The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
環境を守るためのルールについて―“エコノリーガル・スタディーズのすすめ”の講義シリーズの最終回受講
米国大統領としてロナルド・トランプ氏が当選した。いざ、当選して見るとマナーの良いビジネスマンに戻った、または変身したように見える。兎に角、米国の外交政策はどのように変化するのであろうか、或いは変化せずその主張通りモンロー主義へとこもってしまうのだろうか。ことと次第によっては、日本の安全保障にとって極めてクリティカルな状況を現出するかもしれない。何故こうなったか。要は、社会現象として米エスタブリッシュメント(既得権者)がウィナー・テイク・オールとばかり利益を独り占めして、奪い去っている状況に一般市民が反乱したと見るべきだろう。そこにはリベラルの旗手が有効な社会変革のツールを見いだせずに思考を沈滞させたこともあるのだろう。こういう見方の問題点は、トランプ氏自身はエスタブリッシュメント(既得権者)であることだ。果たして、トランプ氏は本物の人物なのだろうか。
その一方、西側の隣国は政権のスキャンダルに揺れている。その様子を慎重に伺っている北が、判断を誤って行動を起こすことも想定内にしておく必要はある。それにしても、西側の隣国の政権はいかにも脇が甘い印象だ。いつもおどおどした雰囲気を持った朴大統領の背景を知ってしまうと、そういうことだったのか、と妙に納得してしまう。それにしても、この隣国では新興宗教が跋扈する風土なのだと初めて知って、心底身震いするのは私だけなのだろうか。それとも、こういう指摘を公式にすることは、日本では御法度になっているのだろうか。日本人は、世界の実態をもっと知らなければならない。
だから、日本の現政権もパリ条約の批准を見送り、TPPを急ぐというマヌケな行動をとってしまったのではないか。如何にも外交音痴極まれりである。今回の米大統領選挙にあっても、極秘でトランプ陣営に接触する離れ業など、及びもつかないことだったのではないか。こんな暢気な政府に独自外交はとてもではないが望めまい。
さて、このところますます突っ込みどころ満載の世情だが、私としてはひとまず上記のような感想でもって総括しておきたい。
今回も、申し訳ないが先週受講した“ひょうご講座2016”の内神戸大学教員陣による“エコノリーガル・スタディーズのすすめ”の講義シリーズの最終回“環境を守るためのルールとは”に関する若干の感想を報告したい。講師は、神戸大学大学院法学研究科教授・島村健氏であった。このところ、困った時の受講報告だが、御許し頂きたい。
さて、講義内容は、例えば電化製品を廃棄する場合、リサイクルの制度化をどのように考え制度化するかという、極めて現実的な“地に足がついた”議論だった。
この廃棄物回収について考えられるのは、①市町村回収モデル→従来からの一般廃棄物処理、②製造者モデル(原型)→容器リサイクル法、③製造者モデル(ユーザー廃棄時支払い型)→家電リサイクル法、④製造者モデル(ユーザー購入時支払い型)→自動車リサイクル法
素朴には①で何とかなるものと当初思われていたが、社会の製品の設計・製造技術の進化に伴い、使用される物質も多様化し、廃棄物の解体も困難になり、それらの専門知識や技術を持たない市町村では対応困難となり、投棄と埋設でしか処理しきれない実態となった。これでは、リサイクルとは程遠い対応となる。そこで、製造者責任を第一義にした容器リサイクル法が制定。これは、廃棄された容器を製造者が生産量に応じて引き取り、全て製造者負担で再生させ、再利用可能にする仕組みとなっている。
家電や自動車ではコスト負担が大きいので、消費者も負担する仕組としたが、それを製品購入時にするのか、廃棄直前に負担するのかで家電と自動車で異なっている。つまり、家電は廃棄直前で負担させることにし、自動車は購入時に既に負担する仕組としている。しかし、これには一長一短がある。家電では廃棄時に不法投棄して、費用負担を免れようとする輩が増加した。このため人のあまり寄らない道路脇や空き地に廃家電の放棄が、しばしば見られるようになった。自動車は中古車になった場合、購入者は過大にコスト負担したこととなるので、リサイクル費用分は返還されなければならない。これは法によって制度化されているが、その制度維持のコスト負担が大きいという問題が残っている。(現実には、自分の車が適切に処理されたか、中古車になったか確認できなければ、正当にコスト負担が評価されているかどうか分からないのでは?と思うが実際はどうなっているのだろうか。実は私も知らない。)
講義は、こういった問題提起で終わってしまった。
こんな何となく消化不良のような気分が漂う。しかし、最初の会の受講を忘れて欠席した以外は、全て出席したので、“修了証書”を貰って、いつものように夜の街を帰った。私は、この消化不良の気分の原因が何だったのか数日たってようやく分かった。
それは、いわゆる“環境法”と言う概念が人類社会の歴史の中でどういう経過で出て来たか、反公害法にどういう限界があったのかの説明から始めて、1920年に英国経済学者ピグーが唱えた“外部不経済”の概念が確定するまでの考え方の変遷にどういう紆余曲折があり、そこでの経済合理性と社会正義のせめぎ合い議論の解説があって、然るべきだったのではないかという思いだ。そういう経過を説明することで、この“エコノリーガル・スタディーズのすすめ”の講義シリーズが生きて来ると思うのだが、いかがだろうか。極めて現実的な“地に足がついた”議論は、実社会では既に分かっていることで、市民講座で求められるのは質の高い学術的議論を分かり易く解説することはずだったのではないか。前々回に話題提供した、契約法の英米法と大陸法の違いについて、どこからそういう違いが出て来たのかは分からないという説明と言い、私には消化不良が多すぎるシリーズ講義の印象だ。
それとも初歩的経済学や法学の知識のないヒマ潰しのジジババには、そんな講義は不要だと言う“親心”であろうか。まさか、これと同じようなレベルを神戸大学で講義していることはないだろうな。兎に角もしそれが本当ならば、あまりにも聴講者をバカにした話ではないか。それはわざわざ有料でやるべきことではあるまい。非常に不満の残るシリーズ講義だった。
その一方、西側の隣国は政権のスキャンダルに揺れている。その様子を慎重に伺っている北が、判断を誤って行動を起こすことも想定内にしておく必要はある。それにしても、西側の隣国の政権はいかにも脇が甘い印象だ。いつもおどおどした雰囲気を持った朴大統領の背景を知ってしまうと、そういうことだったのか、と妙に納得してしまう。それにしても、この隣国では新興宗教が跋扈する風土なのだと初めて知って、心底身震いするのは私だけなのだろうか。それとも、こういう指摘を公式にすることは、日本では御法度になっているのだろうか。日本人は、世界の実態をもっと知らなければならない。
だから、日本の現政権もパリ条約の批准を見送り、TPPを急ぐというマヌケな行動をとってしまったのではないか。如何にも外交音痴極まれりである。今回の米大統領選挙にあっても、極秘でトランプ陣営に接触する離れ業など、及びもつかないことだったのではないか。こんな暢気な政府に独自外交はとてもではないが望めまい。
さて、このところますます突っ込みどころ満載の世情だが、私としてはひとまず上記のような感想でもって総括しておきたい。
今回も、申し訳ないが先週受講した“ひょうご講座2016”の内神戸大学教員陣による“エコノリーガル・スタディーズのすすめ”の講義シリーズの最終回“環境を守るためのルールとは”に関する若干の感想を報告したい。講師は、神戸大学大学院法学研究科教授・島村健氏であった。このところ、困った時の受講報告だが、御許し頂きたい。
さて、講義内容は、例えば電化製品を廃棄する場合、リサイクルの制度化をどのように考え制度化するかという、極めて現実的な“地に足がついた”議論だった。
この廃棄物回収について考えられるのは、①市町村回収モデル→従来からの一般廃棄物処理、②製造者モデル(原型)→容器リサイクル法、③製造者モデル(ユーザー廃棄時支払い型)→家電リサイクル法、④製造者モデル(ユーザー購入時支払い型)→自動車リサイクル法
素朴には①で何とかなるものと当初思われていたが、社会の製品の設計・製造技術の進化に伴い、使用される物質も多様化し、廃棄物の解体も困難になり、それらの専門知識や技術を持たない市町村では対応困難となり、投棄と埋設でしか処理しきれない実態となった。これでは、リサイクルとは程遠い対応となる。そこで、製造者責任を第一義にした容器リサイクル法が制定。これは、廃棄された容器を製造者が生産量に応じて引き取り、全て製造者負担で再生させ、再利用可能にする仕組みとなっている。
家電や自動車ではコスト負担が大きいので、消費者も負担する仕組としたが、それを製品購入時にするのか、廃棄直前に負担するのかで家電と自動車で異なっている。つまり、家電は廃棄直前で負担させることにし、自動車は購入時に既に負担する仕組としている。しかし、これには一長一短がある。家電では廃棄時に不法投棄して、費用負担を免れようとする輩が増加した。このため人のあまり寄らない道路脇や空き地に廃家電の放棄が、しばしば見られるようになった。自動車は中古車になった場合、購入者は過大にコスト負担したこととなるので、リサイクル費用分は返還されなければならない。これは法によって制度化されているが、その制度維持のコスト負担が大きいという問題が残っている。(現実には、自分の車が適切に処理されたか、中古車になったか確認できなければ、正当にコスト負担が評価されているかどうか分からないのでは?と思うが実際はどうなっているのだろうか。実は私も知らない。)
講義は、こういった問題提起で終わってしまった。
こんな何となく消化不良のような気分が漂う。しかし、最初の会の受講を忘れて欠席した以外は、全て出席したので、“修了証書”を貰って、いつものように夜の街を帰った。私は、この消化不良の気分の原因が何だったのか数日たってようやく分かった。
それは、いわゆる“環境法”と言う概念が人類社会の歴史の中でどういう経過で出て来たか、反公害法にどういう限界があったのかの説明から始めて、1920年に英国経済学者ピグーが唱えた“外部不経済”の概念が確定するまでの考え方の変遷にどういう紆余曲折があり、そこでの経済合理性と社会正義のせめぎ合い議論の解説があって、然るべきだったのではないかという思いだ。そういう経過を説明することで、この“エコノリーガル・スタディーズのすすめ”の講義シリーズが生きて来ると思うのだが、いかがだろうか。極めて現実的な“地に足がついた”議論は、実社会では既に分かっていることで、市民講座で求められるのは質の高い学術的議論を分かり易く解説することはずだったのではないか。前々回に話題提供した、契約法の英米法と大陸法の違いについて、どこからそういう違いが出て来たのかは分からないという説明と言い、私には消化不良が多すぎるシリーズ講義の印象だ。
それとも初歩的経済学や法学の知識のないヒマ潰しのジジババには、そんな講義は不要だと言う“親心”であろうか。まさか、これと同じようなレベルを神戸大学で講義していることはないだろうな。兎に角もしそれが本当ならば、あまりにも聴講者をバカにした話ではないか。それはわざわざ有料でやるべきことではあるまい。非常に不満の残るシリーズ講義だった。
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