The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
企業トップの過失責任
先週 神戸地検は JR西日本の尼崎事故の責任をめぐって、当時の経営者の1人を起訴した。
報道によると、“4年余りに及んだJR史上最悪の事故の捜査は、現職社長の立件という鉄道事故としては極めて異例の結論となり、経営トップ辞任に発展した。”
さらに“遺族が告訴していた事故当時の相談役井手正敬氏(74)、会長南谷昌二郎氏(68)、社長垣内剛氏(65)の3人と、業務上過失致死傷容疑で書類送検された安全対策や運行管理の元担当幹部8人は嫌疑不十分で、高見隆二郎運転士=当時(23)=は被疑者死亡で、それぞれ不起訴になった。”
とし、“地検は書類送検を受けた昨年9月以降、同社本社への2度の捜索や約200人の鉄道関係者からの聴取を実施。その結果、(1)急カーブへのATS整備は鉄道業界で共通認識として定着していた(2)カーブの付け替えで時速120キロから70キロに急減速しなければならなくなり、ダイヤ改定で快速電車の本数も1日34本から94本に増え、転覆の危険性が高まったことを山崎社長は認識できた(3)付け替え直前のJR函館線の貨物列車脱線事故を受け、山崎社長は「ATSを設置していれば函館の事故は防げた」とする報告を受けていた――ことが判明したという。”と起訴理由を説明している。
こういった事故で、経営者の責任問題として立件したのは“極めて異例の結論”だというのだ。つまり、法律の専門家の間では こういう経営者の過失責任は問えないのが普通だ、という。やはり、事故の第一義的責任は運転手にあるのであり、カーブの付け替えで減速しなければならない対策として、経営側としては時速70キロの速度制限を課しており、それまで8年経過して その間 事故は なかったからだ、という。
7月9日の日経新聞・朝刊では “電車のホームから乗客が転落して死傷する事件・事故は毎年起きているが、この場合も安全対策として有効なホームドアを設置していない経営陣の刑事責任が問われることになるのだろうか”という疑問を掲載していた。
ならば、何故 検察は 起訴したのか。世論に迎合したのか。この事件では、世論に迎合し、最近の政治資金絡みの事件では 与党に迎合しているような気がする。政治的には迎合を通り越して、政局に大きな影響を与えている。
このように 最近の検察という官僚組織の動向は、大きく公正さを欠いていて 非常に奇異に感じる。ヒョッとして最近 急に変になったのではなくて、実は以前からそうだったのが、最近 特に目立ってしまうようになったかも知れない。
しかし、同時に日経新聞では 下図のような経営者の過失責任を問うた最近の事件をあげている。普通の “庶民的”感覚ではこれらの事件と同様に 経営陣に責任を問うべきである、と考えるところだろう。
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日本の鉄道会社の社長は 顧客たる乗客の安全を最優先に考えなくても良いのか、という庶民感覚だ。
私は 駅のホームには、当然 ホームドアを設置するべきだとすら 考えている。ホームドアが無いのは 19世紀的発想であって、鉄道が発明された当時の安全感覚と、列車速度の感覚のままで21世紀の安全管理が許されて良いはずがないのだ。19世紀的感覚とは あのチンチン電車の感覚なのだ。とても現代の高速鉄道の感覚ではない。したがって、“有効なホームドアを設置していない経営陣の刑事責任が問われることになる”と私は考えるのだ。まして その事故は予見できるどころか、ある割合で起きているのが現実ならなおさらだ。
だが、それは現段階では あくまでも個人的見解でしかない。そういった社会的な共通認識は何故か今はない。
近年、会社法などで “内部統制”が言われ、経営者責任が重く問われ始めているが、これは財務上の統制が主な目的であるので主旨が異なると言えば なるほど そうかも知れない。しかし、世の中の感覚は そういう限定を許さないところまで来ていると思うべきではないだろうか。そして、それが 当時の安全対策の最高責任者だった常務取締役鉄道本部長ただ1人の責任に帰するというのは、著しく適正を欠いた判断と思うのが一般的感覚ではないだろうか。
品質ISOマネジメントの視点では、顧客の“暗黙の要求事項”として 当然 “安全”は 最重要の課題として考慮されなければならない。JR西日本のように“定刻発車”が 最重要ではなくて、あくまでも安全・確実に“定刻到着”することが鉄道会社の最大の課題と考えるべきなのだ。それに 経営トップは 深くコミットするべきなのである。したがって、当然 トップの責任は重大なのである。
“定刻発車”のために “駆け込み乗車は おやめ下さい。”と顧客に要求するのは 全くの本末転倒なのである。顧客たる乗客は たとえ遅れて発車しても 安全・確実に“定刻到着”すれば大いに満足するのである。JR西日本は あんなモノの見方を捨てるべきなのだ。あの“モノ言い”を捨てたかどうかが、役人感覚から本当に民営体質へ改善したかの指標になるように思うのだ。
そして事故を起こした運転手は“定刻発車”できなかったために、それがために決められた無理なダイヤを遵守できず、懲罰を恐れ、焦って事故を起こしたのだ。元々余裕あるダイアであれば“定刻到着”は可能になるのではないか。
私は JR神戸線をしばしば、利用しているので 尼崎駅の様子は 知っているつもりだが、そもそも何故 カーブの付け替えが必要だったのか 不思議でならない。既存の ホームをそのまま有効利用しようとして 逆に無理をして カーブの付け替えをしたのではないか、と思っている。尼崎駅構内は 東西南北に実に広い。このスペースを有効利用しているとは とても思えない。現状ではキリンビールの工場も無くなり、出荷のために利用していた北側は空いている。つまり、ホームを北側に増設していればカーブの付け替えは不要だったのではないかと思っている。JR西日本は 最小の投資で、乗客の安全と、カーブへ制限速度を設けて乗客の利便性までも犠牲にしたのではないかと疑っているのだ。
まぁ 緩いカーブの側の路線拡幅の用地買収が困難だったことや、神戸線と福知山線の立体交差を上手く交わすことも困難だったこともあるのかも知れないが、現今のマスコミの報道では 詳細を伺い知ることはできない。
しかし、“カーブの付け替えで時速120キロから70キロに急減速しなければならなくなり、ダイヤ改定で快速電車の本数も1日34本から94本に増え、転覆の危険性が高まった”ことは事実であり、国鉄時代から 労使双方に不信感のある組織にあって、現場の運転手のみに負担を強いる経営が 適正であったとは言えまい。
しかし、それが 現行法で 経営トップに刑事責任を問えるほどの問題なのかどうか、それこそが裁判で争われる問題であるべきなのかも知れない。
この刑事事件、大事件だったが 裁判員制度適用となる裁判になるのだろうか。こういう社会問題化した事件は 適用外なのだろうか。これこそ、裁判員が 適切な“近代的市民感覚”を発揮するべきではないのか。
それは 感情的な“庶民感覚”であってはならないのは当然ではあるのだが・・・。
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さらに“遺族が告訴していた事故当時の相談役井手正敬氏(74)、会長南谷昌二郎氏(68)、社長垣内剛氏(65)の3人と、業務上過失致死傷容疑で書類送検された安全対策や運行管理の元担当幹部8人は嫌疑不十分で、高見隆二郎運転士=当時(23)=は被疑者死亡で、それぞれ不起訴になった。”
とし、“地検は書類送検を受けた昨年9月以降、同社本社への2度の捜索や約200人の鉄道関係者からの聴取を実施。その結果、(1)急カーブへのATS整備は鉄道業界で共通認識として定着していた(2)カーブの付け替えで時速120キロから70キロに急減速しなければならなくなり、ダイヤ改定で快速電車の本数も1日34本から94本に増え、転覆の危険性が高まったことを山崎社長は認識できた(3)付け替え直前のJR函館線の貨物列車脱線事故を受け、山崎社長は「ATSを設置していれば函館の事故は防げた」とする報告を受けていた――ことが判明したという。”と起訴理由を説明している。
こういった事故で、経営者の責任問題として立件したのは“極めて異例の結論”だというのだ。つまり、法律の専門家の間では こういう経営者の過失責任は問えないのが普通だ、という。やはり、事故の第一義的責任は運転手にあるのであり、カーブの付け替えで減速しなければならない対策として、経営側としては時速70キロの速度制限を課しており、それまで8年経過して その間 事故は なかったからだ、という。
7月9日の日経新聞・朝刊では “電車のホームから乗客が転落して死傷する事件・事故は毎年起きているが、この場合も安全対策として有効なホームドアを設置していない経営陣の刑事責任が問われることになるのだろうか”という疑問を掲載していた。
ならば、何故 検察は 起訴したのか。世論に迎合したのか。この事件では、世論に迎合し、最近の政治資金絡みの事件では 与党に迎合しているような気がする。政治的には迎合を通り越して、政局に大きな影響を与えている。
このように 最近の検察という官僚組織の動向は、大きく公正さを欠いていて 非常に奇異に感じる。ヒョッとして最近 急に変になったのではなくて、実は以前からそうだったのが、最近 特に目立ってしまうようになったかも知れない。
しかし、同時に日経新聞では 下図のような経営者の過失責任を問うた最近の事件をあげている。普通の “庶民的”感覚ではこれらの事件と同様に 経営陣に責任を問うべきである、と考えるところだろう。
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日本の鉄道会社の社長は 顧客たる乗客の安全を最優先に考えなくても良いのか、という庶民感覚だ。
私は 駅のホームには、当然 ホームドアを設置するべきだとすら 考えている。ホームドアが無いのは 19世紀的発想であって、鉄道が発明された当時の安全感覚と、列車速度の感覚のままで21世紀の安全管理が許されて良いはずがないのだ。19世紀的感覚とは あのチンチン電車の感覚なのだ。とても現代の高速鉄道の感覚ではない。したがって、“有効なホームドアを設置していない経営陣の刑事責任が問われることになる”と私は考えるのだ。まして その事故は予見できるどころか、ある割合で起きているのが現実ならなおさらだ。
だが、それは現段階では あくまでも個人的見解でしかない。そういった社会的な共通認識は何故か今はない。
近年、会社法などで “内部統制”が言われ、経営者責任が重く問われ始めているが、これは財務上の統制が主な目的であるので主旨が異なると言えば なるほど そうかも知れない。しかし、世の中の感覚は そういう限定を許さないところまで来ていると思うべきではないだろうか。そして、それが 当時の安全対策の最高責任者だった常務取締役鉄道本部長ただ1人の責任に帰するというのは、著しく適正を欠いた判断と思うのが一般的感覚ではないだろうか。
品質ISOマネジメントの視点では、顧客の“暗黙の要求事項”として 当然 “安全”は 最重要の課題として考慮されなければならない。JR西日本のように“定刻発車”が 最重要ではなくて、あくまでも安全・確実に“定刻到着”することが鉄道会社の最大の課題と考えるべきなのだ。それに 経営トップは 深くコミットするべきなのである。したがって、当然 トップの責任は重大なのである。
“定刻発車”のために “駆け込み乗車は おやめ下さい。”と顧客に要求するのは 全くの本末転倒なのである。顧客たる乗客は たとえ遅れて発車しても 安全・確実に“定刻到着”すれば大いに満足するのである。JR西日本は あんなモノの見方を捨てるべきなのだ。あの“モノ言い”を捨てたかどうかが、役人感覚から本当に民営体質へ改善したかの指標になるように思うのだ。
そして事故を起こした運転手は“定刻発車”できなかったために、それがために決められた無理なダイヤを遵守できず、懲罰を恐れ、焦って事故を起こしたのだ。元々余裕あるダイアであれば“定刻到着”は可能になるのではないか。
私は JR神戸線をしばしば、利用しているので 尼崎駅の様子は 知っているつもりだが、そもそも何故 カーブの付け替えが必要だったのか 不思議でならない。既存の ホームをそのまま有効利用しようとして 逆に無理をして カーブの付け替えをしたのではないか、と思っている。尼崎駅構内は 東西南北に実に広い。このスペースを有効利用しているとは とても思えない。現状ではキリンビールの工場も無くなり、出荷のために利用していた北側は空いている。つまり、ホームを北側に増設していればカーブの付け替えは不要だったのではないかと思っている。JR西日本は 最小の投資で、乗客の安全と、カーブへ制限速度を設けて乗客の利便性までも犠牲にしたのではないかと疑っているのだ。
まぁ 緩いカーブの側の路線拡幅の用地買収が困難だったことや、神戸線と福知山線の立体交差を上手く交わすことも困難だったこともあるのかも知れないが、現今のマスコミの報道では 詳細を伺い知ることはできない。
しかし、“カーブの付け替えで時速120キロから70キロに急減速しなければならなくなり、ダイヤ改定で快速電車の本数も1日34本から94本に増え、転覆の危険性が高まった”ことは事実であり、国鉄時代から 労使双方に不信感のある組織にあって、現場の運転手のみに負担を強いる経営が 適正であったとは言えまい。
しかし、それが 現行法で 経営トップに刑事責任を問えるほどの問題なのかどうか、それこそが裁判で争われる問題であるべきなのかも知れない。
この刑事事件、大事件だったが 裁判員制度適用となる裁判になるのだろうか。こういう社会問題化した事件は 適用外なのだろうか。これこそ、裁判員が 適切な“近代的市民感覚”を発揮するべきではないのか。
それは 感情的な“庶民感覚”であってはならないのは当然ではあるのだが・・・。
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