたのが千鳥型で、近海の決戦場において駆逐艦の代用として使用できる艦を目指した。本型シリーズのうち3番艦が“友鶴”であった。
本型シリーズの各艦は軍令部の兵装強化要求に対し、溶接と軽合金を採用し、機関や兵装重量も軽減したが、全体は重くなった。方位盤射撃装置を設け、凌波性、居住性を向上させ、さらに艦政本部各部は複雑精巧な機構を要求したので、重心を高くする傾向になった、という。両事故での被害艦の仕様を比較したのが下表であるが、“友鶴”の兵装仕様がその小さい排水量(艦体)にもかかわらず、明らかに、駆逐艦“睦月”や“夕霧”と遜色のないことが分かる。ここで、水雷艇の優速であるべき速力が、駆逐艦に比し劣位になっていることも分かる。これで一体水雷艇本来の機能が果たせると、軍令部や艦政本部は考えたのであろうか。それとも水雷艇とは名ばかりで、やはり軽量駆逐艦としての運用を考えたのであろうか。
また第四艦隊事件の原因については、小説では軽く触れられており、同じように過大な兵装要求があったことが原因だとしている。現に、当時米国の当局者は、日本側に日本の駆逐艦は米国のそれに対し6倍の能力があると密かに漏らしたとの逸話もあるようだ。また、失敗学・畑村洋太郎グループの指摘では、“特型駆逐艦*についてはこの事件後に、その就役以来の状況を詳細に調査してみると、就役後2、3年経ってから強度上の欠陥に基づく損傷が次々と発生していたことがわかった。しかるに、いずれも深く留意されるに至らず、政治的に片付けられ、技術的調査を行うことなくついに第四艦隊事件を引き起こすに至ったのであった。当時の新造艦は溶接を広く使用しており、…溶接を主要構造物に広く使用した艦は強度上の不備があることが明らかとなった。”とある。これから見ると、造船技術における溶接の問題は、戦後にようやく米貨物の溶接船で多数が問題になったように思うが、日本では既に昭和10年頃には技術的課題と認識されていたことが分かる。
*特型駆逐艦:主力艦の保有比率対米6割に抑え込まれたワシントン条約(1922年)後では、補助艦艇による米主力艦への魚雷攻撃により、勢力を漸減させ、ほぼ同勢力となったところで、主力艦による決戦を挑むという対米戦略が企図された。そこで優勢な補助艦艇の建造が計画され、軽巡洋艦に匹敵する兵装駆逐艦が計画された。それが特型と呼ばれる駆逐艦シリーズであり、1番艦は“吹雪”で、“夕霧”は、その後の特2型(綾波)シリーズの4番艦。なお、“睦月”は、ワシントン条約で断念された八八艦隊計画下の駆逐艦シリーズの1番艦であり、このシリーズ以降、駆逐艦に過大な兵装を要求する先駆になった。いずれにせよ、劣勢な経済力の国家が個々の兵器に過大な戦力を期待した無理の果てと見るべきであろう。
“敵前逃亡”と“太陽を見たい”は、時代が変わって太平洋戦争終末期の沖縄を舞台にした悲劇の話だ。
“敵前逃亡”は、心ならずも米軍の捕虜となった少年が、渡嘉敷島に絶望的に立てこもる日本陣地に行って、投降勧告するよう米軍から依頼されたが、本心はそのまま日本軍に参加して戦うつもりであった。ところが、生真面目に戻ってみると“敵前逃亡”とみなされ、穴を掘らされ、そこへ埋められるように首を斬られてしまう。この非情な一瞬をこう描いている。“頭上で、風が鳴った。と同時に首筋が燃えた。熱かった。眼前に、炎がグヮッと頭の頂きに向かって突き上げた。…頭部が穴の中をゆっくりと落下し、湿り気をおびた冷たい土にふれるのが感じられた。と同時に、周囲に白い水泡のようなものが勢いよく湧くのを見た。乳白色の明るい水泡だった。かれのからだは、その内部に急速に埋もれていった。”吉村氏の迫真の想像力と表現力に圧倒される。
同じく沖縄・伊江島での激しい戦闘の一場面を描いた“太陽を見たい”は、戦闘参加した女性斬込隊の話。
“最後の特攻機”は、昭和20年8月15日夕。正午に無条件降伏の玉音放送が流れたにもかかわらず、海軍の宇垣纏中将は、自身搭乗の彗星を含めて11機で鹿児島県・鹿屋航空基地から沖縄方面へと特攻に飛び立った。吉村氏は、わざわざ多くの若者を引き連れて特攻に赴いた宇垣中将を責めるでもなく淡々と事実を語っている。その評価は、読者に任せているのだろう。松本零士氏がある漫画で語っていたように思うが、彗星はスマートで美しい機体だ。私も写真で見てそう感じる。そんな機体での特攻はある種の美学だろうか。それにしても、定員2名の彗星の座席に、3人目の中将はどうやって割込んだのだろう。残念ながら、ここではこれに関して具体的説明はない。
“軍艦と少年”は、吉村氏が文庫本“あとがき”に“「戦艦武蔵」という小説を書いた時の後日譚ともいえるものである。”と書いている。私も“戦艦武蔵”は読んだつもりだが、遥か昔のことで主砲の照準合わせの名手の話しか記憶になく、多数のエピソードまでは覚えていない。三菱の長崎造船所で図面喪失に関わった少年が、戦後をどう過ごしたかを作者らがさぐる後日譚である。少年の消息をなかなかつかめなかったが、どうやら薄幸ながらも成長して、戦後直ぐに“結婚、子の誕生、(直後の“少年”本人の)死、そして未亡人の再婚がわずか4年の間にあわただしく重なっていることが、私には痛ましく思えてならなかった。”と書いている。その“少年”にさらに具体的に何があったかまではさぐらずに、この小説は終わっている。
文庫本の解説では、森常治氏が吉村氏の次の感慨を紹介している。“無意識ながら戦争の陰の部分に生きた人間を描いていることにあらためて気づいた。私の関心が、自然とその部分に注がれているからだろう”。
続けて、森氏は次のように指摘する。“『空白の戦記』はまずなにであるよりも先に「人と物」についての物語であるとはいえまいか、そしてこの「人と物」の物語という規定はなにも(軍艦その他の)「物」に囲まれた中で苦しむ「人」についての物語といった意味のほかに、もっと奥深い、形而上学的意味といえるような意味、われわれの知性を刺激するような意味でなされているのである。”
考えてみれば、吉村昭氏の“戦記モノ”ほとんどは、こういうトーンのような気がする。私には森氏の言葉以上の何かを語る言葉は見出せないように思える。そして悲しみに満ちた人生は、そこらじゅうに転がっているのだと、改めて思い知らされた気がする。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 私の“東北ツァー” | 丹羽宇一郎氏... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |