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大河ドラマ“坂の上の雲”を見終わって後の余韻

前回“年末より、私の思考を捕らえているものがいくつかある。”と言っていたが、今回はその内のもう1つを紹介したい。それは 昨年末に とうとう終わってしまったNHK歴史大河ドラマ“坂の上の雲”に絡んだものだ。このドラマは3年前の年末にスタートし、ここ3年の各年の年末1ヶ月間だけ週末に放映して来た。そして、そのラスト・シーンは感動的場面で終わるとの振れ込みであった。しかし、終わってみると何が感動的シーンだったのか、拍子抜けの正に画竜点睛を欠く残念な終わり方だったように感じた。
このドラマで感動的ラストと言えば、先ず、乃木将軍の死を取り上げるのかと思ったのだが、それではあまりにも時代錯誤的要素が強烈である。しかも、このドラマの主人公は秋山兄弟と子規であり、そのラストが乃木となると支離滅裂になる。そして、その内の子規は既に亡くなっているので、秋山兄弟の最期に触れなければならず、実際 ドラマはそのように展開された。真之は 戦争で燃え尽きたように51歳で亡くなり、ドラマではそれをナレーションで終わらせた。兄・好古は、晩年を故郷の松山の中学校長になったシーンを紹介し、天寿全うの永眠シーンであっさり終わってしまった。
このドラマは もう1,2回 回数を増やして、もう少し日本海海戦の後日談や、日露戦争全体の終戦談の紹介があった方が良かったのではないか。そしてそういう後日談の中で感動的なエピソードを取り上げてラストとするべきであったのではないか、と思った次第であった。

さて、このドラマで気懸りだったのは、先にも触れた乃木将軍の扱いである。と言うのは原作の“坂の上の雲”では、乃木将軍とその幕僚が相当酷い扱いで表現されていた。つまり彼らは無能であったという解釈で書かれており、ドラマでもそれをそのまま再現するのだろうかという点であった。しかし、このドラマでは さすがにどぎつく扱うことはなく、その懸念は杞憂だった。だが、満州軍総参謀長・児玉源太郎が乃木軍伊地知参謀を皮肉たっぷりに怒鳴りつけたり、乃木自身に“爺さん”などと見下した呼びかけをするようなシーンを設けてはいたので、そうすることで、巧みに原作の気分を多少醸し出したつもりだったのだろう。

私が原作の“坂の上の雲”を読んだのは、かなり昔だったが、司馬氏ならば 相当史料を読み込んだ上での彼なりの結論を得た上での、非常に客観的な解釈なのだろうと思っていた。だから乃木将軍とは その程度の人物であったのか、またその幕僚にも酷い人物が居たものだと思っていた。
しかし、それから かなり経って数年前 “「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった”(以下、“旅順攻防戦”)という本が出て、司馬氏の解釈は 少しおかしいのではないかという雰囲気が世の中に漂って来た。そして、私もその本を買って読もうとしたのだが、内容が相当マニアックな印象があり、そのままツンドクとして書棚の奥にしまっていた。だがその一方では、かつてこのブログでも紹介したように、私にとって読みやすい乃木将軍の全体像を理解できそうな本を読んだりはしてはいた。

そして、このNHKドラマを見ていたのだが、その終わり方の不自然さが、この乃木将軍への評価の消化不良から来ているのではないかとの思いから、果たして原作の司馬氏の解釈が 正しいのか、間違っているのか気懸りとなり、この際 ツンドクしていた “旅順攻防戦”を取り出して読んでみようとしたのが、この正月休みでの読書だった。
実際には、それを読む前に、同じ著者・別宮暖朗氏の“日露戦争陸戦の研究”を読み、“旅順攻防戦”を読んだ後、柘植久慶氏の“あの頃日本は強かった―日露戦争100年”を読んだ。さらに その後、文春新書の“徹底検証 日清・日露戦争”の日露戦争の部分を拾い読みした。そして最後にダメ押しのように司馬の乃木観を書いた“殉死”を読んだ。こうして読んだ本の位置づけは次の通りである。
①別宮暖朗著 “日露戦争陸戦の研究”:旅順攻囲戦は陸軍の戦争であり、日露戦の陸戦全体像を把握した上で旅順攻囲戦の位置付けを把握しようとした。
②別宮暖朗著 “旅順攻防戦”:どのように具体的に司馬遼太郎氏を批判しているのかを知りたかった。
③柘植久慶著 “あの頃日本は強かった”:日露戦争への一般的日本人の持っていると思われるイメージの確認(司馬氏のイメージと多くが重なる。)
④対談 “徹底検証 日清・日露戦争”:最近の複数の近代史専門家の旅順攻囲戦と乃木将軍へのイメージの確認←対談のメンバー:半藤一利、秦 郁彦、原 剛、松本健一、戸一成
⑤司馬遼太郎著 “殉死”:乃木将軍の殉死にいたる背景を書いている。どこまでが創作なのか、“史実”なのかよく分からない小説と言うより著作という印象。別宮暖朗氏が“旅順攻防戦”で“坂の上の雲”同様 司馬批判の対象とした。

さて、余計なことだが日露戦争に対する一般的イメージは 少々奇妙なものになっている。というのは、日露戦争は、私も含めて実際に人々の印象にあるのは、陸では旅順の203高地争奪戦であるし、海では日本海海戦である。そして、“坂の上の雲”のクライマックスは、まさしくその日本海海戦であった。小説では子規も、好古の騎兵隊の活躍も 日本海海戦への導入部であり、いわば脇役であった。しかし、日露戦争とは 実は中国東北地域(旧満州)と朝鮮半島での日露権益の確保争いであるから、そのメイン・ステージは あくまでも陸戦であり、具体的には遼陽会戦であり、奉天会戦であった。旅順攻囲戦は、陸戦でも本筋ではなくローカル戦であり、日本海海戦は 大平原での野戦である遼陽会戦や奉天会戦での勝利を確保するための後方安全や兵站確保のための補助的な戦いであった。それにもかかわらず、あたかもこの二つの戦いが世界史を回転させたかのように語られるのである。補助的要素が、その本質であったかのように語られていることは不思議な現象である。

閑話休題。その枝葉ではあっても、注目を浴びている旅順攻囲戦をめぐって、日本軍将兵の死傷者数が甚大であったためから、その作戦を指揮した乃木将軍の資質を問う議論があり、司馬氏も含め多くは将軍を“無能”と断定している。私も幼い頃 そのような話を聞いたような気がするし、柘植氏の著作③でも乃木将軍について いきなり“無能”という形容詞が登場し、しかも繰り返しのため不快感すら催してしまう。柘植氏は そう断定した理由を次のように指摘している。
“海軍から早い時期に203高地が要衝である点を指摘されながら'それを無視して放置'ロシア軍の防備が整ってから初めて攻めるなど、愚の骨頂と評するしかない。軍司令部を後方に置いた臆病さ。ロシア軍の防衛戦の戦法に対する学習能力の欠如。大砲を各師団に満遍なく配置する愚策。正面からの正攻法突破に固執した、臨機応変の判断力に乏しかった点など、欠陥だらけの軍司令部だったことがはっきりクローズアップされてくる。そうした指揮体制の下で'旅順攻囲戦は戦われたのだ。”
これをもって柘植氏は乃木批判の根拠としているのだが、乃木将軍が“無能”と断定するには、素人の私でもいささか証拠不十分のような気がする。つまり、陸軍の乃木将軍が 海軍の意向を伺うのは 指揮系統のありかたからそれで正しいのであろうか。臆病と慎重は裏腹であるし、“臨機応変の判断力”とはどういうものなのか場合によっては、そのこと自体が間違いであることもある。このように指摘が具体的ではなく、不明な点が多いため、様々な見解が成り立つはずだが、そういう“証拠不十分”のままで、“欠陥だらけの軍司令部”と決め付けはあまりにも感情的ではないのか。

それが、司馬氏も柘植氏と同様の水準で そうした表現を使っていることに驚きを覚えてしまう。
別宮暖朗氏の②の“旅順攻防戦”での指摘で分かったのだが、司馬氏は“殉死”で旅順攻囲戦当時、もっともすぐれた要塞攻撃についてはボーバンが確立した大原則が世界の陸軍における常識であったとしているが、実は“ボーバンはフランス大革命以前の人物”とのことである。1900年代に戦われた戦争に1700年代の戦術が すぐれた戦術として世界の常識だったと主張する司馬氏は常軌を逸している。我々素人の読者は、司馬氏の引用するボーバンとは、海軍のマハンと比肩される少なくとも19世紀の優れた戦術家と思ってしまうのだが、当時から200年もさかのぼった時代の人物とは衝撃である。この一つを持って 私の司馬氏の論説への信頼を一挙に吹き飛ばしてしまった。
別宮氏は その“旅順攻防戦”で続けて、ボーバンに変わって、ベルギー人プリアルモンが考案した築城法が19世紀後半以降の主流であったと明かしている。つまり、攻城砲の進歩に伴い、都市の城塞化を止め、3個歩兵中隊を常駐させられるほどの堡塁を拠点とし、都市周辺に点在させることとした。その堡塁は榴弾の直撃を受けても壊滅しないように天蓋を1メートルを超える厚みのベトン(コンクリート)で覆い、そこに重砲や機関銃を設置し、地下に兵舎を設けていた。そして点在した堡塁を塹壕で連絡し都市を防衛する様式が、ヨーロッパ方面での主流になっていたと指摘している。日清戦争での清国の築城法は、ボーバン式に近かったため、日本軍は簡単に抜くことができたが、ロシアが旅順に構築した要塞は、プリアルモン式のものであったため難渋したというのである。つまり、プリアルモン式要塞は、榴弾砲を相当に打ち込んでも強靭に持ちこたえ、将兵の損耗を避けられたとのことである。特に、塹壕は一時的限定的に損傷を受けても復旧は容易であり、敵が集中的に戦線を突出させても、残った塹壕と堡塁で逆に包囲して殲滅することを容易にし、いわば柔軟な城塞と化したというのである。しかも、このロシアのプリアルモン式要塞に対し、塹壕で対抗したのは乃木将軍が世界で最初であり、その点で独創的であったと別宮氏は指摘している。こうした独創は、イギリス観戦武官イアン・ハミルトンが証言しているように乃木が当時のヨーロッパにおける主要な軍事論文をすべて読破した理論派であったことによっているとも思われる。
そして、その後第一次大戦で展開されるように塹壕戦は 攻守両軍の膨大な消耗を強いるものとなり、それが戦争を非常に悲惨なものとさせたのだとの指摘である。そして、旅順攻囲戦はその最初の戦いであり、膨大な将兵の損耗は乃木将軍の無能のせいではない、との論旨である。

こうした“事実”を突きつけられると 果たして乃木将軍を 頭ごなしに“無能”と断定して良いものであろうか。司馬氏は当時としても時代遅れのボーバンを引き合いに出して、さらに火縄銃時代の備中高松城攻めまでも引き合いに出して乃木将軍を “無能”と決め付けることで一体何を狙ったのだろうか。歴史好きの作家の想像力としてそんなもので良いのだろうか。或いは、司馬氏は乃木将軍の演技過剰な生き方(死に方)を嫌って、そういう評価になったのであろうか。乃木将軍への国民的認識は、戦前は軍神として祭られ、戦後はその反発と、直前の戦争でバンザイ突撃を指導・強要した象徴として嫌忌され、評価を貶めていたのだが、司馬氏は、この誤った国民的一般認識を厳密に検証することもなく、好き嫌いを基準に追認してしまったのだろうか。一流とされる作家が そのような一時的な人物評価に流されて、しかもそうした誤った認識を国民的な共通認識へと補強し促しても良かったのだろうか。

戦争は互いに齟齬や失敗の連続であり、その齟齬や失敗の数の少ないほうが勝つというものだということを聞いたことがある。乃木将軍の失敗はそれでも多い方と言えるのだろうか。齟齬と失敗の中で即座に修正し、強い精神力で立ち直り、敵を圧倒するのが司令官の仕事であろうし、その中で勝利するのが名将ではないか。その困難な旅順を陥落させた乃木摩下の第3軍をロシア側も奉天会戦では過大評価してしまい、対応を誤ったという事実もあったようだ。座談の③では 原剛氏は 乃木将軍の困難な戦いの連続を“第3軍を最後までまとめきった点では、乃木の功績はあった”と評している。
とにかく、別宮氏の②の“旅順攻防戦”を読めば、柘植氏のような乃木無能論への反論のための客観材料はいくらでも拾えることが分かる。それ以外にも 誤った認識を訂正する材料をかなり提供してくれている。兵器技術の発展を正確に検証し、その兵器技術の進歩にともなう戦術形態の変化を正確に検証して議論を進めている。その意味で“旅順攻防戦”は画期的な本だったのかも知れない。
いや、別宮氏は 実は旅順攻防戦こそ、日露戦の心理的政治的決戦の頂点であり、旅順陥落をもってロシア側も日本に勝利する目的を失ったのであり、これにより終戦とせざるを得なかったのだとも指摘している。ロシアは旅順を失陥しなければ、あくまでも満州での戦線を維持しようとしたはずであり、そうなれば果たして日本の勝利となったか疑わしかったことになる。
“乃木希典は決して明敏でもなければ、果断でもなく、まして猛将ではない。だがそうだとして、勇猛果敢な将軍は乃木よりも良い結果を出せただろうか?” “歴史に必然もなく、予測も不可能だ。だが、乃木希典が決戦的勝利を収めたことは歴史的事実である。”と言って別宮氏は“旅順攻防戦”を終えている。

また別宮氏には児玉源太郎への過剰な賛美もなく、逆に批判を込めている部分もある。ひょっとして、児玉参謀長が乃木将軍の指揮権を一時的に剥奪したというのも誰かの創作なのかも知れないと私は思っている。どうやら、その直接的証拠は現存していないようだ。本社のスタッフが 失敗し続ける工場のスタッフを指導に出掛けることは現代でもありうるし、そこでは工場での現場の指揮権を剥奪してやらなければならない、などという大仰なことにはあまりならない。にもかかわらず、それを演技過剰に見せることで、組織職制を超えた横紙破りが実力者のすることだとして、賛美する気風を誰かが軍内に作ろうとしたのかも知れない。その気風が その後の軍の組織壊乱の原因にもなったのかも知れない。
また、そういう組織観のアヤも司馬氏には認識できなかったのかも知れない。こうして私の司馬氏の歴史小説が できるだけ正確な歴史的事実を踏まえものとの評価は これをもって大きく転換させざるを得なくなった。また、いかに正確な歴史的事実の発掘が困難なのかを 思い知らされた。特に、近現代史を断じる場合、そういう難しさがある。もう亡くなった作家を鞭打ってもしかたないのだが、彼が依然として現代日本人のものの見方に与えている影響は大きいからだ。

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