The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“討論 三島由紀夫vs.東大全共闘”の映画を見て、その文庫本を読んで
安倍辞任に伴う総裁選レース、電光石火で菅氏支持急増。残念ながら後継プリンスと目された人物、動き鈍く、気付けば早々に圏外へ転落。9月4日に発表された朝日新聞の電話世論調査でも、後継にふさわしいのは“菅義偉官房長官が38%で最も多く、石破茂・自民党元幹事長が25%で続き、岸田文雄・同党政調会長は5%。”3候補中最下位。これでは次の次もムリ!“政界一寸先は闇”、“常在戦場”とはよく言ったものだ。
菅氏の人事、もしかして“♪アッと驚くタメゴロ~ッ!”になるのではないか、と私は見る。早くも派閥領袖間で鞘当てが始まっているが、恐らく“挙党一致、派閥無視”ではないかと、推測する。菅氏の発言、“私は派閥に推された訳ではありません。”、“私は無派閥です。” 恐らく玉手箱を開けて泡を食うのは、派閥領袖。菅氏はこの時のために、無派閥で居続けたのではないかと勘繰りたくなるくらいだ。何せ地元の応援者に“政治家になったら首相にならねば!”と1度言ったことがあるという。虎視眈々、これまでこの時が来るのを待っていた。それも自ら手を挙げて、のことではない情勢を作り上げてのことだ。
“挙党一致”となれば、現在の党幹事長留任、石破氏へは重要ポスト割り当て(本人の希望を聞くかもしれない)。その他の派閥領袖は無冠とし、むしろ同派内の若い有能人物を人選。勿論、岸田氏も無冠。とにかく、党内若手有力人物を起用。小泉内閣以来、これで一気に支持率を上げて、勢いに乗って即座に解散総選挙へ。これに大勝して、来年の総裁選では当然のごとく盤石、無風で恒久政権樹立、となるだろうか。
何せ、野党主力の旧民主党がヨタヨタ、野合の真っ最中のモタモタ。話題にすらならない。4日の朝日新聞の電話世論調査結果でも“政党支持率は自民40(30)▽立憲3(5)▽国民1(1)▽公明2(3)▽共産3(2)▽維新1(2)▽支持政党なし41(47)[丸括弧内は7月18,19日調査結果]”となり、立憲民主は前回支持率の5から3%へ低下。逆に自民は30から40%へ上昇している。
菅氏は苦労人ということだが、売りはそれだけか。世間は苦労人が何故か好きだ。だが“苦労人”を売りにする人物で立派な人を見たことがないような気がするが、どうだろうか。その看板で悪事を働く、そんな人を見たことはある。
安倍政権の“偉大な遺産”を引き継ぐとは、その利権も引き継ぐということだろう。だから、派閥の大半が分け前に乗るべくベットしたのだ。看板の架け替えで新しいかのように見せ、内実はそのまま。
何よりも不安要素は広島の選挙違反事件だ。これにどれほど深く関与していたか。検察がどこまで、それを暴いて行くのか。何せ安倍氏はその不安で政権を再び投げ出したのだ。菅氏は安倍氏の背中を見て、ついて行っただけなのだろうか。
もう一つの大きな不安要素は外交、防衛。基軸の対米、対中が不明。
対中も、彼の国の国内情勢が不透明。新型ウィルスと洪水と、対米外交の失敗で食糧不測と大不況ではないかと、疑われる。
この中国国内の問題、困難はやがて政権延命のために、外部へのエネルギー放出となって、日本に及ぶことが大いに懸念される。具体的には、日本には東シナ海の尖閣問題であり、東南アジア諸国には南シナ海島嶼の領有権問題である。
尖閣には9月中旬以降大型漁船を侵入させ、それを中国海警が取り締まるという自作自演を行い、尖閣の“日本の主張する領海”で“中国の法を執行した”と国際社会に向かって公言する可能性は大である。そこで日本側がそのような身勝手を阻止しようとして、実力行使した場合に不測の衝突が起きる可能性は大きい。
米海軍が日本側に加担してくれれば、そしてそのような事態を懸念して中国側が自制してくれれば、軍事衝突への進展は少ないものと考えられるが、むしろその可能性は小さいと見るべきであろう。とにかく、中国側は夜郎自大に陥っている可能性は大きい。だから近年、習政権全体が自己評価を見誤って、米国に立てついてしまい引っ込みがつかなくなったのではないか。特に、若い士官にはその傾向が強いと考えるべきで、英雄気取りで冒険的行動に出る可能性は高いだろう。
兎に角、中国側が自作自演を強行すると決意すれば、日中間の軍事衝突へ進展し、それが米中衝突へと変化することは確実と考えるべきだろう。
これは、菅政権発足前に起きる可能性もあり、喫緊の課題であることは間違いない。中国側の自作自演に対し、日本側がどのようなシナリオを持っているのか、それが米軍側と共有されているのか、一般人には明かされない極秘事項であることは間違いない。また現状は極めて緊張するべき局面である、と私は推測している。
少なくとも、従来政権よりアホアホの度合いは薄くなるような気がするが、期待通りとなるか、どうか。
さて、今回は“討論 三島由紀夫vs.東大全共闘”の映画を見て、その文庫本を読んで“くたびれた結果”を報告したい。
映画は正確には“三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実”の表題であり、角川文庫本は“討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争”が正式名称である。表題が若干異なるが、内容は同じものを取り上げている。映画は、討論当時のTBSチームが終始撮影したものを最近部分的に採用して関係者のインタビューを追加してこの春リリースされたものだが、本は討論開催の1969年(昭和44年)6月25日に新潮社より単行本が刊行され、それを再び2000年(平成12年)7月に文庫本として再刊行したもの、という。
兎に角、三島由紀夫も東大全共闘も私には謎が多いので、この映画には興味があった。この春先に公開されていたのは知ってはいたが、新型ウィルス感染に自粛していたため、見に行くのを先延ばししていたが、8月下旬にふと気付いて調べてみると、案の定、上映館が少なくなっており、慌ててわずかに上映していた映画館をネットで見つけて赴いた訳だ。
その映画館は十三に在った。映画は見るには見ても、恐らく記憶が次第に曖昧になるのは必定と、見る直前に梅田の書店で討論全記録の本を購入した次第だ。観客はやはり、高齢者が多い印象だった。
今回、見て、読んで、その謎解きに少しでも近付きたい欲求を果たすには、結構有効であったような気がする。
三島由紀夫と東大全共闘との討論会。それは東大全共闘主催の大学祭“東大焚祭”の一イベントとして開催された。Wikipediaによれば “「伝説の討論」として語り継がれている貴重な討論会である。1969年(昭和44年)5月13日の火曜日の午後2時頃より、東京大学教養学部900番教室の会場に集まった約一千人の学生と約2時間半にわたって討論が行われた”とある。
ここで、東大全共闘の背景とその時代の流れの概要を参考のために私なりに理解している範囲で説明したい。細部では事実誤認があるかも知れないが、大まかな流れとしては間違っていないはずだ。
まず“全共闘”とは、全学共闘会議の略で日本共産党の指導する民主青年同盟(民青)に反対する3つの政治セクト*1による三派全学連とセクトに属さない急進的思想の個人(ノンセクト・ラジカル)の連合体のこと。いわば日本共産党反対勢力の拠点であった。
当時特に東大では、1968年から医学部処分問題とそれに関連した民主化問題があり、教授会等への闘争が元々先鋭化していた。一方ではベトナム戦争への反対を現実の日常問題と捉え、1970年の安保条約改定を前にして反米的思想や政治姿勢が、盛り上がっていた。国際的な世代的反抗の学生運動の盛り上がり*2もあって、当時の先進各国では学生運動が活発化していた。そのような中で、全共闘が自然発生的に結成され、東大ではノンセクト個人の参加が多かったと仄聞している。
同様に大学の大衆化に乗った日大でも大学当局の不正経営問題があり、全共闘が結成されていた。当時、日大のトップは総長や学長ではなく“会頭”と呼ばれており、一般にも儲け主義の“怪盗”かと呆れられていて、周囲の大人からも学生への同情が集まっていた、ようだ。しかし、大学側が機動隊を導入して完全敗北。結果、その病根は残り、近年のアメフト部事件の遠因となったと見られる。この病理は未だ完治しておらず、症状再発の可能性は高い、と私は見ている。
これ以外にも1968年には、全国の国公立、私立大学で学生紛争、闘争があり、“学問の自由”を保証する大学の自治を巡って、一旦警察力導入が忌避されたが、東大安田講堂落城後は、全国の大学で入試実施や正常化を名目にして、各都道府県警察機動隊の導入が相次いだ。
*1)革命的共産主義者同盟全国委員会つまり中核派と、社会主義学生同盟と、社会党の青年組織から生まれた日本社会主義青年同盟の急進派である解放派(青解、後に反帝国主義学生評議会:反帝学評)の3派。三島も討論の中で“三派全学連”という表現を使っている。又、反日共の政治活動と見做した民青の妨害行為があり、討論開催場所を示すポスターなどが全て廃棄されて、東大卒業生の三島も会場まで道に迷ったとこの中で言っている。
ついでながら、当時の政権反対党の社会党や共産党も体制を補完する勢力と見做され、憎悪の対象であった。特に共産党の指導下にあった民青への反感は根強く、“反帝、反スタ”のスローガンへの共感は一般的であった。それは反帝国主義(反米)であり、スターリン主義という既成ソヴィエト体制の社会帝国主義への反発(反スタ)であり、当時ソ連のチェコ・プラハへの軍事弾圧に対する国際的反感も強くあった。ベトナムに平和を市民連合(べ平連)は党派に属さない人々のこうした気分を強く反映している。
ここでは触れられていないが雑に言えば、反日共という点でも三島と全共闘の一致点はあった。
*2)カミュの“われ反抗す、ゆえにわれら在り”の言葉に代表される世代的反体制運動の盛り上がりがあった。パリ五月革命でのカルチエ・ラタンQuartier latin解放区が有名。米国でもジョーン・バエズ等のプロテスト・ソングが流行し、ベトナム反戦を軸に反体制運動が隆盛し先鋭化した。日本では反戦フォークソングが流行。
若干、背景説明が長くなったが、社会情勢は結構複雑でこれでも語り切れていない。多くの事件・事象があり、ある種、混乱があった。特に、東大では本郷キャンパスの破壊が甚だしくて、この年の入試が中止された。そのため、本来は東大受験する予定者が他の国立大学に流れて、それに押し出される受験生も大勢いた。
この討論はそうした本郷キャンパス安田講堂落城後の余燼冷めやらない混乱の中、駒場キャンパスの全共闘が“焚祭”と称して大学祭を開催した中のイベントだった。実は私も、これが安田講堂落城後のイベントだったとは、今回見て、読んで、はじめて知った次第だ。落城前の全共闘盛況時のアトラクションと誤解していたのだ。
ついでに、その後のことを書いておこう。東大の状況推移の詳細は知らないが、全般的にはほぼ1年弱程度で全国各大学の“正常化”は進展し、完了する。ノンポリは勿論ノンセクトの大半は、正常化に飲み込まれていく。大衆が混乱に飽きたと言って良い心理だった。
その間、反体制学生運動を主導したセクトは四分五裂し、民青とのゲバルト(暴力闘争)より内ゲバという反日共系内での暴力闘争が激化したのだった。その終極点が連合赤軍事件であり、浅間山荘事件であった。この事件の衝撃でその後、反体制学生運動は、ほぼ消滅し、学生は羊の群れとなり、世の中はバブルへ突入して行ったのだ。
一方、三島は70年安保闘争も大過なく終了した翌年の秋、当時の陸自東部方面総監室で割腹自殺をすることになる。
“暴力を否定しなかった”者達の最期は、所詮、こんなものなのだろうか、という“あはれ”の感覚に浸る。
私は、当時の反体制派の学生が“暴力を否定せず、むしろ積極的に展開する傾向”に基本的な、殆ど肉体的嫌悪感があり、気分では反体制に共感しながらも、日常を拒否できずに体制に巻き込まれることを選択せざるを得なかった。浅間山荘事件以後、その衝撃を受けて、それをベ平連代表の小田実が確か“日常に巻き込まれずに、日常の中で逆に巻き込んで行こう”と本で言っていたように記憶するが、そうはならず、又、出来なかった。そして今日までそのまま生きてきた。
だからこそ、全共闘をはじめ反体制派は“日常を拒否し、時間と空間を断絶して「現在」に生きよ”と叫んでいたのだろう。しかし、“命あっての物種”、三島のように死んでしまっては、否、全共闘のように滅んでしまって引き継ぐものが居なければ意味がないではないか。そこにある謎や問題が討論を再現・検証してみることで、解けるのか、というところだ。
この暴力について、三島も当時繰り返し“私は無原則、無前提に否定するものではない。”と公言していた。しかし、この本の“討論を終えて”で三島は慎重な言い回しで次のように結論している。(この“討論を終えて”は映画にはなく、関係者や関係ない人のインタビューがある。)
“私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であろうとする考へを好まない。この考へ方は、責任感を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となって、世人の憎悪の的となることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないからである。自分がいつも正しいといふのは女の論理ではあるまいか。”
性差別的ではあり、旧仮名遣いであるが、内容はある種厳しい自己抑制があるので、安心したのだが、こうした多くの人の安心が1年後に覆されたのだ。ところで、悪鬼羅刹となって力を行使して変革が成功した事例は歴史上あるというのだろうか。生きていれば、三島に聞いてみたいものだ、とは言うが、生きていればそんな度胸はない。
この事例のように、三島の言論は結構分かり易い。さすがに超一流小説家である。生来の天才に加え、長年の作家活動で磨いた表現力の賜物なのだろう。
しかし、学生の主張は観念的で、独自の概念でありながら、その規定の説明もないまま議論を進めるので、実に分かり辛い。観念自体も全て理解できていないが、生硬な印象だ。だから、この本を読んで“くたびれた”のだ。こうしたくたびれる部分は映画では多くが、カットされている。だから映画では議論の筋道は分かり難い。ただ、討論の雰囲気が分かるだけだ。
だが、この私もこういう感想を持つのは年齢のせいなのだろうか。まぁ、この程度の理解力は持ち合わせるまでにはなったかなぁの感想を抱いている。
しかしこの困難をものともせず、三島は挑まれた議論を巧みに部分的にいなしながらも、論旨を大きく破綻させずに、丁寧に推し進めている。さすがの天才で、何とか討論は成立させたのだ。しかし、この本の“討論を終えて”で三島もさすがに、次のように告白している。
“了解不可能な質問と砂漠のやうな観念語の羅列の中でだんだんに募ってくる神経的な疲労は、神経も肉体の一部であるとするならば、その神経と肉体のかかはり合ひが、これを絨毯の上の静かなディスカッションにとどめしめず、ある別な次元の闘ひへ人を連れてゆくといふ経験も与えてくれた。”
この本で、全共闘側の発言者は、全共闘A,B,~Gというように匿名になっている。初版が刊行された時、彼らは未だ学生か世の中に出たばかりなので、そうしたのであろう。三島もそれを承知して刊行に応じたのであろう。だが、今やAとCはネットでは明らかになっている。
全共闘Aは、木村 修 氏で、東大焚祭委員会の主催者。討論会のため、三島に直接連絡を取った。討論当日、学生服で司会をしていた。東大農学部農業工学科卒業後、地方公務員となる。
全共闘Cは、芥 正彦 氏で、俳優、劇作家、演出家。劇団ホモフィクタス主宰者。本名、斎藤正彦。
これはあくまでも私の印象だが、全共闘Aは居住まいも学生服を着、髪もきちんと分けて整髪しているが、全共闘Cはかなりいい加減。それでもAはCの活動の展開力に敬服していたようだ。
全共闘AとCは本の終わりに、“討論を終えて”を三島と同様に寄稿している。全共闘Aの議論は短いが理解可能だ。全共闘Cは本文の議論同様に分かり難い。だが、Aは議論の行方をきちんとフォローできているので、Cのことも分かっているのだろう。
Aの議論で、生き方(或いは“行き方”?)に目的を設定した途端に、自由から疎外され抑圧され、限定されるというような意味を述べている。“そもそも人類が道具を使い、文明を発するようになった契機は、過去はかくある必然であり、それに従え、というものだったろうか。そうではあるまい。偶然で、二本足で歩き、偶然で道具を用いたのであろう。”と言っている。
私はそうは考えない。三島も目的の設定は重要だとの議論を本文でしているが、結局平行線に終わっている。生物の進化の過程は、個体が所与の環境条件の中で、こうありたいと願い、個体の類のレベルでもそう願うことで、その方向にDNAが変化して、進化する。鳥は飛びたいと願って空を飛ぶようになり、鯨は海で生活したいと願って、海を自由に潜れるように進化したのであると、現代の科学は教えていると聞いたことがある。今の人間もDNAはそのように変化していると。つまり進化は目的があって、そこに到達してきた連続なのだ。人間は正に二本足で歩いて平地で暮らしたいと願い、そう進化し、さらに効率的に得るものを得たいと願って道具を手にして、工夫したはずなのだ。こんな所にも学生側の議論の勝手な独善があるように見受けた。
本文の議論で、超越時間なるものの観念が登場する。これも分かり難い。時間はそもそもあらゆるものを超越して独立して進行するものだからだ。それに今更、“超越”を付け加える意味があるのだろうか。良くわからないが、相対性理論では時間と空間に互いに影響しあう部分があるように聞くが、ここでの議論はそのレベルの話でもあるまい。
こうした生硬な議論をした御本人達は、今そうした議論をどう考えるのだろうか。最近制作の映画では、そこまでの言及はない。
ネットに次のような議論が掲載されていた。映画の終わりにも同じような指摘があったように思う。
“戦後右翼の思想の根幹は反共、愛国、そして親米だった。だが、三島の思想は「戦後右翼」のそれとはまるで違う。三島にとっての敵は「経済繁栄にうつつを抜かし堕落してしまった日本」そのものだった。ヤルタポツダム体制によって去勢され、米国の属国になった日本、魂を失った日本人こそが、三島や楯の会の学生たちの怒りの標的だった。その思想の根底には、左翼学生との共通項すら見いだせるのである。”
これはズバリ日本の真相を突いている。そして映画では、芥氏に“あなた方三島との共通の敵は何だったのでしょうか”と聞いている。その答えは“曖昧で猥雑な日本”であった。私には“猥雑”と聞こえたが、ネットでは“猥褻”と表現しているのが多い。これは、三島が好んで“エロティック”と言う言葉を援用した影響による歪曲ではないだろうか。芥氏は、本当はどう言ったのだろうか。だが、その“曖昧で猥雑な日本”の不健全は、今も連綿として強固に継続している。そのままで良いのだろうか。
映画監督は芥氏に結構怒鳴られたようだ。しかし、この映画を見た芥氏は“これで、三島も本当に弔われた、と感じた。”という意味の言葉をすがすがしい顔で言っている。何だかなぁ~この辺も嘘くさい。
ところで三島は本の“討論を終えて”で“革新”について、次のように言っている。
“私の考へる革新とは、徹底的な論理性を政治に対して厳しく要求すると共に、一方、民族的心性(ゲミュート)の非論理性非合理性は文化の母胎であるから、(三派諸君も、意識的にか無意識的にか、この恩恵を蒙ってゐることは明らかである)、この非論理性非合理性の源泉を、天皇制に集中することであった。かくて、国家におけるロゴスとエトスははっきり両分され、後者すなはち文化的概念としての天皇が、革新の原理になるのであるが、さらに一つ告白をすると、このパネル・ディスカッションを通じて、私は、私の戦闘原理としての天皇を彼らの前に提示したかったのであった。”
木村氏もまた映画で、三島に討論参加のお礼を電話でした時のことを紹介している。そして、三島は木村氏に“楯の会への加入を要請してきた”というのだ。きちんとして、頭のよい木村氏なので三島のお眼鏡に叶ったのであろう。言い訳をしながら言葉を濁したら、“そばに誰か居るのか”と聞かれて、“ガールフレンドの家です”と言ったら、“替わってくれ”と言われて、電話を彼女に替わったのだという。そのガールフレンドは木村氏の今の奥さんだというが、三島とどういう会話だったか明かされないまま今日に至ったが、実は三島から奥さんに“彼を愛しているか”と聞いて来たと最近知ったと言っている。三島の細やかな心遣いが分かる話だ。
とはいうものの、真面目な木村氏は、今もなお“三島由紀夫”を研究しているとのことのようだ。
結局のところ、これらイベントは三島のスター性を補強・強化しているものに外ならない。生硬で暴力的な学生の議論の中心に、単身で乗り込んで、そこに“天皇”を介在させて、立派に大人として堂々退去した。仕掛けたのは全共闘であったが、注目されたのはあくまでも“三島由紀夫”だったのだ。この討論の内容をどんなに精査したところで、三島の論が注目されこそすれ、学生側の論にはそれほどの意義は見出せないのではないか。
しかし、こうした二二六事件の将校達にも比肩されうる全共闘の活動は未熟ではあったが、両者共にエネルギーに満ちていた。だがいずれも圧殺され、それが逆にその後の国家的不幸の源になったような気がする。圧殺されてもなお立ち上がるという、そんなエネルギーが現代の若者に感じられないのが寂しくもあり、悲しくもある現実だ。どうしようもなく“曖昧で猥雑な日本”のまま、この国は消滅するのだろうか。そこに我々世代の罪があるのか、よく分からない。だがエネルギーと緊張に満ちた戦国時代もあり、明治維新もあったこの国が簡単に滅びるとは考え難い気もする。そして現代の若者の不活性が何を意味するのか。それが衰退する国、民族の要因ではないことを祈るばかりなのだ。神頼みではどうしようもないことは承知の上なのだが・・・。
菅氏の人事、もしかして“♪アッと驚くタメゴロ~ッ!”になるのではないか、と私は見る。早くも派閥領袖間で鞘当てが始まっているが、恐らく“挙党一致、派閥無視”ではないかと、推測する。菅氏の発言、“私は派閥に推された訳ではありません。”、“私は無派閥です。” 恐らく玉手箱を開けて泡を食うのは、派閥領袖。菅氏はこの時のために、無派閥で居続けたのではないかと勘繰りたくなるくらいだ。何せ地元の応援者に“政治家になったら首相にならねば!”と1度言ったことがあるという。虎視眈々、これまでこの時が来るのを待っていた。それも自ら手を挙げて、のことではない情勢を作り上げてのことだ。
“挙党一致”となれば、現在の党幹事長留任、石破氏へは重要ポスト割り当て(本人の希望を聞くかもしれない)。その他の派閥領袖は無冠とし、むしろ同派内の若い有能人物を人選。勿論、岸田氏も無冠。とにかく、党内若手有力人物を起用。小泉内閣以来、これで一気に支持率を上げて、勢いに乗って即座に解散総選挙へ。これに大勝して、来年の総裁選では当然のごとく盤石、無風で恒久政権樹立、となるだろうか。
何せ、野党主力の旧民主党がヨタヨタ、野合の真っ最中のモタモタ。話題にすらならない。4日の朝日新聞の電話世論調査結果でも“政党支持率は自民40(30)▽立憲3(5)▽国民1(1)▽公明2(3)▽共産3(2)▽維新1(2)▽支持政党なし41(47)[丸括弧内は7月18,19日調査結果]”となり、立憲民主は前回支持率の5から3%へ低下。逆に自民は30から40%へ上昇している。
菅氏は苦労人ということだが、売りはそれだけか。世間は苦労人が何故か好きだ。だが“苦労人”を売りにする人物で立派な人を見たことがないような気がするが、どうだろうか。その看板で悪事を働く、そんな人を見たことはある。
安倍政権の“偉大な遺産”を引き継ぐとは、その利権も引き継ぐということだろう。だから、派閥の大半が分け前に乗るべくベットしたのだ。看板の架け替えで新しいかのように見せ、内実はそのまま。
何よりも不安要素は広島の選挙違反事件だ。これにどれほど深く関与していたか。検察がどこまで、それを暴いて行くのか。何せ安倍氏はその不安で政権を再び投げ出したのだ。菅氏は安倍氏の背中を見て、ついて行っただけなのだろうか。
もう一つの大きな不安要素は外交、防衛。基軸の対米、対中が不明。
対中も、彼の国の国内情勢が不透明。新型ウィルスと洪水と、対米外交の失敗で食糧不測と大不況ではないかと、疑われる。
この中国国内の問題、困難はやがて政権延命のために、外部へのエネルギー放出となって、日本に及ぶことが大いに懸念される。具体的には、日本には東シナ海の尖閣問題であり、東南アジア諸国には南シナ海島嶼の領有権問題である。
尖閣には9月中旬以降大型漁船を侵入させ、それを中国海警が取り締まるという自作自演を行い、尖閣の“日本の主張する領海”で“中国の法を執行した”と国際社会に向かって公言する可能性は大である。そこで日本側がそのような身勝手を阻止しようとして、実力行使した場合に不測の衝突が起きる可能性は大きい。
米海軍が日本側に加担してくれれば、そしてそのような事態を懸念して中国側が自制してくれれば、軍事衝突への進展は少ないものと考えられるが、むしろその可能性は小さいと見るべきであろう。とにかく、中国側は夜郎自大に陥っている可能性は大きい。だから近年、習政権全体が自己評価を見誤って、米国に立てついてしまい引っ込みがつかなくなったのではないか。特に、若い士官にはその傾向が強いと考えるべきで、英雄気取りで冒険的行動に出る可能性は高いだろう。
兎に角、中国側が自作自演を強行すると決意すれば、日中間の軍事衝突へ進展し、それが米中衝突へと変化することは確実と考えるべきだろう。
これは、菅政権発足前に起きる可能性もあり、喫緊の課題であることは間違いない。中国側の自作自演に対し、日本側がどのようなシナリオを持っているのか、それが米軍側と共有されているのか、一般人には明かされない極秘事項であることは間違いない。また現状は極めて緊張するべき局面である、と私は推測している。
少なくとも、従来政権よりアホアホの度合いは薄くなるような気がするが、期待通りとなるか、どうか。
さて、今回は“討論 三島由紀夫vs.東大全共闘”の映画を見て、その文庫本を読んで“くたびれた結果”を報告したい。
映画は正確には“三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実”の表題であり、角川文庫本は“討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争”が正式名称である。表題が若干異なるが、内容は同じものを取り上げている。映画は、討論当時のTBSチームが終始撮影したものを最近部分的に採用して関係者のインタビューを追加してこの春リリースされたものだが、本は討論開催の1969年(昭和44年)6月25日に新潮社より単行本が刊行され、それを再び2000年(平成12年)7月に文庫本として再刊行したもの、という。
兎に角、三島由紀夫も東大全共闘も私には謎が多いので、この映画には興味があった。この春先に公開されていたのは知ってはいたが、新型ウィルス感染に自粛していたため、見に行くのを先延ばししていたが、8月下旬にふと気付いて調べてみると、案の定、上映館が少なくなっており、慌ててわずかに上映していた映画館をネットで見つけて赴いた訳だ。
その映画館は十三に在った。映画は見るには見ても、恐らく記憶が次第に曖昧になるのは必定と、見る直前に梅田の書店で討論全記録の本を購入した次第だ。観客はやはり、高齢者が多い印象だった。
今回、見て、読んで、その謎解きに少しでも近付きたい欲求を果たすには、結構有効であったような気がする。
三島由紀夫と東大全共闘との討論会。それは東大全共闘主催の大学祭“東大焚祭”の一イベントとして開催された。Wikipediaによれば “「伝説の討論」として語り継がれている貴重な討論会である。1969年(昭和44年)5月13日の火曜日の午後2時頃より、東京大学教養学部900番教室の会場に集まった約一千人の学生と約2時間半にわたって討論が行われた”とある。
ここで、東大全共闘の背景とその時代の流れの概要を参考のために私なりに理解している範囲で説明したい。細部では事実誤認があるかも知れないが、大まかな流れとしては間違っていないはずだ。
まず“全共闘”とは、全学共闘会議の略で日本共産党の指導する民主青年同盟(民青)に反対する3つの政治セクト*1による三派全学連とセクトに属さない急進的思想の個人(ノンセクト・ラジカル)の連合体のこと。いわば日本共産党反対勢力の拠点であった。
当時特に東大では、1968年から医学部処分問題とそれに関連した民主化問題があり、教授会等への闘争が元々先鋭化していた。一方ではベトナム戦争への反対を現実の日常問題と捉え、1970年の安保条約改定を前にして反米的思想や政治姿勢が、盛り上がっていた。国際的な世代的反抗の学生運動の盛り上がり*2もあって、当時の先進各国では学生運動が活発化していた。そのような中で、全共闘が自然発生的に結成され、東大ではノンセクト個人の参加が多かったと仄聞している。
同様に大学の大衆化に乗った日大でも大学当局の不正経営問題があり、全共闘が結成されていた。当時、日大のトップは総長や学長ではなく“会頭”と呼ばれており、一般にも儲け主義の“怪盗”かと呆れられていて、周囲の大人からも学生への同情が集まっていた、ようだ。しかし、大学側が機動隊を導入して完全敗北。結果、その病根は残り、近年のアメフト部事件の遠因となったと見られる。この病理は未だ完治しておらず、症状再発の可能性は高い、と私は見ている。
これ以外にも1968年には、全国の国公立、私立大学で学生紛争、闘争があり、“学問の自由”を保証する大学の自治を巡って、一旦警察力導入が忌避されたが、東大安田講堂落城後は、全国の大学で入試実施や正常化を名目にして、各都道府県警察機動隊の導入が相次いだ。
*1)革命的共産主義者同盟全国委員会つまり中核派と、社会主義学生同盟と、社会党の青年組織から生まれた日本社会主義青年同盟の急進派である解放派(青解、後に反帝国主義学生評議会:反帝学評)の3派。三島も討論の中で“三派全学連”という表現を使っている。又、反日共の政治活動と見做した民青の妨害行為があり、討論開催場所を示すポスターなどが全て廃棄されて、東大卒業生の三島も会場まで道に迷ったとこの中で言っている。
ついでながら、当時の政権反対党の社会党や共産党も体制を補完する勢力と見做され、憎悪の対象であった。特に共産党の指導下にあった民青への反感は根強く、“反帝、反スタ”のスローガンへの共感は一般的であった。それは反帝国主義(反米)であり、スターリン主義という既成ソヴィエト体制の社会帝国主義への反発(反スタ)であり、当時ソ連のチェコ・プラハへの軍事弾圧に対する国際的反感も強くあった。ベトナムに平和を市民連合(べ平連)は党派に属さない人々のこうした気分を強く反映している。
ここでは触れられていないが雑に言えば、反日共という点でも三島と全共闘の一致点はあった。
*2)カミュの“われ反抗す、ゆえにわれら在り”の言葉に代表される世代的反体制運動の盛り上がりがあった。パリ五月革命でのカルチエ・ラタンQuartier latin解放区が有名。米国でもジョーン・バエズ等のプロテスト・ソングが流行し、ベトナム反戦を軸に反体制運動が隆盛し先鋭化した。日本では反戦フォークソングが流行。
若干、背景説明が長くなったが、社会情勢は結構複雑でこれでも語り切れていない。多くの事件・事象があり、ある種、混乱があった。特に、東大では本郷キャンパスの破壊が甚だしくて、この年の入試が中止された。そのため、本来は東大受験する予定者が他の国立大学に流れて、それに押し出される受験生も大勢いた。
この討論はそうした本郷キャンパス安田講堂落城後の余燼冷めやらない混乱の中、駒場キャンパスの全共闘が“焚祭”と称して大学祭を開催した中のイベントだった。実は私も、これが安田講堂落城後のイベントだったとは、今回見て、読んで、はじめて知った次第だ。落城前の全共闘盛況時のアトラクションと誤解していたのだ。
ついでに、その後のことを書いておこう。東大の状況推移の詳細は知らないが、全般的にはほぼ1年弱程度で全国各大学の“正常化”は進展し、完了する。ノンポリは勿論ノンセクトの大半は、正常化に飲み込まれていく。大衆が混乱に飽きたと言って良い心理だった。
その間、反体制学生運動を主導したセクトは四分五裂し、民青とのゲバルト(暴力闘争)より内ゲバという反日共系内での暴力闘争が激化したのだった。その終極点が連合赤軍事件であり、浅間山荘事件であった。この事件の衝撃でその後、反体制学生運動は、ほぼ消滅し、学生は羊の群れとなり、世の中はバブルへ突入して行ったのだ。
一方、三島は70年安保闘争も大過なく終了した翌年の秋、当時の陸自東部方面総監室で割腹自殺をすることになる。
“暴力を否定しなかった”者達の最期は、所詮、こんなものなのだろうか、という“あはれ”の感覚に浸る。
私は、当時の反体制派の学生が“暴力を否定せず、むしろ積極的に展開する傾向”に基本的な、殆ど肉体的嫌悪感があり、気分では反体制に共感しながらも、日常を拒否できずに体制に巻き込まれることを選択せざるを得なかった。浅間山荘事件以後、その衝撃を受けて、それをベ平連代表の小田実が確か“日常に巻き込まれずに、日常の中で逆に巻き込んで行こう”と本で言っていたように記憶するが、そうはならず、又、出来なかった。そして今日までそのまま生きてきた。
だからこそ、全共闘をはじめ反体制派は“日常を拒否し、時間と空間を断絶して「現在」に生きよ”と叫んでいたのだろう。しかし、“命あっての物種”、三島のように死んでしまっては、否、全共闘のように滅んでしまって引き継ぐものが居なければ意味がないではないか。そこにある謎や問題が討論を再現・検証してみることで、解けるのか、というところだ。
この暴力について、三島も当時繰り返し“私は無原則、無前提に否定するものではない。”と公言していた。しかし、この本の“討論を終えて”で三島は慎重な言い回しで次のように結論している。(この“討論を終えて”は映画にはなく、関係者や関係ない人のインタビューがある。)
“私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であろうとする考へを好まない。この考へ方は、責任感を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となって、世人の憎悪の的となることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないからである。自分がいつも正しいといふのは女の論理ではあるまいか。”
性差別的ではあり、旧仮名遣いであるが、内容はある種厳しい自己抑制があるので、安心したのだが、こうした多くの人の安心が1年後に覆されたのだ。ところで、悪鬼羅刹となって力を行使して変革が成功した事例は歴史上あるというのだろうか。生きていれば、三島に聞いてみたいものだ、とは言うが、生きていればそんな度胸はない。
この事例のように、三島の言論は結構分かり易い。さすがに超一流小説家である。生来の天才に加え、長年の作家活動で磨いた表現力の賜物なのだろう。
しかし、学生の主張は観念的で、独自の概念でありながら、その規定の説明もないまま議論を進めるので、実に分かり辛い。観念自体も全て理解できていないが、生硬な印象だ。だから、この本を読んで“くたびれた”のだ。こうしたくたびれる部分は映画では多くが、カットされている。だから映画では議論の筋道は分かり難い。ただ、討論の雰囲気が分かるだけだ。
だが、この私もこういう感想を持つのは年齢のせいなのだろうか。まぁ、この程度の理解力は持ち合わせるまでにはなったかなぁの感想を抱いている。
しかしこの困難をものともせず、三島は挑まれた議論を巧みに部分的にいなしながらも、論旨を大きく破綻させずに、丁寧に推し進めている。さすがの天才で、何とか討論は成立させたのだ。しかし、この本の“討論を終えて”で三島もさすがに、次のように告白している。
“了解不可能な質問と砂漠のやうな観念語の羅列の中でだんだんに募ってくる神経的な疲労は、神経も肉体の一部であるとするならば、その神経と肉体のかかはり合ひが、これを絨毯の上の静かなディスカッションにとどめしめず、ある別な次元の闘ひへ人を連れてゆくといふ経験も与えてくれた。”
この本で、全共闘側の発言者は、全共闘A,B,~Gというように匿名になっている。初版が刊行された時、彼らは未だ学生か世の中に出たばかりなので、そうしたのであろう。三島もそれを承知して刊行に応じたのであろう。だが、今やAとCはネットでは明らかになっている。
全共闘Aは、木村 修 氏で、東大焚祭委員会の主催者。討論会のため、三島に直接連絡を取った。討論当日、学生服で司会をしていた。東大農学部農業工学科卒業後、地方公務員となる。
全共闘Cは、芥 正彦 氏で、俳優、劇作家、演出家。劇団ホモフィクタス主宰者。本名、斎藤正彦。
これはあくまでも私の印象だが、全共闘Aは居住まいも学生服を着、髪もきちんと分けて整髪しているが、全共闘Cはかなりいい加減。それでもAはCの活動の展開力に敬服していたようだ。
全共闘AとCは本の終わりに、“討論を終えて”を三島と同様に寄稿している。全共闘Aの議論は短いが理解可能だ。全共闘Cは本文の議論同様に分かり難い。だが、Aは議論の行方をきちんとフォローできているので、Cのことも分かっているのだろう。
Aの議論で、生き方(或いは“行き方”?)に目的を設定した途端に、自由から疎外され抑圧され、限定されるというような意味を述べている。“そもそも人類が道具を使い、文明を発するようになった契機は、過去はかくある必然であり、それに従え、というものだったろうか。そうではあるまい。偶然で、二本足で歩き、偶然で道具を用いたのであろう。”と言っている。
私はそうは考えない。三島も目的の設定は重要だとの議論を本文でしているが、結局平行線に終わっている。生物の進化の過程は、個体が所与の環境条件の中で、こうありたいと願い、個体の類のレベルでもそう願うことで、その方向にDNAが変化して、進化する。鳥は飛びたいと願って空を飛ぶようになり、鯨は海で生活したいと願って、海を自由に潜れるように進化したのであると、現代の科学は教えていると聞いたことがある。今の人間もDNAはそのように変化していると。つまり進化は目的があって、そこに到達してきた連続なのだ。人間は正に二本足で歩いて平地で暮らしたいと願い、そう進化し、さらに効率的に得るものを得たいと願って道具を手にして、工夫したはずなのだ。こんな所にも学生側の議論の勝手な独善があるように見受けた。
本文の議論で、超越時間なるものの観念が登場する。これも分かり難い。時間はそもそもあらゆるものを超越して独立して進行するものだからだ。それに今更、“超越”を付け加える意味があるのだろうか。良くわからないが、相対性理論では時間と空間に互いに影響しあう部分があるように聞くが、ここでの議論はそのレベルの話でもあるまい。
こうした生硬な議論をした御本人達は、今そうした議論をどう考えるのだろうか。最近制作の映画では、そこまでの言及はない。
ネットに次のような議論が掲載されていた。映画の終わりにも同じような指摘があったように思う。
“戦後右翼の思想の根幹は反共、愛国、そして親米だった。だが、三島の思想は「戦後右翼」のそれとはまるで違う。三島にとっての敵は「経済繁栄にうつつを抜かし堕落してしまった日本」そのものだった。ヤルタポツダム体制によって去勢され、米国の属国になった日本、魂を失った日本人こそが、三島や楯の会の学生たちの怒りの標的だった。その思想の根底には、左翼学生との共通項すら見いだせるのである。”
これはズバリ日本の真相を突いている。そして映画では、芥氏に“あなた方三島との共通の敵は何だったのでしょうか”と聞いている。その答えは“曖昧で猥雑な日本”であった。私には“猥雑”と聞こえたが、ネットでは“猥褻”と表現しているのが多い。これは、三島が好んで“エロティック”と言う言葉を援用した影響による歪曲ではないだろうか。芥氏は、本当はどう言ったのだろうか。だが、その“曖昧で猥雑な日本”の不健全は、今も連綿として強固に継続している。そのままで良いのだろうか。
映画監督は芥氏に結構怒鳴られたようだ。しかし、この映画を見た芥氏は“これで、三島も本当に弔われた、と感じた。”という意味の言葉をすがすがしい顔で言っている。何だかなぁ~この辺も嘘くさい。
ところで三島は本の“討論を終えて”で“革新”について、次のように言っている。
“私の考へる革新とは、徹底的な論理性を政治に対して厳しく要求すると共に、一方、民族的心性(ゲミュート)の非論理性非合理性は文化の母胎であるから、(三派諸君も、意識的にか無意識的にか、この恩恵を蒙ってゐることは明らかである)、この非論理性非合理性の源泉を、天皇制に集中することであった。かくて、国家におけるロゴスとエトスははっきり両分され、後者すなはち文化的概念としての天皇が、革新の原理になるのであるが、さらに一つ告白をすると、このパネル・ディスカッションを通じて、私は、私の戦闘原理としての天皇を彼らの前に提示したかったのであった。”
木村氏もまた映画で、三島に討論参加のお礼を電話でした時のことを紹介している。そして、三島は木村氏に“楯の会への加入を要請してきた”というのだ。きちんとして、頭のよい木村氏なので三島のお眼鏡に叶ったのであろう。言い訳をしながら言葉を濁したら、“そばに誰か居るのか”と聞かれて、“ガールフレンドの家です”と言ったら、“替わってくれ”と言われて、電話を彼女に替わったのだという。そのガールフレンドは木村氏の今の奥さんだというが、三島とどういう会話だったか明かされないまま今日に至ったが、実は三島から奥さんに“彼を愛しているか”と聞いて来たと最近知ったと言っている。三島の細やかな心遣いが分かる話だ。
とはいうものの、真面目な木村氏は、今もなお“三島由紀夫”を研究しているとのことのようだ。
結局のところ、これらイベントは三島のスター性を補強・強化しているものに外ならない。生硬で暴力的な学生の議論の中心に、単身で乗り込んで、そこに“天皇”を介在させて、立派に大人として堂々退去した。仕掛けたのは全共闘であったが、注目されたのはあくまでも“三島由紀夫”だったのだ。この討論の内容をどんなに精査したところで、三島の論が注目されこそすれ、学生側の論にはそれほどの意義は見出せないのではないか。
しかし、こうした二二六事件の将校達にも比肩されうる全共闘の活動は未熟ではあったが、両者共にエネルギーに満ちていた。だがいずれも圧殺され、それが逆にその後の国家的不幸の源になったような気がする。圧殺されてもなお立ち上がるという、そんなエネルギーが現代の若者に感じられないのが寂しくもあり、悲しくもある現実だ。どうしようもなく“曖昧で猥雑な日本”のまま、この国は消滅するのだろうか。そこに我々世代の罪があるのか、よく分からない。だがエネルギーと緊張に満ちた戦国時代もあり、明治維新もあったこの国が簡単に滅びるとは考え難い気もする。そして現代の若者の不活性が何を意味するのか。それが衰退する国、民族の要因ではないことを祈るばかりなのだ。神頼みではどうしようもないことは承知の上なのだが・・・。
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