The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
日本における立法と“法の精神”について
最近、後期高齢者保険や裁判員制度が話題になっている。しかし、これらは 既に 法として成立しているものだ。
法案が成立して 施行段階に入って初めて問題点が浮き彫りにされて、議論が巻き起こっている。しかも、どちらも日本の将来を大きく変える非常に重要な法律だ。
こんなことが 起きるのは正常な立法運営とは言えない。法案が 成立する過程で しっかり論議を尽くしていなかったことの証左だ。これこそ、時間とカネの無駄遣いで、そんな国家規模でのタイミング・ロスは 非常に大きな問題だ。
この点、日本の立法過程に何か重大な欠陥があることを想像させる。国会や政治家・政界、それを取り巻く報道は何をしていたのか。根本的に機能不全に陥っているのではないかと思う。
しかし、政治家は主権者たる国民が選挙した結果であるし、報道についても その水準は国民意識の反映だ、という。売れる記事しか報道の対象にならないのだという。特に、今の報道機関は 売れる情報なら何でも流すが、売れない情報は報道しない。ひどい場合は、勝手に“売れない”と判断された情報は 流そうとしない。啓蒙的な報道より、よりミーハー的報道が選好される。こんなことで良いのだろうか。
日本国民は 立法過程に本質的に興味や関心が持てないのだろうか。
後期高齢者保険を規定する法案については 2年前に 審議委員会で強行採決して成立したものだった。当時の公明党坂口厚労大臣の緊張しきった表情と、なんとなく余裕のある小泉首相の表情が 非常に対照的であったのを鮮明に記憶している。この時は 法案内容より、強行採決自体を問題視している報道ばかりだった。
裁判員制度を規定した法案にいたっては、いつどのようにして可決したのか すら 知らなかった。この制度の真の狙いは何なのだろう。裁判員制度を問題なく運営できるほど、日本の一般人が成熟した市民意識を持っているとは思えない。
日本人は 近代法とその歴史的背景など その精神や考え方に ほとんど興味を持っていないのではないだろうか。
目指すべき社会正義を実現するために 社会制度の規定とその運営のために立法するのが本来の姿だ。その背景には ある価値観に裏付けられた法理論が存在しなければならない。ところが、この“目指すべき社会正義”や“法理論を裏付ける価値観”が 現在の日本では あいまいなままなのではないのか。そのために、過去の制度や法体系を少々手直しするパッチ・ワークのような法の制・改訂ばかりになっていないだろうか。
その法の精神や哲学より、条文の記憶のみで 法曹関係の資格を取得し、法務事業がなされているのではないだろうか。法の精神が 脇に追いやられた結果、条文の規定の網をかいくぐりさえすれば あとは何をやっても問題ない、そんな気分が世の中に横溢していないだろうか。
哲学が無く、遠くの将来を見据える眼で大局を見ず、目先のことに小手先で障害をかわすことばかりに日本全体がやっきになっているような気がする。それが 国会の機能不全の真の原因になっているような気がしてならない。
先日 あるテレビ番組で、国家賠償請求の裁判が 機能不全になっていることを報道していた。そこでは、裁判員制度も 刑事事件から適用するのではなくて、国家賠償請求の裁判からこそ、適用するべきだと主張していた。それは納得できる意見だと思う。しかし、私は もっと広く行政訴訟全てを優先的に、裁判員制度の適用するべきだと考えている。そうすることこそ、主権者国民の利益になることであり、近代法の概念に国民がなじむきっかけになることだと思うのだ。
刑事事件からの裁判員制度の適用は “暗愚な民に 罪に落ちた民を裁かさせる”、いわば自業自得にさせようとしているかのようであり、何やら蚊帳の外にいる官僚達の思惑に振り回されているのではないかとさえ疑う次第である。
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法案が成立して 施行段階に入って初めて問題点が浮き彫りにされて、議論が巻き起こっている。しかも、どちらも日本の将来を大きく変える非常に重要な法律だ。
こんなことが 起きるのは正常な立法運営とは言えない。法案が 成立する過程で しっかり論議を尽くしていなかったことの証左だ。これこそ、時間とカネの無駄遣いで、そんな国家規模でのタイミング・ロスは 非常に大きな問題だ。
この点、日本の立法過程に何か重大な欠陥があることを想像させる。国会や政治家・政界、それを取り巻く報道は何をしていたのか。根本的に機能不全に陥っているのではないかと思う。
しかし、政治家は主権者たる国民が選挙した結果であるし、報道についても その水準は国民意識の反映だ、という。売れる記事しか報道の対象にならないのだという。特に、今の報道機関は 売れる情報なら何でも流すが、売れない情報は報道しない。ひどい場合は、勝手に“売れない”と判断された情報は 流そうとしない。啓蒙的な報道より、よりミーハー的報道が選好される。こんなことで良いのだろうか。
日本国民は 立法過程に本質的に興味や関心が持てないのだろうか。
後期高齢者保険を規定する法案については 2年前に 審議委員会で強行採決して成立したものだった。当時の公明党坂口厚労大臣の緊張しきった表情と、なんとなく余裕のある小泉首相の表情が 非常に対照的であったのを鮮明に記憶している。この時は 法案内容より、強行採決自体を問題視している報道ばかりだった。
裁判員制度を規定した法案にいたっては、いつどのようにして可決したのか すら 知らなかった。この制度の真の狙いは何なのだろう。裁判員制度を問題なく運営できるほど、日本の一般人が成熟した市民意識を持っているとは思えない。
日本人は 近代法とその歴史的背景など その精神や考え方に ほとんど興味を持っていないのではないだろうか。
目指すべき社会正義を実現するために 社会制度の規定とその運営のために立法するのが本来の姿だ。その背景には ある価値観に裏付けられた法理論が存在しなければならない。ところが、この“目指すべき社会正義”や“法理論を裏付ける価値観”が 現在の日本では あいまいなままなのではないのか。そのために、過去の制度や法体系を少々手直しするパッチ・ワークのような法の制・改訂ばかりになっていないだろうか。
その法の精神や哲学より、条文の記憶のみで 法曹関係の資格を取得し、法務事業がなされているのではないだろうか。法の精神が 脇に追いやられた結果、条文の規定の網をかいくぐりさえすれば あとは何をやっても問題ない、そんな気分が世の中に横溢していないだろうか。
哲学が無く、遠くの将来を見据える眼で大局を見ず、目先のことに小手先で障害をかわすことばかりに日本全体がやっきになっているような気がする。それが 国会の機能不全の真の原因になっているような気がしてならない。
先日 あるテレビ番組で、国家賠償請求の裁判が 機能不全になっていることを報道していた。そこでは、裁判員制度も 刑事事件から適用するのではなくて、国家賠償請求の裁判からこそ、適用するべきだと主張していた。それは納得できる意見だと思う。しかし、私は もっと広く行政訴訟全てを優先的に、裁判員制度の適用するべきだと考えている。そうすることこそ、主権者国民の利益になることであり、近代法の概念に国民がなじむきっかけになることだと思うのだ。
刑事事件からの裁判員制度の適用は “暗愚な民に 罪に落ちた民を裁かさせる”、いわば自業自得にさせようとしているかのようであり、何やら蚊帳の外にいる官僚達の思惑に振り回されているのではないかとさえ疑う次第である。
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