The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
白取春彦・著“完全版 仏教「超」入門”を読んで
先週も言ったが、いよいよ梅雨も終盤。予報は先週“降る、降る”とのことだったが、前線は北上して結局神戸には“降らず”で無事だった。どうやら今週で梅雨明けか?例年の繰り返す被害に被災地にはお見舞い申し上げたい。
エルニーニョとラニーニャが同時発生!?ンなアホな!!実態はインドネシアの太平洋沿岸方面の海水温が異常に高いだけ?それで台風の発生頻度が高くなる?
去年はチベット高気圧が日本上空に張り出して太平洋高気圧とダブって猛暑?ならば台風は高気圧が守ってくれるハズ!ところが25個の来襲があったという。ならば例年と変わらないのでは?
何がホントウか?よく分からない!気象学未だしの感の中で、まぁ適当にとは災害に直面すれば言ってもいられない!
確か、この5月には“NATOの東京事務所開設で事務総長来日”との報道があったと思っていて喜んだのだが、“開設の検討”だったとのこと。これに仏マクロン大統領が反対とのこと。これに日本の首相は反論しないのは何故か?日本の安全保障、米国一本鎗で大丈夫なのか?米国が変心すれば万事休すになるョ!
選挙を意識してなのか、ある政党のポスターが目についた。“日本を前に!”これだから、日本の政治家はダメなのだ。そんなことは誰でも言う。“どのように前に”か、が問題なのだ!それを手短かにユウテみぃ!
JAXAは週末、イプシロンSのエンジン燃焼試験中に爆発伴う火災を発生させた。今年3月に大型だけど低コストのH3ロケット初号機で打ち上げに失敗。そして今回、小型化路線のイプシロンSの燃焼実験も失敗。大丈夫かJAXA!失敗ばかりしているが、実験計画は品質工学の手法に則ってやれているのか?失敗し続けるのはタグチ・メソッドを使っていないからではないのか?日本には失敗している時間も金も余裕もないハズなのに!
さて、今回は・・・書店で久々に“仏教”の本が目に入った。白取春彦・著“完全版 仏教「超」入門”である。手に取って読んでみるとこれまで愛読した“ひろさちや”氏とは表現の仕方の違う点が目に入って、それが何だか心地よいものがあったので、迷わず買ってしまったのだ。“ひろさちや”氏はできるだけ穏やかに表現しているはずのところを、直截に言い切っている印象があったのだ。
例えば、“はじめに”で次のような書き出しがある。“輪廻や生まれ変わりを信じるのは古代バラモン教から生まれたヒンズー教です。・・・どうやら、多くの日本人が仏教に抱いているイメージは、ヒンズー教とキリスト教についての貧弱な知識から合成されたもののようです。たとえば、「仏さまが見守っていてくださる」という考え方は、かなりキリスト教的なものです。”“その原因の一つは、僧侶たちが積極的に仏教の真髄を教えてこなかったこと。もう一つは、何となく自分は仏教とだろうと考える人たちが、仏教はどういうものなのか、みずから勉強してこなかったからでしょう。”とある。歯に衣着せぬもの言いのような気がして、心地よかったのだ。
“仏教はどういうものなのか、みずから勉強してこなかったからでしょう。”とあるが、それも実は“僧侶たち、仏教の専門家がが積極的に仏教の真髄を教えてこなかったこと”によるものと考えられ、日本人の仏教観の誤解は仏教の専門家の歴史的サボタージュが原因であると私は思ったのだ。だが、どうやら道元禅師は別のようだ。
さらに本分冒頭には、著者の30代の時に出会った“仏教のことを知らない有名な仏師”の話がでてくる。仏師とは言わずと知れた仏像を彫る人であり、当然一般人よりもはるかに仏教の専門家だと普通は思うだろう。ここにもその仏教の専門家が“浅い知識しかもたない”つまり“知らなかった”というお寒い実態が明かされているのだ。そして“仏師とてもただの工芸家だ”となった。“日本人の仏教観”は結構いい加減なのだ。
その原因を知りたいところだが、この本ではそこにまでは及んでおらず、一般に普及している日本人の誤った仏教観を振り払ってくれているのだ。恐らく、その原因となると膨大な論証が必要となるのだろう。
この本・白取春彦・著“完全版 仏教「超」入門”の概要は出版社のウェッブ・サイトに次のように出ている。
内容説明
家には仏壇があり、お墓はお寺にあり、お盆やお彼岸にはお墓参りに行き、葬式ではお坊さんにお経をあげてもらう…こういった習慣は本来の仏教とは無関係だし、「よいことをすれば極楽、悪いことをすると地獄へ行く」「仏様がいつも見守っていてくれる」といった考え方も本来の仏教の教えにはなく、キリスト教の影響を受けたものだったりする。日本人の多くが持っている仏教のイメージを覆し、ブッダが説いた純粋な仏教を明快に解説、「入門書を超える入門書」としてベストセラーとなった名著に大幅加筆、完全版として復刊!
目次
第一章 仏教の出発点は「人生とは苦しみ」
仏=ブッダとは「悟った人」を意味する
ブッダの死後、経典がまとめられた
仏教は「人生とは苦しみである」から出発する
わたしたちの心に苦しみをもたらす原因は何なのか
苦しみをなくするにはどうすればいいか
知っているようで知らない仏教用語1 ビミョーは「微妙」ではない
知っているようで知らない仏教用語2 本当の「出世」とは出世しないこと
第二章 仏教のキーワードは「縁起」と「空」
怪談『耳なし芳一』に見る仏教の考え方
仏教のキーワード 「縁起」と「空」
「縁起」に目覚めて自由になる
人間は「空」であり自我は存在しない
知っているようで知らない仏教用語3 「言語道断」を知らないとは言語道断
知っているようで知らない仏教用語4 「世間」は汚れたところ
第三章 煩悩から自由になる
「三毒」と「五つの蓋い」
悟れば煩悩にわずらわされなくなる
死後のことより、現世で悟ることが重要だ
「浄土」「彼岸」「仏国土」は比喩にすぎない
現世を涅槃にしてさっぱりと生きる
知っているようで知らない仏教用語5 「平等」の精神は仏教から
知っているようで知らない仏教用語6 心が無事であってこそ本当の「無事」
第四章 仏教の説く愛と慈悲
愛に隠されている苦しみ
行為が人間を形づくる
慈悲の深さを体現した僧
知っているようで知らない仏教用語7 この鮨屋の「シャリ」はうまいねぇ
知っているようで知らない仏教用語8 「北枕」は縁起が悪い?
第五章 本来の仏教から変質した日本の仏教
誤解されてきた「諸行無常」の意味
ブッダの教えた仏教は日本にあるか
「成仏」や「往生」は本来「死ぬ」ことではない
現代の日本人は仏教徒といえるのか
知っているようで知らない仏教用語9 「大袈裟」は嫌われる
知っているようで知らない仏教用語10 資本主義は「迷惑」です
第六章 仏教に「輪廻」はない
誤解されてきた輪廻思想
古代インドの輪廻思想を仏教は受け継がなかった
学僧たちが考えた仏教的な輪廻の仮説
それでも輪廻は仏教的ではない
本来の仏教に「輪廻」はない
知っているようで知らない仏教用語11 「うろうろ」するのはみっともない
知っているようで知らない仏教用語12 「旦那」は与える人(ドナー)
新版のあとがきに代えて――体感する悟りについて
著者等紹介
白取春彦[シラトリハルヒコ]
青森市生まれ。ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学ぶ。哲学と宗教に関する解説書の明快さには定評がある。
主な著書にミリオンセラーとなった『超訳ニーチェの言葉』のほか、『頭がよくなる思考術』『独学術』『完全版 仏教「超」入門』(以上ディスカヴァー刊)、『この世に「宗教」は存在しない』(ベスト新書)、『「考える力」トレーニング:頭の中の整理法からアイデアの作り方』(知的生きかた文庫)がある。
ここに示した“目次”では全てのセクションを示しているのではなく、代表的な表題を挙げているだけだが、これで結構内容・構成はほぼ把握できるだろう。
仏教ではブッダ、すなわち仏は実在の人物・ゴータマ・シッダールタただ一人だが、“彼の徹底した実際性や、高齢になって最後は食中毒で死んだことなども考えれば、ブッダはわたしたちと同じ人間であったと分かる。”と言って、“仏と神を混同”してはいけないと著者は言っている。“「神サマ仏サマ」とか「神仏」という安易な言い方”はするべきではなく、あくまでも“人が仏になるのだ”と指摘している。“仏の原義からすれば、残念ながら仏は至高の存在ではありえない”。
著者は禅僧の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)の言葉を引用して、“自分自身の心がすでに仏である。そのことが分かれば、それが成仏である。しかし、いつまでも自分に迷っているのでは仏ではない(衆生つまり普通の人である)”(括弧内筆者)と言っている。
ところが、高名な仏教学者の中には“「仏陀となる」すなわち「成仏する」ことは仏教の理想ではあるが、それを実現することはきわめて困難である”と言って、あたかも至高の存在かのようにいい、まさしく“有難がる”人もいる。
このように“かたや悟りはすぐそこだと言い、かたや悟りははるか彼方であると”言う。“悟り”とは何か、それは基本教理であろうが、“こういった基本教理の不統一が、仏教というものをはなはだ理解しにくくしている”と著者は言っている。確かに!そこに“日本人の仏教観”のいい加減さの一端があるのだろう。
“煩悩”とは“人間が迷い惑うこと、思い悩むことがすべて煩悩。”
“悟ったとしても、煩悩は自然と生まれてくる。”しかし、“悟れば煩悩はなくなる。”
“「煩悩がなくならんうちは、悟りなんぞはまだまだじゃ」これは嘘である。”と著者は言いきる。
“悟っても煩悩は依然として生まれてくるけれど、その煩悩にいちいち煩わされないようになる”これが本当!
“道元の始めた曹洞宗のような禅宗では、そのときの一事に専念することを求められる。徹底して一事に集中するのである。それがとりもなおさず真摯に生きることだからだ。すると、一事専念(=一意専心)が身につく。”(括弧内筆者)
“生きている人間である限り、どんなに修行しても、煩悩のいっさいが完全に払拭されてしまうことはない。けれども、煩悩によって邪魔されることはなくなる。煩悩のために、現在かかわっている事柄がおろそかになることはない。なぜか。煩悩が顔を出してきても、それをあたかも自分から離れた他人事のように見ることができるからなのだ。”
それ以外に煩悩に煩わされないためには“「縁起」と「空」という仏教の真理を知る”必要があると著者は説く。
“「縁起」と「空」という仏教の真理を知らない無明の状態にあったときは、小さな煩悩によって、わたしたちのこころは占領されてしまっている。・・・しかし、世のいっさいが「縁起」と「空」から成り立っていることを悟れば、煩悩が他人の部屋のゴミのようなものになってしまうというわけだ。というのも煩悩のからくり、すなわち、かかわらない以上は何もないのと同じだと分かっているからである。”
“すべてが、縁りて起こることだという。つまり、互いに関係しあって相手を支えている。これを「縁起」と呼ぶ。ブッダの悟りの中身の知的理解はこれである。”
「縁起」は「関係性」と言いかえてもかまわない。“この世の中のあらゆるものが、関係性においてのみ、その存在が確かめられている”。現在の社会的関係性ばかりではない。“生物学的な点からいっても、自分の祖先として何十億人もの人間が昔に生きていたからこそ、自分がここに誕生できているわけだ。”
“「空(くう)」とは、他との関係があってこそ成り立っている状態を指す言葉だ。この世にあるどんなものも他との関係なしには決してここにありえない。だから、いっさいが「空」だと仏教ではいう。したがって、「空」は無いことを意味する言葉ではない。”
“「空」とは現象だと考えてしまってもいい。・・・・(あらゆる現象の)知覚はみな「空」である。それは幻ではない。この現実のことだ。世界とはこういう現実の集合だ。であるならば、ないがしろにすることなどできるはずもないではないか。”
“悪い状況ならば、悪い縁起がつくった現象である。そこから脱したいのなら、悪い縁起を排するようにすればいい。
・・・・・
「自分ではそういうふうに努力しているつもりなんだけど、これがなかなか」と、悪い縁起をたちきれないことにいらだっている人もいるかもしれない。けれども、それで自分を責めたり、自分を不甲斐ないと嘆く必要などさらさらない。良く生きようと努力して生きていく人生は尊く、美しいからだ。必ず誰かが見て、生き方の美しさにあこがれて、その人も努力を始めるものだ。だから、自分の努力は良い縁起をつくっているのである。”
“ブッダは人間を深く見て、「我」は無い、「自我」というものは存在しえない。「無我」であると悟った。” 即ち空である。
次の道元の『正法眼蔵』の有名な言葉は難解なものとされている。
仏道をならうといふは、自己をならふ也
自己をならふといふは、自己を忘るゝなり
自己を忘るゝといふは、万法に証せらるゝなり
万法に証せらるゝといふは、自己の身心および
他己の身心をして脱落せしむるなり
しかし、著者は次のように解すれば分かるという。
“自分にかかわる縁をいっさいのものの中に深く見つめていくと、結局この自己という確固としたものを見出すことができない地点に至る。
だから、ついには自己の存在を忘れてしまう。「無我」だ。
つまり「自己をならうといふは」と「自己を忘るゝなり」の間の「縁を見つめる」ということを省略したために難しく思えたのにすぎない。”
“新版のあとがきに代えて――体感する悟りについて”では著者は以下のように述べている。
“「真理を身につけること」とは、悟りの体感のことである。悟りとは、知的な理解ばかりではなく、体感することもできる。”
“悟りが体感として訪れるときは不意である。意識や思考が忙しく働いているときではなく、むしろ一心不乱の集中がついえて途切れたときにその体感が突然にやって来る。”
“悟りを体感したという経験は自己の覚悟を変える。しかし、日常は変わらない。特別な能力を持った人間になるわけでもない。性格もほぼ変わらない。したがって、今後も同じ失敗をくり返す可能性もある。
ただ、感性が少しだけ変わる。あらゆる禅語が分かるようになり、あらゆる宗教や哲学の文言が結局のところ同語反復に過ぎないと分かるようになる。”
“とにかく、悟りは観念でも神秘体験でもなく、悟りの体感はごく身近にある。自分の心が散漫な状態でない限り、いつどこで体感してもおかしくない。”
この本の核心部分はこんなところだ。さぁ~て、こんなことで仏教のことが分かったのなら、天下泰平、しあわせ一杯・・・・!!!
しかし、ここまで踏み込んだ仏教入門書は滅多にない。
なお、各章の終わりにある“知っているようで知らない仏教用語”も面白く、大変興味深い。一読を勧めたい。
エルニーニョとラニーニャが同時発生!?ンなアホな!!実態はインドネシアの太平洋沿岸方面の海水温が異常に高いだけ?それで台風の発生頻度が高くなる?
去年はチベット高気圧が日本上空に張り出して太平洋高気圧とダブって猛暑?ならば台風は高気圧が守ってくれるハズ!ところが25個の来襲があったという。ならば例年と変わらないのでは?
何がホントウか?よく分からない!気象学未だしの感の中で、まぁ適当にとは災害に直面すれば言ってもいられない!
確か、この5月には“NATOの東京事務所開設で事務総長来日”との報道があったと思っていて喜んだのだが、“開設の検討”だったとのこと。これに仏マクロン大統領が反対とのこと。これに日本の首相は反論しないのは何故か?日本の安全保障、米国一本鎗で大丈夫なのか?米国が変心すれば万事休すになるョ!
選挙を意識してなのか、ある政党のポスターが目についた。“日本を前に!”これだから、日本の政治家はダメなのだ。そんなことは誰でも言う。“どのように前に”か、が問題なのだ!それを手短かにユウテみぃ!
JAXAは週末、イプシロンSのエンジン燃焼試験中に爆発伴う火災を発生させた。今年3月に大型だけど低コストのH3ロケット初号機で打ち上げに失敗。そして今回、小型化路線のイプシロンSの燃焼実験も失敗。大丈夫かJAXA!失敗ばかりしているが、実験計画は品質工学の手法に則ってやれているのか?失敗し続けるのはタグチ・メソッドを使っていないからではないのか?日本には失敗している時間も金も余裕もないハズなのに!
さて、今回は・・・書店で久々に“仏教”の本が目に入った。白取春彦・著“完全版 仏教「超」入門”である。手に取って読んでみるとこれまで愛読した“ひろさちや”氏とは表現の仕方の違う点が目に入って、それが何だか心地よいものがあったので、迷わず買ってしまったのだ。“ひろさちや”氏はできるだけ穏やかに表現しているはずのところを、直截に言い切っている印象があったのだ。
例えば、“はじめに”で次のような書き出しがある。“輪廻や生まれ変わりを信じるのは古代バラモン教から生まれたヒンズー教です。・・・どうやら、多くの日本人が仏教に抱いているイメージは、ヒンズー教とキリスト教についての貧弱な知識から合成されたもののようです。たとえば、「仏さまが見守っていてくださる」という考え方は、かなりキリスト教的なものです。”“その原因の一つは、僧侶たちが積極的に仏教の真髄を教えてこなかったこと。もう一つは、何となく自分は仏教とだろうと考える人たちが、仏教はどういうものなのか、みずから勉強してこなかったからでしょう。”とある。歯に衣着せぬもの言いのような気がして、心地よかったのだ。
“仏教はどういうものなのか、みずから勉強してこなかったからでしょう。”とあるが、それも実は“僧侶たち、仏教の専門家がが積極的に仏教の真髄を教えてこなかったこと”によるものと考えられ、日本人の仏教観の誤解は仏教の専門家の歴史的サボタージュが原因であると私は思ったのだ。だが、どうやら道元禅師は別のようだ。
さらに本分冒頭には、著者の30代の時に出会った“仏教のことを知らない有名な仏師”の話がでてくる。仏師とは言わずと知れた仏像を彫る人であり、当然一般人よりもはるかに仏教の専門家だと普通は思うだろう。ここにもその仏教の専門家が“浅い知識しかもたない”つまり“知らなかった”というお寒い実態が明かされているのだ。そして“仏師とてもただの工芸家だ”となった。“日本人の仏教観”は結構いい加減なのだ。
その原因を知りたいところだが、この本ではそこにまでは及んでおらず、一般に普及している日本人の誤った仏教観を振り払ってくれているのだ。恐らく、その原因となると膨大な論証が必要となるのだろう。
この本・白取春彦・著“完全版 仏教「超」入門”の概要は出版社のウェッブ・サイトに次のように出ている。
内容説明
家には仏壇があり、お墓はお寺にあり、お盆やお彼岸にはお墓参りに行き、葬式ではお坊さんにお経をあげてもらう…こういった習慣は本来の仏教とは無関係だし、「よいことをすれば極楽、悪いことをすると地獄へ行く」「仏様がいつも見守っていてくれる」といった考え方も本来の仏教の教えにはなく、キリスト教の影響を受けたものだったりする。日本人の多くが持っている仏教のイメージを覆し、ブッダが説いた純粋な仏教を明快に解説、「入門書を超える入門書」としてベストセラーとなった名著に大幅加筆、完全版として復刊!
目次
第一章 仏教の出発点は「人生とは苦しみ」
仏=ブッダとは「悟った人」を意味する
ブッダの死後、経典がまとめられた
仏教は「人生とは苦しみである」から出発する
わたしたちの心に苦しみをもたらす原因は何なのか
苦しみをなくするにはどうすればいいか
知っているようで知らない仏教用語1 ビミョーは「微妙」ではない
知っているようで知らない仏教用語2 本当の「出世」とは出世しないこと
第二章 仏教のキーワードは「縁起」と「空」
怪談『耳なし芳一』に見る仏教の考え方
仏教のキーワード 「縁起」と「空」
「縁起」に目覚めて自由になる
人間は「空」であり自我は存在しない
知っているようで知らない仏教用語3 「言語道断」を知らないとは言語道断
知っているようで知らない仏教用語4 「世間」は汚れたところ
第三章 煩悩から自由になる
「三毒」と「五つの蓋い」
悟れば煩悩にわずらわされなくなる
死後のことより、現世で悟ることが重要だ
「浄土」「彼岸」「仏国土」は比喩にすぎない
現世を涅槃にしてさっぱりと生きる
知っているようで知らない仏教用語5 「平等」の精神は仏教から
知っているようで知らない仏教用語6 心が無事であってこそ本当の「無事」
第四章 仏教の説く愛と慈悲
愛に隠されている苦しみ
行為が人間を形づくる
慈悲の深さを体現した僧
知っているようで知らない仏教用語7 この鮨屋の「シャリ」はうまいねぇ
知っているようで知らない仏教用語8 「北枕」は縁起が悪い?
第五章 本来の仏教から変質した日本の仏教
誤解されてきた「諸行無常」の意味
ブッダの教えた仏教は日本にあるか
「成仏」や「往生」は本来「死ぬ」ことではない
現代の日本人は仏教徒といえるのか
知っているようで知らない仏教用語9 「大袈裟」は嫌われる
知っているようで知らない仏教用語10 資本主義は「迷惑」です
第六章 仏教に「輪廻」はない
誤解されてきた輪廻思想
古代インドの輪廻思想を仏教は受け継がなかった
学僧たちが考えた仏教的な輪廻の仮説
それでも輪廻は仏教的ではない
本来の仏教に「輪廻」はない
知っているようで知らない仏教用語11 「うろうろ」するのはみっともない
知っているようで知らない仏教用語12 「旦那」は与える人(ドナー)
新版のあとがきに代えて――体感する悟りについて
著者等紹介
白取春彦[シラトリハルヒコ]
青森市生まれ。ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学ぶ。哲学と宗教に関する解説書の明快さには定評がある。
主な著書にミリオンセラーとなった『超訳ニーチェの言葉』のほか、『頭がよくなる思考術』『独学術』『完全版 仏教「超」入門』(以上ディスカヴァー刊)、『この世に「宗教」は存在しない』(ベスト新書)、『「考える力」トレーニング:頭の中の整理法からアイデアの作り方』(知的生きかた文庫)がある。
ここに示した“目次”では全てのセクションを示しているのではなく、代表的な表題を挙げているだけだが、これで結構内容・構成はほぼ把握できるだろう。
仏教ではブッダ、すなわち仏は実在の人物・ゴータマ・シッダールタただ一人だが、“彼の徹底した実際性や、高齢になって最後は食中毒で死んだことなども考えれば、ブッダはわたしたちと同じ人間であったと分かる。”と言って、“仏と神を混同”してはいけないと著者は言っている。“「神サマ仏サマ」とか「神仏」という安易な言い方”はするべきではなく、あくまでも“人が仏になるのだ”と指摘している。“仏の原義からすれば、残念ながら仏は至高の存在ではありえない”。
著者は禅僧の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)の言葉を引用して、“自分自身の心がすでに仏である。そのことが分かれば、それが成仏である。しかし、いつまでも自分に迷っているのでは仏ではない(衆生つまり普通の人である)”(括弧内筆者)と言っている。
ところが、高名な仏教学者の中には“「仏陀となる」すなわち「成仏する」ことは仏教の理想ではあるが、それを実現することはきわめて困難である”と言って、あたかも至高の存在かのようにいい、まさしく“有難がる”人もいる。
このように“かたや悟りはすぐそこだと言い、かたや悟りははるか彼方であると”言う。“悟り”とは何か、それは基本教理であろうが、“こういった基本教理の不統一が、仏教というものをはなはだ理解しにくくしている”と著者は言っている。確かに!そこに“日本人の仏教観”のいい加減さの一端があるのだろう。
“煩悩”とは“人間が迷い惑うこと、思い悩むことがすべて煩悩。”
“悟ったとしても、煩悩は自然と生まれてくる。”しかし、“悟れば煩悩はなくなる。”
“「煩悩がなくならんうちは、悟りなんぞはまだまだじゃ」これは嘘である。”と著者は言いきる。
“悟っても煩悩は依然として生まれてくるけれど、その煩悩にいちいち煩わされないようになる”これが本当!
“道元の始めた曹洞宗のような禅宗では、そのときの一事に専念することを求められる。徹底して一事に集中するのである。それがとりもなおさず真摯に生きることだからだ。すると、一事専念(=一意専心)が身につく。”(括弧内筆者)
“生きている人間である限り、どんなに修行しても、煩悩のいっさいが完全に払拭されてしまうことはない。けれども、煩悩によって邪魔されることはなくなる。煩悩のために、現在かかわっている事柄がおろそかになることはない。なぜか。煩悩が顔を出してきても、それをあたかも自分から離れた他人事のように見ることができるからなのだ。”
それ以外に煩悩に煩わされないためには“「縁起」と「空」という仏教の真理を知る”必要があると著者は説く。
“「縁起」と「空」という仏教の真理を知らない無明の状態にあったときは、小さな煩悩によって、わたしたちのこころは占領されてしまっている。・・・しかし、世のいっさいが「縁起」と「空」から成り立っていることを悟れば、煩悩が他人の部屋のゴミのようなものになってしまうというわけだ。というのも煩悩のからくり、すなわち、かかわらない以上は何もないのと同じだと分かっているからである。”
“すべてが、縁りて起こることだという。つまり、互いに関係しあって相手を支えている。これを「縁起」と呼ぶ。ブッダの悟りの中身の知的理解はこれである。”
「縁起」は「関係性」と言いかえてもかまわない。“この世の中のあらゆるものが、関係性においてのみ、その存在が確かめられている”。現在の社会的関係性ばかりではない。“生物学的な点からいっても、自分の祖先として何十億人もの人間が昔に生きていたからこそ、自分がここに誕生できているわけだ。”
“「空(くう)」とは、他との関係があってこそ成り立っている状態を指す言葉だ。この世にあるどんなものも他との関係なしには決してここにありえない。だから、いっさいが「空」だと仏教ではいう。したがって、「空」は無いことを意味する言葉ではない。”
“「空」とは現象だと考えてしまってもいい。・・・・(あらゆる現象の)知覚はみな「空」である。それは幻ではない。この現実のことだ。世界とはこういう現実の集合だ。であるならば、ないがしろにすることなどできるはずもないではないか。”
“悪い状況ならば、悪い縁起がつくった現象である。そこから脱したいのなら、悪い縁起を排するようにすればいい。
・・・・・
「自分ではそういうふうに努力しているつもりなんだけど、これがなかなか」と、悪い縁起をたちきれないことにいらだっている人もいるかもしれない。けれども、それで自分を責めたり、自分を不甲斐ないと嘆く必要などさらさらない。良く生きようと努力して生きていく人生は尊く、美しいからだ。必ず誰かが見て、生き方の美しさにあこがれて、その人も努力を始めるものだ。だから、自分の努力は良い縁起をつくっているのである。”
“ブッダは人間を深く見て、「我」は無い、「自我」というものは存在しえない。「無我」であると悟った。” 即ち空である。
次の道元の『正法眼蔵』の有名な言葉は難解なものとされている。
仏道をならうといふは、自己をならふ也
自己をならふといふは、自己を忘るゝなり
自己を忘るゝといふは、万法に証せらるゝなり
万法に証せらるゝといふは、自己の身心および
他己の身心をして脱落せしむるなり
しかし、著者は次のように解すれば分かるという。
“自分にかかわる縁をいっさいのものの中に深く見つめていくと、結局この自己という確固としたものを見出すことができない地点に至る。
だから、ついには自己の存在を忘れてしまう。「無我」だ。
つまり「自己をならうといふは」と「自己を忘るゝなり」の間の「縁を見つめる」ということを省略したために難しく思えたのにすぎない。”
“新版のあとがきに代えて――体感する悟りについて”では著者は以下のように述べている。
“「真理を身につけること」とは、悟りの体感のことである。悟りとは、知的な理解ばかりではなく、体感することもできる。”
“悟りが体感として訪れるときは不意である。意識や思考が忙しく働いているときではなく、むしろ一心不乱の集中がついえて途切れたときにその体感が突然にやって来る。”
“悟りを体感したという経験は自己の覚悟を変える。しかし、日常は変わらない。特別な能力を持った人間になるわけでもない。性格もほぼ変わらない。したがって、今後も同じ失敗をくり返す可能性もある。
ただ、感性が少しだけ変わる。あらゆる禅語が分かるようになり、あらゆる宗教や哲学の文言が結局のところ同語反復に過ぎないと分かるようになる。”
“とにかく、悟りは観念でも神秘体験でもなく、悟りの体感はごく身近にある。自分の心が散漫な状態でない限り、いつどこで体感してもおかしくない。”
この本の核心部分はこんなところだ。さぁ~て、こんなことで仏教のことが分かったのなら、天下泰平、しあわせ一杯・・・・!!!
しかし、ここまで踏み込んだ仏教入門書は滅多にない。
なお、各章の終わりにある“知っているようで知らない仏教用語”も面白く、大変興味深い。一読を勧めたい。
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