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“ザック・ジャパン”について

日本にとって、サッカー・ワールド・カップ・ブラジル大会は予選リーグで1勝もせず敗退で終わった。これをきっかけに、ザック・ジャパンは解散となった。アルベルト・ザッケローニ氏は、いずれにせよブラジル大会で監督辞任は既定路線ではあったろうが、彼自身はここまで酷い結果になるとは思っていなかったかも知れない。しかし、ベスト8は困難とは思っていたに違いない。
先週は、社会性の高い話題も多数あったが、今回はそれほど知らないサッカーについて、岡目八目気楽に取り上げたく、それで何とかお許しいただきたい。
それより私は、選手の落胆ぶりの異様さに驚いている。それほど本気でベスト16より上には行けるものと思い込んでいたのだろうか。確かに彼らは、試合前“優勝する!”とは言ってはいたが、そこまで本気で思っていたとは私は思わなかった。前回のワールドカップより上位に到達するのが確実だという思い込みの根拠は一体どこからくるのだろうか。

昨年末のヨーロッパにおける親善試合の結果で勘違いしたのだろうか。そもそも、親善試合では相手が本気になってやってくるはずがない。FIFAランクで遥かに下のチームとの、つまらない試合でケガをしても何にもならない。そう考えれば適当に、ショウ気分でカッコイイところが観客に見せられればまぁ御の字と思うのが普通ではないか。日本チームは勝てたから、それで公式試合にも勝てると勘違いしてしまったのであろうか。

しかし、その前の公式戦コンフェデレーション・カップでは、今回のワールド・カップ同様1勝もできなかったではないか。この戦績を真剣に反省したのであろうか。私の見たマスコミは一切このことに触れていなかった。コンフェデレーション・カップの開催当時も、不思議なほど騒がなかった。負けたのは、相手が一流だから仕方がないという評価で、そのままスルーしてしまった印象だが、それで良かったのだろうか。ワールド・カップの予選リーグに勝つためには、相手が本気でやってくるコンフェデでの勝利は大前提ではなかったか。その時一部にはザッケローニ監督の是非も論議されたようだが、もう少し、この時の敗因を反省していれば、“優勝する!”などとの大言は吐けなかったはずだ。
どうやら、日本のナショナル・チームは 舞い上がってしまうと客観的に自己評価できなくなる性向があるとすれば、それは現在の日本人の傾向とみても構わないのかも知れない。これは、気にしておいてよいことではないだろうか。

ザッケローニ氏の采配自体にも多少の疑問を覚える部分があるが、どうなのだろう。一番気になるのは、代表選手を固定化していたようだが、それで良かったのだろうか。常に、旬な選手を起用するというやり方でなければ、チームに緊張感が薄れ、常に活性化した状態に持って行けなかったのではないだろうか。本田や香川ですら、例外ではないという厳しさが必要だと思うが、どうだろうか。プロ野球の阪神が優勝した時、1つのポジションに2人付けて競争させるようにして活性化したという。サッカー日本代表チームには、都度選手として招聘されるかどうかという選別が前提だから、そのような活性策は不要だと言う議論も分かるが、何かそのような手法を取る必要はなかったのだろうか。特に、香川の不調、ミスは気懸りだった。
選手団を固定化する意味は、ザックの意志をチームに浸透させるために必要だったのならば、シャドウ・チームのような存在があっても良かったのかも知れない。そうなると、ザック自身の負担も極端なものとなり、物理的に不可能となるかも知れない。もし、そうだと言うのならば 今後の代表チームの編成のあり方そのものを考え直すべきではないだろうか。またザックには、何でも協会に要求するのは僭越だとする遠慮があったのかも知れない。協会と代表監督のコミュニケーションは十分だったのだろうか。

ザックは日本の代表監督就任当時の評判では、3-4-3のフォーメーションで名将の評価を得て有名だとのことであったが、日本の代表チームの実戦でついに、それを試すことはなかった。日本チームは、そういうレベルに至らなかったと言うのならば、それこそワールド・カップに優勝できるような一流チームではなかったことになる。
一部報道(14.6.27.付朝日新聞署名記事:内海亮)ではこの点に触れ、“理解力のある日本の選手ならもっと早く3-4-3が機能すると(ザックが)見誤った面もある。”と指摘していた。“「代表というのは、思ったよりも時間が少ない」。監督の口から何度か聞いたことがある。時間を大胆に使うことができなかった。”というのだ。
選手に3-4-3を理解させる前に、“体の向きや選手の位置取り、スローインの練習など細部まで突き詰めて、選手たちに「主導権を握って攻め勝つ」意識を植え付けていった。ここまではできた。ただ、劣勢時の打開策や試合運びなど柔軟に戦う策を授けることはできなかった。”という。要するに、試合運びの基礎を教えるのに時間を費やしてしまった、ということのようだ。ザックの理想は、「カメレオンのように試合中に柔軟に表情を変えるチーム」だったという。そのためには、基本の4-5-1の他に、ザック真骨頂の3-4-3をこのワールド・カップ直前に準備しようとしたようだ。やはり、監督は最後のギリギリまで3-4-3をあきらめなかったようだ。だが仕上げられず、実戦で見られたように“「カメレオン」ではなく「能面」”のような単調な攻撃しかできず、逆に相手がカメレオン化するのを目の当たりにし1勝もできなかったのだ。

要するに、イタリアからやって来た第一級の戦術家をして初歩的指導で消耗せざるを得ない状況にさせてしまったことになる。それほど、日本のサッカー・レベルはまだまだ発展途上国なのであり、優勝を口にできるレベルではないというのが、客観的状態だと言えるようだ。「自分たちのサッカー」をしていれば勝てるという日本選手達の検証されていない自信について、恐らく現実を熟知しているザック自身はどう見ていたのだろうか。選手達の現実のレベルと監督の理想のレベルの隔絶を、日本のサッカー界指導者は深く認識しなければならないはずだ。選手達は妙な確信を持ってしまったが故に、反省点を見いだせずに、“これまでを全否定せざるを得ない”という現状に陥っているのかも知れない。常に、みずからの弱点を認識しつつ、それをカバーしながらプレイするという非常に難しい対応が出来なければ、世界チャンピオンにはなれないのかも知れない。
日本人の身体能力から見て、スーパ・スターの登場に期待して、その育成を重点にするのは戦略的に乱暴な気がする。従って、組織的運動を中心にするパス・サッカーは放棄するべきではないと思うが、今回のスペインの敗退を見て、それを継続するのか、どうかも含めて重要な戦略的ポイントだ。そういう深い反省に立ってでなければ、次期監督の的確な選択はできまい。勿論、ヨーロッパから辺境の日本に好き好んでやってくる人は少ないことも覚悟しなければならない。

ワールド・カップの少し前辺りからの、マスコミの対応にも気になるところが多々あった。日本チーム敗退後の評価についても、“惜しかった”程度の発言しか出てこない。何故、何が拙かったのかさっぱり明らかにしないまま オチャらけてばかりいる印象だ。具体的な選手のミスを責める風もない。それで、日本チームに上手い選手が育つのだろうか。

全般に日本選手のシュート決定力不足は、相変わらず今回も目立った。日本チームは組織的攻撃を標榜しながら、折角相手ゴールに切り込んだ選手に他の選手が追い付いていない場面が目立ったような気がする。なので、ゴール前の絶好のチャンスに態勢を崩しながらシュートせざるを得ない状態が多く、失敗することが多かったのではないか。
ふた昔前の日本選手はスピードに劣り、明らかに走り負ける場面が多かったが、最近は世界も日本のスピードを認めるレベルになって来た。しかし、今回世界一流のスピードはそれを上回っている印象を持った。特にカウンター攻撃の速度は目を疑うほどだ。スピードはサッカーでは常に基本要素ではないのか。
ひと昔前は、そのシュートを打つ勇気すらなかったのだから進歩はしているのかも知れない。日本のマスコミは、そういう“ポジティブ”な評価やコメントを好んでしていた。しかし、シュートは打たなければ入らないが、入らねば点は取れないのだ。そして、点が取れなければ勝てない。的確なシュートを放つ工夫が必要だが、それが見られなかった。
それに、相変わらずつまらないパス・ミスも結構あった。蹴った先に選手が居ないので、あっさり相手にボールが渡ってしまう場面があり、その度に味方の気勢を削ぐことは無かったか。一流チームのゲームでは見られないシーンだ。

特に素人の私が気になるプレイが一つあったが、これまで誰もそれを指摘していない。私がテレビで見た角度がおかしいのだろうか。コート・ジボアールの選手の放ったシュートを身をのけぞって何とかかわした日本選手が居たのだが、そのボールはその後そのままゴールに吸い込まれて行った。あのプレイは正解だったのだろうか、非常に気になっている。スローで放映した場面も見たが、身をかわすとき腕を上にあげていたので、危うくハンドを取られそうだったのを何とかかわした、といった風情だった。あれは誰だったのか、非常に気になっている。あれはむしろ身を挺してボールにぶつかって行くのが正解だったのではないか。たとえミスしてハンドを取られても、そのまま点数を取られるより、その場では正解ではなかったか。ここにも、身を挺しても勝つという積極姿勢が見られない残念な姿勢が見られた。重要な初戦で、こんな初歩的なミスをして敗れているようでは、そして、それを誰も咎めないようでは、日本のチームは一流にはなり得ないと思う。

そういうマスコミの姿勢を嘆く書き込みを、ネットでようやく見た。これに曰く“取材をして、「あーそうですね。なるほどなるほど」だけでは、情報は伝わるかもしれないが、選手の成長は期待できない。”、“勝利のために選手・監督・協会・サポーターが一丸となって戦うことは必須条件だ。だがそこにメディアが入ってはいけない。”、“持ち上げるだけ持ち上げて、大会後に結果が出ないと総叩き。それこそポピュリズムの最たるもので、まったく生産性がない。「ポジティブになるべき」「ネガティブになるべき」、このようなどちらかに傾倒する空気感こそが危険だ。”と言っている。全く賛成だ。
だが今回、マスコミは選手達の検証されていない確信を煽り、御追従の報道ばかりで、まるで一流のチームかと思わせるような気分に溢れていたような気がする。そして、ポジティブ評価を好み、日本全体を検証不能の夜郎自大に落とし込む性向があるようだ。勿論日本のマスコミは政界、政治家にも及び腰の報道姿勢だ。日本全体が仲良しクラブになろうとしているのだろうか。マスコミは70年前の愚を再び犯し、国民を“1億火の玉”に結集させ、国を危うくしたことを知らないのだろうか。
今回のワールド・カップの準備でもそのようなチョットしたおごりムードが、不十分にさせてしまった可能性もあるのではないか。親善試合の企画や直前のキャンプ地の選択はあれで良かったのか。70年前の対米戦の準備も全く不十分というより、国力的に無謀な戦争に突入させてしまったような傾向に、“ポジティブ”マスコミは向かいつつあるのではないか。
また逆に最近の都議会の自民党政治家発言へのマスコミ批判には、何となく“皆で渡れば怖くない”の姿勢が見え隠れするのも、気懸りだ。“千万人といえども我行かん”の気概がマスコミには求められるはずだが・・・・。

岡目八目的にお気楽に取り上げたつもりが、思わずダラダラ長くなって恐縮。


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