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二条城への観光

先週報告したセミナーは京都商工会議所での開催だった。最近は、参加したセミナーの近くの名所・旧跡を訪問することにしているが、今回は二条城を散策することとした。
実は、二条城は学生時代に来たことがあったのだが、当時は大して感慨を覚えなかった。なので その後あまり行かなかった、というより避けていたものだったが、江戸幕府の開幕当初と幕末に大きな役割を果たした舞台として もう一度見ておいても良いかもしれないとの気分も出て来て行ってみることにした。

神戸より阪急にて大宮駅で下車。京都市内を大抵は地下鉄を利用するのが普通であろうが、それほど遠い所ではないので徒歩で赴くこととした。しばらく京都の町屋街を北上していたが、やがて大通りである堀川通に出て、そのまま北上を続ける。すると 15分程度で視野がひらけて来て、櫓(東南隅櫓)と堀に囲まれた城郭が目に入って来て、観光地らしい雰囲気を感じる。この入口が東大手門である。



さて、入場料を払って貰ったパンフレットに “二条城は、1603年(慶長8年)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営し、三代将軍家光が、伏見城の遺構を移すなどして、1626年(寛永3年)に完成したもので、家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻など、いわゆる桃山文化の全貌を見ることができます。/1867年(慶応3年)十五代将軍慶喜の大政奉還により、二条城は朝廷のものとなり、1884年(明治17年)離宮となりました。その後、1939年(昭和14年)に京都市に下賜され、1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産に登録されました。”とあった。
さらに、その右側に“二条城年表”があるが、やはり江戸幕府の最初の頃三代家光までと、幕末の家茂以降に歴史の表舞台となったということが分る。つまり江戸幕府が盤石な状態の時期には大して有用視されなかったという、若干残念な施設であったということであり、幕府と朝廷の政治的勢力関係を象徴する場であったということになる。しかも、その幕府盤石の頃は、五層の天守閣が落雷により焼失(1750年・寛延3年)し、さらに京都市中大火により本丸殿舎などが焼失(1788年・天明8年)したが、あまり復旧・修復もされずに放置されたようだ。
本丸御殿は焼失したが二の丸御殿は残ったというが、なんだか不思議な印象だ。何故ならば、二の丸御殿は外堀の内側にあるが、本丸はさらにその中の内堀の中にあったはずからだ。

堀を渡って東大手門をくぐると右手に番所があり、ここに幕府役人が詰めていたという。想像力をたくましくすれば、何となく当時の生活感が感じられるような気もする。おそらく幕府中央からは見捨てられた存在の中で、守るには意外に少数の役人達はどのように忠勤を励んだのであろうか。幕末には、それが一転することになるのだが。
そこから南に回り込んで、塀の向こうにある二の丸御殿へ向かう門は唐門と言うようだが 驚くほど豪奢である。ここにようやく創建当時の幕府の威厳を感じる。前回来た時には、このような感慨は持たなかったような気がする。
それに付き合うかのように二の丸御殿の玄関の屋根も、デザインされている。この屋根の撮影に時間をかけている外人女性が居た。中に入ると、内部は残念ながら撮影禁止。廊下は“うぐいす張り”だとの説明であるが、老朽化した結果のような音を発しており、非常に残念。この“うぐいす張り”廊下は豊臣政権末期の流行であろうか。音を出すことで暗殺を予防するというが、本当だろうか。
最初の建物は“遠侍”と呼ぶようだが、ここの“虎の間”で家康は秀頼に接見したという。秀頼の意外な偉丈夫に家康は驚愕したとの説もあるが、この接見を設定した加藤清正や福島正則の気持ちはどのようなものであったのだろうか。通常、将軍が外様大名に接見した“大広間”は、その奥の“式台”からさらに奥に位置する。“式台”は大名が将軍にではなく、幕閣の老中に挨拶する場所とのこと。ということは、玄関から少し入ったところで秀頼に接見したことになり、その地位をことさらに軽んじて見せる意味があったのだろう。“式台”の北側は“老中の間”となっている。
前回来た時は、廊下の障子が開け放たれていて建物内部は明るく、また二の丸庭園はよく見えたように記憶している。障子には注意書きがあり、老朽化のため開けていないというようなことが書かれていた。何だか残念な気分となったが、恐らく寄付が集まれば遠からず大修理が行われるのかも知れない。
その大広間であるが、こここそが大政奉還が宣せられた場所である。日本史教科書にある絵によればもっと広いような印象があるが、意外に狭い。前回来た時もこのような感想を持ったものだった。この二の丸御殿の障壁画は意味なく形式化がなされているような気がする。この広間の絵は狩野探幽作とのことだ。
この広間の構造は、金比羅さんの表書院の広間と同じで、君主は南面し南側、西側が庭に面している。君主席の右手・東側は“武者隠しの間”となっていて、護衛の侍が控えて居たというが、それも同じだ。襖の大きな赤い房が印象的だ。
“蘇鉄の間”という蘇鉄の襖絵のある廊下を経て“黒書院”に至る。ここでは、親藩や譜代の大名が内輪で将軍に対面したという。幕末であれば、さしずめ松平春嶽等はここで将軍に拝謁し、上奏したのであろうか。
さらにその奥は“白書院”となり、将軍の居間と寝室のある建物となる。意外に質素、簡素な印象で将軍が、ここで起居したとはとても思えない。恐らく、本来は本丸御殿で起居することになったのであろうが、危急存亡の幕末ではそれすら許されない時間と財政窮迫であったのだろうか。それにしてもセキュリティを考慮すれば、如何に簡素であっても本丸御殿を造るものではなかったか、と思われる程だ。だが、当時の皇居を守備した蛤御門の紛争の場を見て思うと、堀と櫓に囲まれた二の丸御殿でも十分であったのかも知れない。
ここからは各建物の裏・北側を通り、玄関に戻るだけとなる。途中にある幕閣の最高位老中の間の天井は簡素になっていて、最後に勅使の間に至る。ここは、あの“虎の間”の裏側に位置する。しかし、ここでは将軍は天皇の使い・勅使に 唯一下座することになっている。したがい何だか“武者隠し”も ほとんど不要なのか簡素な印象だ。だが その裏の部屋には、武器を置いていたとの説明はあった。



外に出るとやけにまぶしい。前回は建物から庭も見えたし、本丸にも何も無いように聞いたのでそのまま帰ったように記憶しているが、今回は庭から本丸へ回ることにした。しかし実際に、回ってみると立派な庭園であった。それでもなお、建物の障子が閉ざされているのはいかにも残念である。やがて、白書院から本丸に移る東橋に出る。



内堀の石垣は結構高く立派である。各地にある大名居城と比べて何ら遜色ない。しかし、その東橋から入る本丸楼門は素っ気ない。今、ここにある本丸御殿は、京都御苑内にあった旧桂宮御殿を1893~1894年(明治26~27年)に移築したものという。実際は1847年(弘化4年)頃に建てられたもので、宮御殿としては完全なもので、重文に指定されていて内部非公開になっている。
天守閣跡は石垣だけが南西隅に残っていて、石階段を上ってみると意外に眺望が良い。本丸御殿の向こうに東山がよく見えた。城郭が揃っていれば、十分に完璧な城になる。前回見た後に、城とは名ばかりの屋敷だけの形式的城と思い込んでしまったことをこれで反省することになった。



天守閣跡の階段を下りて、本丸御殿の玄関の前を通り、西橋を渡って内堀から外へ出る。ここには楼門の遺構は無いが、石垣は その石も大きく変わらず立派だ。櫓などは元々無かったのだろうか。そこから北へ回り込んで回遊。途中で“北中仕切門”を通るが、この門にはどのような役割があるのか不明だ。西側からの攻撃をかわし、二の丸を守るためであろうか。ならば、その時本丸の守備は どうなるのであろうか、よく理解できない。
やがて、北側に小川が流れている庭園がある。ここが清流園。瀟洒な茶屋があるが、誰が何のためにしつらえたのであろうか。後からパンフレットを読むと、1965年(昭和40年)に全国から銘石を集めて完成したとある。
緑の公園を経て南下すれば、土産物売り場からもとの番所の裏手に出る。これで、二条城観光の散策も終わりだ。
来た時は、12時前だったが、既に午後2時を回っていた。慌てて、3時からの丸太町のセミナー会場に向かう。

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