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加藤陽子・著“戦争の日本近現代史”を読んで

芸能事務所の不祥事の話題が尽きない。先週はこれを表に出さなかった芸能レポーターの存在を疑ったが、実はそれと戦ったレポーターが居たということだ。だが、彼はそれによってTV局に干された、という。そして彼の存在はフェードアウトさせられた。その後、御気の毒にも心労も重なったであろう肺ガンで亡くなっておられる。当たり前のことかもしれないが、やっぱり十把一絡げで非難するのはよくないことなのだ。
だが、これだけは言っておきたい!社会正義を正しく評価できない社会は、危うい社会なのだ。日本は既にそうなっているように感じる。

習近平主席はASEANやG20を欠席。内弁慶でダダをこねているかのようだ。
国内の経済問題をどう処理する気なのだろう。このままでは、日本よりもっと深刻なニホン病に確実にはまって行くはずだ。
中国では日本のバブル崩壊を研究して対策は出来ていると言っていたという話はよく聞いていたが、本当なのか。もう倒産している企業をゾンビのように生きながらえさせているのを見ると、とても対策ができているとは思えない。ゾンビ会社それも巨大な会社を多数生きながらえさせることは、その分経済再生への時間を遅らせることになり、その分経済の沈滞の深みは深くなるはずだからである。やっぱり、“対策はできている”というのはウソではなかったのか。彼らは何時本当のことを言うのだろうか。言っていることはウソばかりではないのか。
まぁ、彼の国の不況の影響をまともに食らわないように、触らぬ神に祟りなしで、お付合いをいい加減にしておくことが、賢明な対応であろう。



さて、今回は加藤陽子・著“戦争の日本近現代史”を読んだので紹介したい。8月15日は終戦記念日。少し以前だと、例年TV番組は終戦記念日特集を組んだり、映画もそれに関連したものを放映したりしていたが、最近はそういうことをしなくなった。今年は関東大震災100年だった。だが私個人としては、あの戦争を最早不問に付したり、無視することは少し憚れる気がする。そこで、“日本はなぜ太平洋戦争に突入していったのか”という疑問に少しでも回答を得られるような本を得たいと、この本を取り上げた次第だ。

いつものように本書の概要を紀伊国屋書店のウェッブ・サイトから紹介したい。

[出版社内容情報]
日本はなぜ太平洋戦争に突入していったのか。為政者はどんな理屈で戦争への道筋をつくり、国民はどんな感覚で参戦を納得し支持したのか。気鋭の学者が明治維新以降の「戦争の論理」を解明した画期的近代日本論!

[目次]
第1講 「戦争」を学ぶ意味は何か
第2講 軍備拡張論はいかにして受け入れられたか
第3講 日本にとって朝鮮半島はなぜ重要だったか
第4講 利益線論はいかにして誕生したか
第5講 なぜ清は「改革を拒絶する国」とされたのか
第6講 なぜロシアは「文明の敵」とされたのか
第7講 第一次世界大戦が日本に与えた真の衝撃とは何か
第8講 なぜ満州事変は起こされたのか
第9講 なぜ日中・太平洋戦争への拡大したのか

[著者等紹介]加藤陽子[カトウヨウコ]
1960年生まれ。89年、東京大学大学院博士課程修了(国史学)。山梨大学助教授、スタンフォード大学フーバー研究所訪問研究員などを経て、現在は東京大学大学院人文社会系研究科助教授。専攻は日本近代史。

この本の問題意識は、吉野作造の『我国近代史に於ける政治意識の発生』により、“江戸時代までの「天下の大政に容喙することを大罪悪」と教え込まれてきたのが、明治初年にあって、万機公論、天賦人権などの発想に、人々がどうしてそれほど容易に飛びつくことができたのか”と問うていること。その跳躍を可能としたのは何だったのかを明らかにしようという点にもあると、第1講で述べている。
また世界史的にはフランス革命後にキリスト教徒が殺し合う状況が何故起きたのかを歴史家が解明しなかったことを、トルストイはいたく立腹し、日露戦争を否定もしたという。
こういう“歴史に埋没した「問い」を発掘するためには、精力的な資料発掘と、それを精緻に読み込む努力が絶対に必要”と述べている。そして、E.H.カーを引用して“歴史を動かす深部の力について、史料を用いて考えなければならないのが、歴史の研究である”とも述べていて、この本への期待を煽っているのだ。

第4講で、山県有朋の意見書『外交政略論』(1890年・明治23年)が取り上げられ、“日本の独立自衛のためには主権線の守禦とともに、利益線の防護が必要だ”と述べていたと紹介している。“ここでいう主権線とは、国土すなわち領土のことで、利益線とは、主権線の安全に密接な関係のある隣接地域のこと”。そしてこの概念を教示したのは、当時ウイーン大学政治経済学部教授ローレンツ・フォン・シュタインだったという。彼は、伊藤博文が1882年(明治15年)憲法起草準備のためヨーロッパに赴いて教えを受けた学者で、伊藤に与えた影響は“①ヘーゲルの法哲学から出発しつつも、パリに赴いてフランス社会主義者と直接交流をもつことによって社会問題の重要性を知り、最も早い時期に、ヘーゲル法哲学とフランス社会主義の総合を試み、それを伊藤に伝えたこと、②明治憲法の柱となる権力分立の基本構造を伝えたこと、③国家による社会政策の重要性を伝えていたこと”であるという。
そしてシュタインは“日本の利益彊域は朝鮮の中立にある”ので、これを妨害する行為は排除せねばならず、中立を将来にわたって保存する必要があると山県の論にお墨付きを与えた、という。とはいえ、朝鮮の中立を尊重する言質を与える国々には、“日本は局外中立ので良い”といい、“基本的には①外交上の手段によって、朝鮮と各国間に広範な内容をもつ条約を締結させて、各国が朝鮮の独立を認める方向にもっていく、②スイス・ベルギー・スエズ運河などと同じく、朝鮮を「萬国共同会」の問題としてしまう、などの具体的方法があると助言”していたという冷静さも示していたという。
しかし、戦後この利益線論が日本の国境を果てしなく膨張させた元凶であると論じられている。つまり、朝鮮が利益線だったのが併合後は、関東・南満州が利益線に変化し、ついには北満・北支もと拡大してソ連とのノモンハン事件となっていったのだ。だが、帝国主義華やかなる当時、こういう考え方が先端的であったようだ。ところが、その思考が第一次大戦後、徐々に変化し始めていくのに、日本は気付かなかったのか、或いは無視したのかについては本書では論じられていない。

しかし、残念ながらこの本には、これが日米開戦の重要な鍵・分水嶺だった、という指摘はない。何だか史実を積み上げて、御存知の結果となったと暗黙の内に言って、終わっているという期待外れの内容なのだ。
読者としてお気楽な発言を許されるならば、せめて大上段に振りかぶって本を出版するのであれば、学者生命をかけてでも、何が日米開戦の重要な鍵だったのかということを明確に示してほしかったのだ。

真偽のほどは定かではないのだが、日米開戦前夜それを危惧した昭和天皇が側近に状況を御下問になったのだが、“すでに開戦は既定の事になっており、止められません。それが国民の空気です。”という意味の応答をして、天皇は開戦止むなしと諦められたというエピソードが流布されていた。これで日本は“空気”で政治上の重大決定がなされる不思議な国であり、これを契機として『「空気」の研究』を山本七平はものした、と聞いていたような気がしていた。ところがどうやらそれは事実としては無かった?ようなのだ・・・。
もう一つ、これは猪瀬直樹によるノンフィクション小説“昭和16年夏の敗戦”にあった話で、これは恐らく史実の積み重ねである。1940年(昭和15年)9月30日付の勅令で開設された、内閣総理大臣直轄の研究所・総力戦研究所で、時の若手高級官僚を集めて、総力戦机上演習(シミュレーション)を行ったところWikipediaによれば、“「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。”それを評して書名は『昭和16年夏の敗戦』となっている。“この机上演習の研究結果と講評は(1941年・昭和16年)8月27・28日両日に首相官邸で首相近衛文麿や陸相東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。”それに対し、小説によれば主戦論者の東条は顔面蒼白となり、講評では日露戦争の例を引き合いに“実際の戦争というものは意外裡な事が勝利に繋がっていく”と言うのが精一杯で、これを軽々に口外するなと言ったのだと記憶している。
これらの話からは、開戦の間際では、最早、開戦必至の国民の空気が止められぬ状態だった、ということだったのだ。

まぁそれだけ開戦間近の段階では、国民の意識が一致して“開戦止む無し”であったのは事実のようではある。だが、そういう究極の段階に至る手前で止められそうな状態の時期はなかったのか。あったのであれば、それは何時だったのかを知りたかったのだ。“歴史を動かす深部の力について明らかにする”のであれば、それを明らかにするべきではなかったか。

日米開戦であれば相手は米国。そう考えてみれば、日本政府にとって否応なく米国を意識させられたのは、ワシントン軍縮条約締結の頃ではなかったろうか。(Wikipediaによれば、“1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日まで米国で開催されたワシントン会議のうち、海軍の軍縮問題についての討議の上で採択された条約。”)またこの条約の発効にともない、日英同盟は解消されたはずなのだ。
Wikipediaによれば、“条約締結時点での主力艦保有数は、英30隻、米20隻、日11隻、建造中のもの英4隻、米15隻、日4隻であり、日本は英国の6割にも満たなかった。艦艇の保有比率に関しては、英:米:日:仏:伊がそれぞれ、5:5:3:1.67:1.67の割り当てとなった。”まぁこの御蔭で、無制限な建艦競争は終わりを告げ、財政逼迫の危機を免れたことになったはずだったのだ。
この頃日本国内は大正デモクラシーの時代であるが、この当時の日中関係は既にもつれはじめている。日中関係はもう少し“お勉強”・研究の余地が大有りであろう。やっぱり、戦間期に日本は行き先を誤ったのだ。
そういう点を研究者の力で本書に明らかにして欲しかったのだ。どうやら本書は著者御自身にとってはお気に入りのようだが、私としては不満やるかたないものとなっているのだ。

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